2012年6月14日木曜日

ピエール・ルジャンドルの「ドグマ的なもの」について・その5.スポーツと神判の関係について。

いつのまにか『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』の方に比重が移ってしまったので,ついでにもう一点だけ触れておきたいとおもう。

『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』の第二部 歴史から論理へ──ローマ法の帝国,第二章 真理の証拠を生み出す,2.証拠のなかの証拠,人体。近代的な心-身主義の法的基礎に関する注記,の最後のところでルジャンドルは,なんと「スポーツ」の問題を取り上げている。初めてこの言説に触れたとき(もう,ずいぶん前のことになるが),わたしはわが眼を疑った。

当然のことながら,これまでわたしたちが馴染んできたスポーツ史やスポーツ文化論の視点とはまったく異なる,意表をつく,驚くべきまなざしをそこに見届けることができたからだ。「ドグマ的なもの」が,スポーツのなかにこんな形で紛れ込んでいるのだ,ということを知る最初のきっかけであった。と同時に,これからのわたし自身の研究課題が,ここからいくつも導き出せるという点で,欣喜雀躍したものである。よし,これで近代スポーツを脱構築するための力強い根拠をここにも見出すことができる,と。あとは,そのための理論仮説をいくつか立てては崩しの繰り返し。でも,それはこれまでに経験したことのない快感でもあった。そのことに関しては,また,いつか別の項目を立てて,このブログで論じてみたいとおもう。

ここでは,まずは,ルジャンドルの言説を引きながら,その重要なポイントについて考えることから始めよう。

──スポーツと神判の関係。仕上げにこの点を付け加えることで,西洋的理性が最終的に抑圧してしまった,人体を争点とする諸要素の複雑さに気づいてもらおう。ローマ法が復活すると同時に追放された「神の裁き=神判」は,きわめて多彩な試練を用意しており,他人の身体を代理にする可能性も時には残されていた。他人の身体が当人に代わって真理のために苦難を受けたり決闘したりしてくれるのである。誰かの名において苦難に耐えるというこの注目すべき事態は,法制史の文献中にも確かめることができる。だがわたしは決闘裁判のほうに注目したい。チャンピオン〔決闘代理人〕(これはテクニカルな表現で,時にラテン語の弁護士〔advocatus〕と同義だった)たちが,決着を待ちわびる人びとの面前で対決するのである。(P.71~72.)

長い間,スポーツ史研究にたずさわってきた人間としては恥ずかしながら,このような視座に立つ論考に接したことがない。眼から鱗である。ローマ法が復活するまでは,神判が生きていて,「他人の身体を代理にする可能性」も残されていたという。考えてみれば,「神の裁き」だからこそ「他人の身体」で代理することも可能なのだし,そこに「真理」を見極めることも可能だったのだ。こんにちのわたしたちからは考えも及ばないような話であるが・・・・。しかし,そこに「真」を認めて生きていた人たちがいたという事実。それどころか「見えるもの」として公衆の面前でそれが現前するという「ドグマ」こそが「真」である,と信じた人たちを,わたしたちは笑うことができるだろうか。わたしたちもまた,いまも,その「ドグマ」を信じて生きているのだから。つまり,自分の眼で確認できたものに「真」をおく。それに依拠しながら「生」を模索しているのが,まぎれもなくいまも変わらないわたしたちの姿なのだから。

もう一点,チャンピオン=決闘代理人=弁護士,というルジャンドルの指摘にわたしは戦慄を覚える。ウーン,そういうことであったのか,と。そして,この「弁護士」(=チャンピオン)が大観衆の面前で決着をつけるべく対決するのだ,と。まさに,これは「裁判」以外のなにものでもない。このあとでルジャンドルが触れる「訴訟学」の現実は,こういうことなのだ,と理解することができる。わたしのからだは「空中分解」しそうなほどに打ち震えている。

このようして,この「ドグマ的なもの」が,こんにちの産業的ドグマ空間のなかにも厳然と生き長らえている,とルジャンドルはその根拠を示しつつ,力説するのである。

しかし,ここでは,ルジャンドルは「決闘裁判」の方に注目したい,としてつぎのような論を展開している。以下はその引用文である。

スポーツの試合でも訴訟学が機能しているのは確かである。この問題はA.シュッツによってサッカーとテニスについての実りある議論のなかで提起された。ワールドカップやウインブルドンの決勝は,テレビを見るあらゆる文化の何万という人々のために,絶対的<他者>への準拠のもとで行われる対決への人間的な期待を演出しているのであり,同時に現代のチャンピオンたちはその一挙一動を訴訟に委ねているのである。この訴訟の規則は,たとえばイギリス法(ローマ法の法的精神にもっとも近い)の裁判をモデルに組織されたテニスの場合のように,ローマ法の「告訴(action civile)」と紛れもなく等しい。こうした指摘によって浮び上がるのは,証拠と訴訟の領域において科学的発想(われわれのもの)と野蛮な発想(神判)とを対比させる歴史学の作為的な性質である。客観性の文明は無意識の野蛮さと完全に両立しているのだ。

