2012年3月28日水曜日

原発事故の真相はすべて「藪の中」。責任逃れの構造と時間稼ぎ。一寸先は闇。

一寸先は闇。なんとも恐ろしい世の中になってきたものだ。それでいてテレビはなにごともなかったかのように,「3・11」以前よりももっとバカバカしい番組がゴールデン・タイムを埋めている。主要メディアは総力を挙げて原発の事故隠しに必死だ。国民もいつしか「マヒ」してしまって,原発事故のその後のことなどすっかり忘れてしまったかのように,「3・11」以前の日常生活に舞い戻ることに熱心だ。それが,まるで「復興」であるかのように。

原発?もう収まったんでしょ。政府がそういったんだから,そう信ずるしかないよ,とは東電に大口融資をしている銀行の役員さんの発言。わたしの古くからの友人。これを直接聞いて,わたしはあんぐりと口を開けたままだった。お前はバカか,と。秀才の誉れ高い,誇り高き友人だったはずなのに。東大を卒業したエリートである。ふたたび,一寸さきは闇だ,と思った。野田総理をはじめ,あなた方の「理性」はどうなってしまったのか,と問いたい。なんのための「理性」なのか,と。生身の人間が平和に生き延びるための「理性」ではないのか,と。

原発の事故の真相は,いまも,すべて「藪の中」。因果関係が明らかにならないかぎり,だれも責任をとろうとはしない。司法もまた,手も足も出せないでいる。国民の多くは,ほとんど事実関係はわかっているのに。でも,それを法廷で立証することができないために,みんな手をこまねいたままだ。それをいいことにして,東電も政府も,その他の原子力ムラの住民も,みんな「想定外」の上にあくらをかいて,のうのうと,なにごともなかったかのように平気で暮らしている。厚顔無恥。みんな,カエルの顔にみえてくる。

福島2号機の水位,わずか60センチ,といまごろになって東電が発表した。毎日9トン近い水を注入してきたのに。格納容器損傷か,という。いい加減にしてくれ,といいたい。毎日9トンもの水を注入しても,水が溢れ出てこない理由などは小学生でもわかる。みんな漏れ出していることぐらい,東電の関係者を筆頭に,だれもがわかっていたことのはずだ。それを,いまごろになって公表する。このことの方が恐ろしい。

じつは,もっと恐ろしいことが起こっていることをすでに察知していて,このままでは近いうちに制御不能の事態にいたりそうだという予測があって,それを前提にした予告ではないか,とわたしなどは真剣に考えてしまう。これまでの,細切れ的にほんとうの情報を,後追い的に少しずつ少しずつ公表してきた東電・政府の姿勢から,そう思わざるをえない。だから,むしろ,怖い。近い将来,もっと恐ろしいなにかが起きるな,と。

パスカルは『パンセ』のなかで書いている。有名な「賭け」の話のなかで。「神はいるか,いないか」と問われたら,文句なく「いる」という方に賭ける,と。なぜなら,「いない」という方に賭けてしまったら,その時点で生きる望みを失ってしまうから。「いる」という方に賭けておけば,さらに,確率二分の一の希望が残されるからだ,と熱っぽく書いている。

わたしたちは,いま,ちょうど,これと同じ状態に置かれている。原発は大丈夫か,と問われれば「大丈夫だ」という方に賭けるしかない。そうして,なんとか平穏無事のうちに収束することを願うしかないのだから。もし,「大丈夫ではない」という方に賭けたら,もはや,わたしたちの未来はなくなってしまう。だから,みんな息をひそめて,なんとか無事に「収束」して欲しいと,祈っるだけなのだ。それ以上の方法を持ち合わせてはいないのだから。

もはや,「祈る」しか方法がない,そういう現実を,わたしたちは生きているのだ。この科学万能と言われる時代に。なんとも矛盾した話ではないか。

にもかかわらず,利権にしか「理性」が働かないエリートたちは,「祈る」ことすら忘れて,既得権益にしがみつこうとしている。人間失格。

こんな人たちが,いまの日本を動かしている。
一寸さきは闇だ。情けないが,それが現実。

甲子園野球の開会式で,主催者や来賓の挨拶の,なんと白々しかったことか。それに引き換え,石巻工業高校のキャプテンが,とつとつと,しかし,無駄なことばを一切はぶいた,選び抜かれた思いの籠もったことばの,なんと重かったことか。「理性」とは,かくあるべし,とわたしは感動とともに涙した。そこには「祈り」のことばがあった。

わたし自身も大いに反省させられた。大勢の人の前に立ち,話をすることを生業としてきた人間のはしくれとして,あのキャプテンほどの力のあることばを,もう一度,取り返さなくてはならない,と。

国会答弁はもとより,記者会見などで語られる「偉い人」たちの,あのいい加減な物言いが,ごく当たり前のように許されている社会そのものが,こんにちの日本の社会の象徴として浮かび上がってくる。東電も政府も,どこもかしこも,みんな「無責任」体制の維持のためにしか「理性」を働かせていない,この体質こそが「3・11」を引き起こしたことを忘れてはなるまい。

わたしたちは,いま,ほんとうの「理性」とは,いかにあるべきか,ただ,この一点のみが問われているのだ。そのことを,いまこそ,肝に銘ずるべし,としみじみ思う。


0 件のコメント: