2012年6月19日火曜日

橋本一径さんを囲む会に,西谷修さんが乱入して,大いに盛り上がる(第62回「ISC・21」6月東京例会)。

 6月16日(土)の午後に,「ISC・21」6月東京例会に橋本一径さんをお迎えしてお話を伺うことにしていましたところ,突如,西谷修さんが参加してくださり,みんなびっくり。でも,橋本さんのプレゼンテーションの途中から,西谷さんが積極的に会を盛り上げてくださり,みなさん大喜び。

 で,わたしも予定を変更して,参加してくださった人たちに積極的に発言してもらうことに。ほんとうのところは,わたしの関心事に引きつけて,橋本さんへの質問はいくつか準備してありました。が,これを投げるよりは,参加者の問題関心(研究テーマ)に即して,ルジャンドルに関する橋本さんのお話をどのように受け止めたのか,話してもらう方が面白いと判断しました。案の定,みなさんがとても面白い反応をしてくださったので,それに触発されたようにして,西谷さんが話を展開してくださり,ルジャンドル理解を助けてくれることになりました。

 橋本さんのプレゼンテーションのタイトルは「ピエール・ルジャンドルの身体論とその地平」というものでした。わたしたちの研究会に合わせて,内容も工夫してくださり,ありがたいことでした。その冒頭で,「ドーピングの哲学」とでもいうべき最新の論文の紹介からはじまりました。出典はフランス語ですので,ここでは割愛しますが,2011年に出た本のP.19~34.に収められている論文です。話の骨子は,「イーロ・マンチランタ(1930~)」というフィンランドのノルディック・スキーヤーの「ドーピング疑惑」を追跡したところ,意外な事実が明らかになった,というお話です。

 かれは,インスブルック五輪で金メダリスト(15km,30km)。グルノーブル五輪で銀・洞メダリスト(同)。しかし,その後にドーピング疑惑が持ち上がり,その謎を解いていくうちに,父祖伝来の特異体質であることがわかって,一件落着。しかし,この特異体質がドーピング疑惑の原因であることが実証されたからよかったものの,もし,そうでなかったとしたらドーピング疑惑は晴れることなく,生涯その濡れ衣を着せられたままになります。一種の冤罪です。

 そこで問題になるのが,「生まれながらの身体」の虚構性。
 わたしたちは「生まれながらの身体」こそは自然のままの身体であり,「所与」のものとして,つまり,身体の「原型」(Urformen)として,なんの疑いも抱きません。しかし,よくよく考えてみますと,この「生まれながらの身体」もまた,ひとつの虚構でしかない,ということがわかってきます。その典型的な例のひとつがこのイーロ・マンチランタ選手の場合に当てはまるというわけです。

 かれは,父祖伝来の特異体質(血中ヘモグロビンの酸素運搬機能がふつうの人よりも突出して優れている)を「生まれながらの身体」として,所与されました。だから,かれ自身もまた,自分が特異体質の人間であるという自覚はなかったと思います。しかし,子どものころからスキーのディスタンスをやってみたら,ふつうの子どもたちよりも頑張れることに気づいたに違いありません。その体験の積み重ねがかれをノルディック競技の道へと誘ったのだろうと思います。

 考えてみれば,人がなにかのスポーツにのめり込んでいくきっかけは,みんな同じような体験にあるように思います。なにかの拍子に,周囲の子どもたちよりも「適性」があるなと気づきます。それは,スポーツにかぎらず,音楽や絵画にしてもそうです。また,数学や文学についても同じです。しかし,天才的な音楽家や数学者を「特異体質」とは言いません。やはり,スポーツのように「からだ」全体を駆使して優劣を競う領域だからこそ,「生まれながらの身体」の特異体質が問題になります。背が高い,体重が重い,などは眼にみえる差異ですが,血中ヘモグロビンの機能となると眼で確認することはできません。自分でもわかりません。自他ともにわかりません。

 こうして,「生まれながらの身体」もまた虚構でしかない,という事実が浮かび上がってきます。つまり,性の同一性の問題と同じことが,ここでも起こっているということです。

 この話を手がかりにして『同一性の謎 知ることと主体の闇』(ピエール・ルジャンドル著,橋本一径訳,以文社,2012年)の「訳者あとがき」を軸にした橋本さんのお話が佳境に入っていきました。お話の最後にピエール・ルジャンドルのテクストを映像化したDVDの上映がありました。

 この映像をみながら,西谷修さんが解説を兼ねて,さらに話題をふくらませ,ルジャンドル理解の道案内をしてくださいました。橋本さんのお話に華を添えるといいますか,応援団長の役割をはたしてくださり,そのあとの議論も盛り上げてくださいました。ありがたいことです。

 このあと話題になったことの一部を紹介しておきますと以下のとおりです。
 スポーツのマネージメントの話,モンゴル人の身体の「所有」と「処分」の問題,「現代スポーツの苦悩を探る」(ことしのスポーツ史学会のシンポジウム・テーマ)からの問題提起,1920年代のドイツの体操改革運動がめざした「身体の解放」の問題,現代の学生の身体意識をめぐる問題,などじつに盛り沢山な議論が展開しました。

 この研究会の内容については,できれば,『スポートロジイ』第2号に掲載できるよう準備を進めたいと思っています。そこから,また,新たな議論が展開すること期待しながら・・・。

 会が終わると,すぐに西谷さんは急いで帰路につかれました。わたしが知るかぎりでも超多忙のなか,時間を割いて参加してくださったことに深く感謝します。ありがとうございました。

 このあとは,いつものように懇親会があり,その流れは二次会までつづきました。橋本さんには最後までお付き合いくださり,とても有意義な時間を過ごすことができました。これもまた感謝。

 次回は,7月7日(土),第63回「ISC・21」7月神戸例会となります。詳細については,近々,HPの掲示板に公表される予定です。お見逃しなく。

 以上,第62回「ISC・21」6月東京例会のご報告まで。

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