こういうルジャンドルの言説に接して,ふたたび,わたしのからだは全身で反応する。震えが止まらない。かつて,このような言説に触れたことがあるだろうか。ここまで,言い切られてしまうと,わたしにはもはや受けて立つ根拠はなにもない。しかも,ルジャンドルの指摘にはそのまま,なぜか首肯してしまうわたしがいる。ならば,その眼で,もう一度,わたしが長年取り組んできてスポーツ史研究のあり方を問い直すしかない。

残念ながら,わたしはA.シュッツの議論を知らない。これから,どのような議論であるのか確認する必要があるのだが,それを省略してもなお納得してしまうわたしがいる。こんにち世界に流布しているサッカーやテニスの「ルール」はすべて19世紀後半のイギリスにおいて「考案」されたものである。しかも,その「ルール」が「ローマ法の法的精神にもっとも近い」「イギリス法」にならって制定されたのだ,というルジャンドルの指摘には,そのまま「そうですか」と言うしかない。このあたりのことは,これからもう少し,自分なりに納得のいくように詰めをしておく必要があるだろう。

その上で,なおかつ,つぎのようなルジャンドルの指摘は,わたしをして茫然自失させる。「こうした指摘によって浮び上がるのは,証拠と訴訟の領域において科学的発想(われわれのもの)と野蛮な発想(神判)とを対比させる歴史学の作為的な性質である」という言説である。しかも,「客観性の文明は無意識の野蛮さと完全に両立しているのだ」と断言されてしまうと,もはや,逃げる場所がなくなってしまう。しかも,これはわたしの読解にすぎないが,これこそが<真理>なのであり,<ドグマ>なのだ,とルジャンドルが叫んでいるように聞こえる。

ことここに至って,はじめて『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』という書名の意味が,わたしなりに納得である。が,そう断定してしまうのはいましばらく担保しておくことにしよう。もう少しだけ詰めをしてからでも遅くはない。

ここでは,スポーツこそ「ドグマ的なもの」の宝庫ではないか,というわたしなりの結論を公表しておくに止めておきたい。それほどに,スポーツを考えることは,これからますます重要な課題になる,という確信をルジャンドルはわたしに提示してくれているように思う。

というところで,今回のところはひとまず終わり。

1 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

スポーツのルールは、イギリス法に則ったものであり、チャンピオンは弁護士とのたとえ、非常にわかりやすかったです。
 ただ、幾つかの疑問と興味もわきました。
 たとえば弁護士、同じ弁護士という資格でも国によって所掌範囲がかなり異なります。
 よくアメリカは弁護士(attorney)の数が多いといわれますが、アメリカには、司法書士とか行政書士、さらには税理士といった資格はなく、弁護士といっても日本で言う行政書士のような仕事をしている者もそうとういるわけです。
 一方、イギリスでは事務弁護士(solicitor)と法廷弁護士(advocate)にわかれています。
 「チャンピオン=決闘代理人=弁護士」あるいは「イギリス法(ローマ法の法的精神にもっとも近い)の裁判をモデルに組織されたテニス」との文言からイギリスの法廷弁護士のような姿が想像されます。
 イギリスの法廷弁護士は訴訟当事者から直接依頼を受けるのではなく、法廷での弁論が必要になったときに、事務弁護士からの委任を受けて初めて事件に関与するといったもので、わが国でいう任意代理人による復代理人の選任(民法104条)に近い権能ということになります。
 『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』内の弁護士という訳語はラテン語のadvocatusということですから、法廷弁護士のイメージでいいと思いますが、ラテン語のadvocatusには、代弁者といった意味があるようですね。
 いずれにしても、現在のわが国の弁護士とは、ちょっと概念が違うように思いました。江戸時代わが国には、公式な仕事として公事宿や白タク営業の公事師があり、その後、フランスに倣い代言人がおかれます。私はラテン語はまったくわかりませんが、『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』内の弁護士という訳語は、現在のわが国の弁護士より明治時代の代言人に近いように思いました。
 著者のピエール・ルジャンドルという方、不勉強でどのような人物か知らず、検索したところフランスの法制史が専門なんですね。
 イギリスやアメリカでは、法廷において弁護士が重要な役割を果たすわけですが、フランスやドイツでは、公証人がより重要な役割を果たし、その地位も高いものです。
 チャンピオンが代言人ならば、公証人に該当するのは・・・
 公証人はあるいは審判なのか?ボクシングにレフェリーとジャッジが居るのはなぜなのか等々、興味がわきます。
 またチャンピオンで思い浮かぶのは、その選定方法です。
 陸上競技のようなものは、対戦しなくてもチャンピオンをきめることができますが、対戦によりきめるものもあります。さらに現在暫定王者というややこしいルールができてしまってますが、ボクシングのように前王者と直接対決し、前王者を倒した者が新チャンピオンになるものもあれば、チャンピオンにシード権等を与えていても総当りで勝ち残った者が新たなチャンピオンになるものもあります。
 横綱というのは、選定方法から見ても、西欧のチャンピオンと異なるものですし、ルール自体も当然イギリス法に準拠するものではありません。
 とりとめのない話になりましたが、以上のようなことを考えました。