2012年4月15日日曜日

テレビ「滅びゆく民族SP」アマゾンの少数民族・伝統と近代化の間で,をみる。

久しぶりに本気でテレビをみました。手元にあった広告の裏紙にメモをとりながら。ときには,ナレーションのあまりのお粗末さに吼えたりしながら。2時間もある長い番組でした。いつになく見終わったあと,なんとも言えない虚脱感に襲われ,落ち込んでしまいました。こういう番組はもう二度とみたくないという気持と,こういう番組をこそ厳しく「批評」していかなくてはならないという気持とが相半ばしつつ・・・・。でも,どう考えてみても,「近代化」という恐るべき暴力装置には,とてもとても抗しきれるものではない・・・・・ということもわかってしまう・・・・そのことが悔しい・・・・・。

どこまで考えていっても,最後は絶望の淵に追い込まれていくしかありません。いまの自分の立ち位置のあまりの無力さに,絶望感が増すばかり・・・。手も足も出せないまま,ただテレビをみているだけではないか,と。なので,ますます悲しくなるばかり・・・・。いまも,立ち直れないまま・・・・。いよいよ声を大にして行動を起こすしかないのか,とじっと考えにふけっています。

でも,なんとかして,わたしのなかにわだかまっているこのもやもやを一度吐き出さないことには・・・と考え,この文章を書いています。

4月13日(金)午後8時54分~10時48分。テレビ東京の番組「愛と絆ドキュメント”滅びゆく民族SP”~徳重聡がアマゾンの少数民族の村を訪ねた,伝統と近代化の間で~。(※じつは,この新聞に記載されている番組案内の文言そのものに腹が立って腹が立って仕方がないのです。こういう文言がなんの抵抗もなく世間に流通しているという事実が,まずは,わたしのこころの奥深くで苛立ちを覚えます。

この番組をみてみようと思った直接の引き金は「伝統と近代化の間で」というキャッチでした。というのも,このところ「グロバリゼーションとはなにか」という大きなテーマを掲げながら,スポーツ文化やスポーツ史の根源的な問い直しという作業に取り組んでいるからです。ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の問題についても,同じ問題意識から,西谷修さんにわたしたちの研究会にお出でいただいてお話をしていただきました。(※このときの西谷さんのお話は,いま,テープ起こしをやっていて,いずれ機会をみつけて活字として公表したいと思っています。)

しかも,こんどの4月21日(土)には大阪学院大学での研究会で,わたしがプレゼンテーターとなって「グローバリゼーションとはなにか」──スポーツ史・スポーツ文化論の根源的な問い直しのために──というテーマで話題を提供することになっています。このテーマで観念的な抽象論を展開してもほとんど意味がないと考えていますので,できるだけ具体的な事例を取り上げて,問題の所在をみんなで議論したいと考えているところです。ですから,「伝統と近代化の間で」と言われてしまいますと,どうしても「みておかなくては・・・」となってしまいます。

もっと言っておけば,8月には,第2回日本・バスク国際セミナーが神戸市外国語大学で開催されます。そのときのテーマが「民族スポーツとグローバリゼーション」というわけです。わたしも,これに参加して基調講演を行うことになっています。その準備のための研究会も,もう,何回も積み重ねてきています。メンバーの熱も次第に高くなりつつあります。当然,わたしの頭のなかもヒート・アップしてきています。

そんな状態で,昨夜のテレビをみることになった,というわけです。ですから,最初から,一般の視聴者とはまったく異なる視点から,この番組をみようとしていました。そのための落差が,この番組をみていてのわたしの苛立ちを生むことになりました。ほんとうに許しがたいという場面がいくつかありました。そのうちのもっとも大きな苛立ちは,こうしたテレビ・クルーによる現地での取材そのものが,かれらの生活や文化にとっては,暴力以外のなにものでもない,という認識を番組関係者に欠落している,という点にあります。

