2012年3月12日月曜日

『世界』4月号,充実の「東日本大震災・原発災害 1年」特集号。魅力的な内容がいっぱい。

「3月11日」,去年も同じだったが,ことしもまた締め切りのきている原稿とにらめっこしながら過ごすことになってしまった。東京都内の各地で開催されたデモにもでかけられない,この体たらくに腹を立てながら・・・・。このところずっと部屋に閉じこもったままだ。天気も悪かったし・・・。

でも,今朝,西谷修さんのブログを開いたら「紹介したい本3冊」とあり,それを読んですぐに近くの本屋に走った。その冒頭に,『世界』4月号が紹介されていたからだ。あとの2冊,ジャン=ピエール・デュピュイの『チェルノブイリ,ある科学哲学者の怒り』(明石書房)とピエール・ルジャンドルの『西洋をエンジン・テストする,キリスト教的制度空間とその分裂』(以文社,森元庸介訳)は,いまの原稿が終わってからにしよう。

西谷さんのブログに「少なくとも,編集長岡本厚の編集後記だけでもいいから読め」というお薦めのことばにしたがって,まずは,本屋で購入する前にそこを開いた。涙がこぼれてきた。こんな経験は珍しい。たった1ページという短いスペースに,きわめて簡潔に,しかも「ツボ」をはずすことなく,「3・11」一年後のわたしたちが立たされている現状を書き切っている。さすがに『世界』の編集長だ,と脱帽。一度しか面識はないが,穏やかな,温厚そのものという印象だった。その印象どおりの,抑制の効いた,バランス感覚のよさが,わたしの涙を誘った。

西谷さんの受け売りで恐縮だが,ぜひ,書店で「編集後記」だけでもいいから読んでみてほしい。つづいて「目次」を眺めてほしい。ひととおり眺めてみれば,この4月号は購入しなければ・・・ということになること必定だ。わたしが言うのも気が引けるが,それほどに,できがいい。『世界』にあまり馴染みのない人にも,ぜひとも,4月号だけはお薦めである。

その理由も書いておこう。この時期,どの出版社の雑誌もみんな「震災」関連の特集を組んでいる。ついでに,他社の雑誌も片っ端からめくって値踏みをしてみた。それぞれに工夫をこらした特集になっている。どれも,面白そうだ。しかし,そんな中にあって『世界』だけが異色を放っている。しかも,どの論考も,いま知りたい,いま読んでおきたい,あるいは,わたしと同じ主張?と共振するようなタイトルが並ぶ。

まず,特集のタイトルに圧倒されてしまう。
「特集 悲しもう・・・・・東日本大震災・原発災害1年」とある。「悲しもう」という特集タイトルそのものが,すでにして他社の雑誌の特集タイトルとはまったく異質である。この「悲しもう」とい文字が眼に飛び込んだときから,すでに,わたしの涙腺は緩みはじめていたのだ。この一年,憂鬱で憂鬱で仕方なかった。日常的には,毎日の新聞を読みながら,日本国政府はいったいなにを考えているのかと吼えまくり,同じようにテレビをみながら怒鳴り散らし・・・・そのうちに疲れ果ててしまって憂鬱になってしまう。

そう,あまりのだらしなさ(日本国政府もメディアも)に怒りを通り越して「悲しく」なっていたのだ。しかし,「悲しい」などと言ってはならない,とみずからを叱咤していた。そして,気をとりなおして,いま,自分にできることはなにか,と必死に考えた。それらを,ほんの小さなことでしかないけれども,積み重ねていくしかない・・・と。そして,最近では「情けなく」なっていた。そこにもってきて「悲しもう」と『世界』4月号は呼び掛けてきたではないか。

そうか,悲しいときには悲しむしかないのだから,だれ憚ることなく「悲しもう」,悲しめばいいのだ,と。よし,こうなったら「3・11」後の二年目は「悲しむ」ことからはじめよう,と。

こんなわたしの個人的な感傷はともかくとして,目次を拾い読みするだけでも,ぐいぐいとわたしの気持ちは惹きつけられていく。
たとえば,つぎのようだ。

どんな復興であってはいけないか─惨事便乗型の復興から「人間の復興」へ(岡田知弘・京都大学)という論考がある。来週の月曜日(19日)には,「西谷修さんを囲む会」という研究会を開催することになっていて,そこでのテクストは『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著,岩波書店)だ。じつは,この研究会でも,当然のことながら,「惨事便乗型の復興」というテーマをひとつ立てておこうとわたしは考えていた。もちろん,岡田さんの仰るように「人間の復興」を念頭におきつつ。わたしも考えてきたことがらだが,岡田さんはどんな論を展開されているのだろうか,ともう目次をみた瞬間からドキドキする。

〔未完〕


0 件のコメント: