2012年4月24日火曜日

『ISIM Journal』第2号=被災地から考えた「スポーツ」と「情報」,がとどく。

この3月まで仙台大学に勤務,そして,4月からは大阪体育大学で新たなスタートを切った中房敏朗さんから,表記の『ジャーナル』が送られてきた。したがって,この『ジャーナル』は,前の勤務大学のスポーツ情報マスメディア研究所の機関誌で,年1回発行とある。しかも,第2号とある。

ちなみに第1号は,と思って確認してみたら,2010年8月16日に発行されている。つまり,「3・11」以前に刊行されている。その創刊号の特集は「スポーツを『ジャーナルする力』」となっている。まことに画期的な企画である。寡聞にしてわたしの耳に達していないだけかもしれないが,「スポーツ情報マスメディア研究所」を大学の付属施設としてもっている大学は仙台大学だけではないか,とおもう。しかも,「スポーツ情報マスメディア学科」まであって,これを専攻する学生さんがいて,これから数年経つと,その専門家が卒業生として世にでることになる。

この人たちが,どういう職場を開拓していくのか,きわめて興味深い。世はまさに「IT時代」に入って,スポーツの世界もまったく新しい時代が切り開かれつつある。これまでの新聞,ラジオ,テレビ,映画,雑誌といった近代になって切り開かれた新しいメディア,それも「マス・メディア」の時代を突き抜けて,これまでとはまったく異なる時代,すなわち,インターネットによる電子メディアが予測不可能な情報伝達の分野を開発しつつある。そこに「スポーツ情報マスメディア」の専門家が参入するのである。頼もしいかぎりである。

最近になって,ようやくスポーツ界で活躍した元名選手のうちの,タレント性にめぐまれたごくわずかな人たちが,メディアの世界で活躍するようになってきた。ほとんどの場合は,インタヴューアーの範囲をでないが,そのうち独自に取材をして,独自のスポーツ情報を発信する人たちが現れてくるのも時間の問題だろう。スポーツマン/ウーマンにはそのような才能にめぐまれた人も少なくないはず。その意味でも,仙台大学が「スポーツ情報マスメディア」学科を開設し,おまけに大学の付属施設として「スポーツ情報マスメディア」研究所まで設置したことは快挙というべきだろう。

じつを言えば,わたしが東京の某スポーツ系大学に勤務していたころに,「スポーツ情報学研究所」の設置をプランニングして,教授会にも提案し,もうすぐ設置というところまで進展したのに,最後のところで頓挫してしまった。なにが理由であるかもわからないままに・・・・。それは2000年前後の話である。それのみならず,わたしは「スポーツ情報学」に関する論文も何本か大学紀要に書いて,大いに啓蒙につとめたのである。これは事実なので,紀要の目録を検索すればすぐにわかることだ。しかし,反対意見を聞くこともなく,立ち消えになってしまった。今にして思えば,だれがこのプランを没にしたかも,手にとるようにわかるのだが・・・・。情けないかぎりである。というより,勿体ないかぎりである。

余分なことを書いてしまったが,なにを隠そう,わたし自身が一度はその設置を夢見ていた人間なので,じつは,羨ましくて仕方がないのである。大学と企業とが合体して,共同研究機関として「スポーツ情報センター」のようなものが,あちこちでできていることは承知している。しかし,大学が単独で,このような学科と付属研究所をもっているという話は寡聞にして聞いたことはない。

もう少しだけ言っておけば,「スポーツ情報学」という学問領域をしっかりと立ち上げることが先決なのかな,という印象をこの『ジャーナル』を眺めながら感じた次第である。つまり,「スポーツ情報」とはなにかという概念を明確にしないと,なにを,どのように「研究」するのかというミッションが明確になってこない。つまり,「スポーツ情報学」を成立させるための固有の「研究領域」「研究方法」「研究対象」を,まずは暫定的にしろ,確認し,共有することが不可欠ではないか,ということだ。

その迷いの最たるものが「スポーツ情報マスメデア」という用語に集約的に表出しているようにおもう。このことばがなにを意味しようとしているのか,頭をひねってしまう。「スポーツ情報」と「マスメディア」はある意味で同語反復である。トートロジーだ。

いっそのこと「スポーツ・ジャーナリズム」としてみてはどうなのだろうか。「スポーツ・ジャーナリズム学科」「スポーツ・ジャーナリズム研究所」と名乗った方が,わたしの眼には,はるかにすっきりするし,若者の受けも,世間の受けもいいのではないか。そして,はっきりと「スポーツ・ジャーナリスト」を養成するのだ,と堂々と宣言してはどうか。

いささか勇み足をしてしまったが,どうぞ,ご海容のほどを。とくに他意があるわけではなく,よりよい方向へのわたしなりの提案のつもりである。

このような提案をするには理由がある。なぜなら,スポーツ・ジャーナリズムの世界で活躍するほとんどの人は,大学でスポーツ学や体育学を専門として学んだ経験をもっていない。他学部で体育やスポーツとは関係のない学問を収めた人びとだ。それがいけないとは言わない。そういう人たちのなかから立派なスポーツ・ジャーナリストが何人も輩出していることは,わたしも承知している。しかし,わたしが接してきた多くのスポーツ・ジャーナリストは,残念ながら,スポーツに関する基礎的な教養があまりに欠落していて,話をするにも忍びないほどのレベルで,困ることが多い。ときには,スポーツ経験もスポーツへの愛情も欠落しているスポーツ・ジャーナリストに出会うことがある。そして,ただ,ひたすら,目の前に展開されているオリンピックやワールドカップや大相撲や野球やサッカーを追いかけて,まったく個人的な,あるいは近視眼的な価値判断をくだし,それらを「スポーツ情報」として発信し,それで是としている。なかには,じつによく勉強しているスポーツ・ジャーナリストもいる。しかし,そういう人は特例に近い。あとの人たちは,スポーツの歴史や思想や哲学に関する基礎知識を,ほとんど持ち合わせてはいない。そこで製造・加工され,発信される「スポーツ情報」とはいったいなにか。考えると恐ろしい。しかも,そういう「スポーツ情報」が世間に流通していて,世論を形成しているのである。その最たるものが,朝青龍問題のように,確たる根拠もないまま大相撲の世界から追い落としてしまった「スポーツ・ジャーナリズム」の恐るべき「暴力性」である。(このことについては,雑誌『世界』や『現代思想』にも,対談や論考を寄せているので,参照していただきたい。加えて『近代スポーツのミッションは終わったか──身体・メディア・世界』平凡社,共著も参照していただければ幸いである。)その傾向は,いまも,少しも衰えてはいない。いわゆる,マスコミによる「バッシング」である。そのレベルの低俗さには呆れてしまう。そこには,なんの思想も哲学のかけらも見届けることはできない。

すくなくとも「スポーツとはなにか」という単純・素朴な疑問をつねに抱きつつ,そして,つねに,その「解」を求めつつ(文献による調査・研究),現場に立つことがスポーツ・ジャーナリストにあっては不可欠である,とわたしは考えている。そして,なにより大事なことは,スポーツに対する限りない「愛」だ。まずは,みずからがスポーツに全身全霊で情熱を傾けた経験をもつ人間であること。そこを通過した人間であることが,スポーツの指導者になるための大前提であることはだれもが認めるところだろう。スポーツ・ジャーナリストもまた,立派なスポーツの指導者の一員である,というのがわたしの認識である。だからこそ,スポーツ系大学,あるいは,体育学部で,スポーツに関する実技と理論を学んだ人間のなかから,少しでも多くのスポーツ・ジャーナリストが輩出することを,わたしは夢みている。

以上が,「勇み足」をした理由である。
関係者各位に失礼があったらお許しいただきたい。ただひたすら,もっともっとスポーツ界がよくなることを願っての「勇み足」である,とご理解いただきたい。
なによりも,まずは,送り届けてくださった中房敏朗さんに感謝しつつ,そして,第3号の刊行を楽しみに,このブログを閉じたいと思います。ありがとうございました。久しぶりに熱くなってしまいました。お蔭さまで,ふだん,気がかりになっていたことの思考が,これを機にまた広げることができました。感謝,感謝。

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