でも,いくつかのシーンは,とても勉強になりました。たとえば,アマゾンのジャガー・ピープルと呼ばれているマティス民族の人びとの狩猟にかかわるさまざまな儀礼のシーンです。ジャングルのなかに生い茂っている大きな葉っぱをかき集めてきて,それを全身いっぱいに括りつけ,頭も覆って,仮面を被ってしまえば,その人は,もう,完全なる「精霊」になりきります。この「精霊」とマティス族の人びとが「戯れる」シーンは,やはり映像にまさるものはありません。

もうひとつは「動物になりきる儀式」というシーンでした。これはもう,人間が動物性の世界にかぎりなく接近していくための「儀礼」だ,とわたしの眼には映りました。バタイユがいうところの動物性への回帰願望のひとつの典型的な表象ともいうべき儀礼です。こういう儀礼をとおして,人間性と動物性の間の溝をかぎりなく「ゼロ」(=0)にしていくこと,そして,捕獲した動物を食べるということの根拠を動物性の世界に求め,みずからを納得させようとしているのではないか,とわたしは解釈したりしています。つまり,上位の動物が下位の動物を食べるのはごく自然の営みであり,この自然にわたしたち人間も従おうとしているのだ,と。

このことをみずからに納得させるために,人間はこれほどまでに熱心に儀礼を執り行うのだ,ということにいまさらながら驚きを禁じえません。やはり,動物性の世界から離脱し,人間性の世界に移動してしまったことに対する畏怖の念の表出,そして,その人間性の論理(有用性)を一度,御破算にすること,つまり,有用性の論理をそのまま動物性の世界に当てはめることへの抵抗感の表出,それらがないまぜになって「精霊」との戯れや「動物になりきる」儀礼が成立しているということが,わたしには手にとるようにわかります。

こういう原初の人間に近い生活をいまもつづけている民族がアマゾン川流域には,まだまだ,たくさん残っていると言われています。その数すら精確にはわかっていない,とも。

こういう生活を営んでいる民族にも,近代化の波は押し寄せてきます。文明化した世界の側からの,いわゆる「開発」という名の資本の力による自然破壊です。まずは,マティス民族にしても,周囲の木が伐採されてしまったために食用としていた動物が圧倒的に少なくなってしまって,生きていくことすらおぼつかなくなっている,と村長さんはいいます。森が減ってしまったために,雨が降るとすぐに大水となり氾濫し,住居を高台に移さなくてはならない,とも。おまけに,いまも男女ともに裸体で生活しているマティス族の世界に,こうしてテレビ・クルーが入って行けば,ただ,それだけで「文明」の洗礼を受けることになります。そして,かれらにとっての命綱ともいうべき「塩」が,おみやげとしていとも簡単に手に入るようになります。こんな身近なところから,マティス族の生活習慣はあっという間に根底から変化していきます。

そんなことはわかり切っているのに,「滅びゆく民族SP」などというタイトルをつけて,ひたすら視聴率を高めることだけが目的(資本の論理)の番組として制作されることになります。それを,お茶の間で,珍しいものをみる一員として,わたしもまたカウントされ,視聴率向上のために貢献しているというわけです。

これもまた,グローバリゼーションのひとつの重要な局面であるわけです。わたしという存在もまた,口では屁理屈を言いつつも,結果的にはグローバリゼーションを推進していく巨大なマシーンの,その歯車のひとつにすぎません。このことに気づくとき,わたしはなすべきすべもなく茫然自失してしまいます。

それだけではありません。わたしたち自身もまた日本人として,やはりグローバリゼーションの余波を比較的早い時期に受けて,こんにちのライフ・スタイルを築き上げてきたにすぎません。その結果,だれが「得」をしたというのでしょうか。そして,だれが「犠牲」になったというのでしょうか。この視点は,歴史というものを考えるときに不可欠なものだ,とずいぶんむかしに教えてくれた人がいます。けだし,名言だった,といまにして思います。

さて,思いがけず長くなってしまいました。
やはり,文章にしてみるというのはいいこです。わたしのなかのもやもやがかなり明確になってきました。そして,グローバリゼーションとはなにか,という問いへの応答の仕方も以前よりは明確になってきたように思います。もちろん,もっときめ細かな詰めが必要であることは論を待つまでもありません。が,際限がありませんので,ひとまず,この論考はここまでとします。

0 件のコメント: