2012年6月11日月曜日

いま,なぜ,「ドグマ人類学」(ピエール・ルジャンドル)なのか。

「ドグマ人類学」なるものを標榜し,西洋的「知」の「ドグマ性」を暴きだして見せ,西洋的規範システムの特性とその限界を問いつづけている異色の思想家・哲学者ピエール・ルジャンドルの思考が,このところにわかに,わたしのこころを打ちはじめている。

その手の内を,最初に明かしておけば,以下のとおりである。
西洋的規範システム,産業的ドグマ空間,西洋的制度,産業システム,テクノサイエンス経済,などといったピエール・ルジャンドルが駆使する独特のタームに眼を奪われてしまって,なかなか「ドグマ人類学」の本質に接近できないでいる人は少なくないだろう。かく申すわたしもそのうちのひとりである。が,あるとき,ここに「近代スポーツ競技」という補助線を引いてみた。曖昧模糊としていたこれらのタームが,一瞬にして,全部「近代スポーツ競技」という写し鏡に照らしだされ,「なるほど」とわたしの中でストンと落ちるものがあった。そうか,近代スポーツ競技という,わたしにとってはもっとも身近な,そして,長い間,その歴史について考えてきた研究対象を,そのまま,「ドグマ人類学」の土俵におろしてみればいい,と。

そして,スポーツ文化こそ,「ドグマ的なるもの」を考える絶好の素材ではないか,と。

たとえば,パナキュラーなスポーツからインダストリアルなスポーツへとみごとに変身してみせたものだけが(つまり,「ルール」(=「法」)によって規範化されることによって近代化を果たしたものだけが)近代スポーツとして,国際社会に進展していくことになった。すなわち,西洋産の近代スポーツ競技である。そして,この近代スポーツ競技は,みごとに西洋的規範システムを体現するものとして威力を発揮し,やがて世界制覇をめざしていくことになる。気がついてみれば,オリンピック・ムーブメントや世界選手権は,いまや西洋的規範システムとして不動の地位を獲得している。すなわち,スポーツによる「普遍」の実現である。

しかしながら,スポーツにとっての「ルール」とはなにか。「ルール」がどのようにして成立してきたか。「ルール」はアスリートにとってなにを意味しているのか。ルジャンドルのような視点と方法を駆使して細部にまで分け入っていったとき,そこになにが現れるのであろうか。おそらく,間違いなく,ルジャンドルのいう「ドグマ的なるもの」に突き当たるはずである。

1000分の1秒まで計測して,勝敗を決するとはどういうことを意味しているのか。ハイ・テクノロジーを駆使した体操競技の行く末は?などなど。

まだ,ラフスケッチの段階ではあるが,その細部についてさまざまに思いを巡らすとき,ルジャンドルの「ドグマ人類学」の手法を用いることによって,ようやく,「3・11」後の,すなわち,後近代のスポーツ文化の展望がえられるようになるのではないか,とわたしは考えている。

そのためには,まずは,ルジャンドルのテクストをしっかりと読み解くことが先決である。
今週の土曜日(6月16日)に開催される第62回「ISC・21」6月東京例会(青山学院大学)での,橋本一径さんのお話が楽しみである。(開催要領など詳細については,6月2日のブログを参照のこと)

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