2012年6月12日火曜日

ピエール・ルジャンドルの「ドグマ的なもの」について。その2.「身体」と「ことば」の結節点となる「ドグマ」。

前回のブログのつづき。

そこで引用した西谷修の文章の前段には,つぎのような重要な指摘がなされている。まずは,それを引いて,そこからはじめよう。

・・・・「ドグマ人類学」とは,一言で言えば,人間を「話す種」として捉え,その「種」の再生産を「ドグマ的なもの」を軸に研究する学問だということになろうか。「人類学」と言うからには,「人間」のさまざまなヴァリエーションが考えられているわけだが,その差異をこの学問は「ドグマ的」構成によるものと考える。また,「話す種の再生産」という問題設定には,人間が生物学的次元(身体)と言語的ないしは象徴的次元(ことばとイメージ)に相渉るものであることが想定されており,同時に個々の人間の主体化と社会性とが世代的に引き継がれてゆくということが想定されている。そして,その双方の結節を支えているのが,さまざまなレベルでの制度性であり規範システムなのだが,その中核を支えているのが「ドグマ的なもの」だということである。

この文章にじっと眼をこらしてみる。
すると,キーとなるフレーズがいくつか浮かび上がってくる。それらを列挙してみると,
1.人間を「話す種」として捉える
2.生物学的次元(身体)
3.言語的ないしは象徴的次元(ことばとイメージ)
4.人間の主体化と社会性とが世代的に引き継がれてゆく
5.その双方の結節を支えているのが制度性であり規範システム
6.その中核を支えているのが「ドグマ的なもの」

まず,1.人間を「話す種」として捉える,とはどういうことか。人間を自然界に生きている生物のうちの特別な存在として考えるのではなくて,人間を,たまたま「ことば」という能力を獲得した生物のなかのひとつの「種」だと捉える,というのである。ここから人間についての思考を出発させるということだ。「ことばを話す種」,これがルジャンドルによる人間の定義だ。

そして,しかも,その人間は2.と3.とを同時に抱え込んだ存在である,とルジャンドルは捉える。すなわち,人間は,「身体」と「ことば/イメージ」のふたつを同時に生きる存在なのだ,という。別のいい方をすれば「生物的次元」と「言語的/象徴的次元」のふたつの次元を同時に生きる存在だということになる。

ここで,バタイユの表現を借りれば,「動物性」と「人間性」のふたつを同時に生きる存在,それが人間だということになる。そして,「動物性」から「人間性」へと<横滑り>しながら,「ことば」を獲得し,「道具」をわがものとする。そして,そのときの原動力となったのは「有用性」だと考えられている。このようにして,人間はどれほど進化したにしても,内に抱え込んだ「動物性」を抜きにして生きることはできない。だから,人間は,いつも「動物性」(本能)と「人間性」(理性)との葛藤のうちに生きるしかない。その折り合いをどこにみつけるか,ということが大きなテーマとなる。宗教の問題はそことの折り合いのつけ方のひとつだ,と考えられる。

この点は,こんごルジャンドルの「ドグマ的なもの」を議論していく上で重要になってくるので,とりあえずここで指摘しておきたい。

さて,4.の「主体化」と「社会性」という,人間の「生」を考える上でお互いに相矛盾するまことにやっかいな問題と人間は直に対面しなければならない。その双方を結びつけ,ある折り合いをつけるために「制度性」と「規範システム」が重要になってくるというわけである。しかし,これらを成立させるための確たる根拠はどこにもない。けれども,なんらかの方法でそれらの折り合いをつけないことには,人間は生きてはいけない。

その「折り合い」の中核を支えているのが「ドグマ的なもの」なのだ,ということになる。

以上は,あくまでも,わたしの読解にすぎない。もっと別の読み取り方をすることも可能なはずである。それもまた「ドグマ的なもの」ということができようか。だからこそ,「ドグマ的なもの」は重要なのだ。この「ドグマ的なもの」を排除しようとする「力」が,あるときから働きはじめる。この「力」が,いつ,どこで,だれによって構築されるようになるのか,ルジャンドルはそこから説きはじめる。「ドグマ人類学」の誕生である。

とりあえず,今日のところはここまで。

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