2012年7月25日水曜日

「オスプレイなど,どこ吹く風か」と沖縄の友人から。それよりも「差別」を乗り越えることを,とも。

 少年のころにみた原子力船,原子力空母のことが頭から離れません。以後,いくたびか,アメリカ軍の存在に不快を覚え,基地さえなければ,たとえ貧しくともむかしながらの助け合いの精神で,みんな仲良く楽しく暮らすことができるのに・・・と考えつづけてきました。しかし,現実はそうではありませんでした。それどころか,わたしたちはアメリカ軍の存在に悩み,ときには怯え,しばしば事件が起き,抗議をし,さんざんやってきたけれども事態はなにも変わりませんでした。「復帰」40年はその事実を,わたしたちのからだの芯までわからせてくれました。どんなにわたしたちが頑張っても,結局は「アメリカ支配」という実態はなにも変わりはしない,ということです。日本政府がアメリカ軍の肩代わりをしているだけで,「復帰」はそのフェイントでしかなかったではないか。そのことだけがまぎれもない事実として明らかになりました。だから,いまさら,オスプレイが来ようがなにも驚くことはありません。ああ,こんどはオスプレイか,とただそれだけです。こころはなんの反応も示しません。単なる傍観者でしかありません。それが沖縄に住むわたしを含めた一般的市民の感情だと思います。オスプレイどころか,わたしたちは,「いま」を生き延びることで精一杯なのです。明日のおまんまをどうやって食べていくのか,そのことと日々向き合って生きているのです。

 日本政府のフェイント・プレイやスタンド・プレイに,もう,これ以上,騙されることはないと思います。わたしたちは,より深く現実を見据え,自分たちの,つまり,沖縄固有の未来を模索していくしかないと考えています。だれも頼りにはならないということが骨身にしみたからです。これまでのような甘い夢(「本土なみ復帰」,など)をみることはやめにして,地に足のついた地道な努力を重ねていくことが大事だと気づきました。日本政府から,見栄えのいいエサをばら蒔かれても,もう飛びつくことはしないと思います。なぜなら,エサの美味しいところは本土のゼネコンがやってきてみんな吸い上げてしまって,あとの残り滓だけが沖縄に置き去りにされるだけだということもよくわかりました。そして,そのあとに遺るものは,すさんだこころの傷跡だけだということも,いやというほど知りました。

 これからはウチナンチュの温かいこころを軸にした,生き残りの道を,つまり,「自立」への道を模索していきたいと思います。つまり,カネではなくハートということです。

 本土ではオスプレイの沖縄配備に敏感に反応し,反対運動が展開しているようですが,わたしたちからすればなんだか漫画チックにみえて仕方ありません。なぜなら,その真意は沖縄の基地問題とはなんの関係もなく,オスプレイによる本土での飛行訓練計画に反対しているだけだからです。まことに自己中心主義的な主張であり,行動であるとしかいいようがありません。自分たちの県の上空が飛行計画に入っている,ということだけが反対の理由であって,それ以外のなにものでもないからです。

 沖縄のことをほんとうに考えてくれているのなら,沖縄の基地の肩代わりを,各県がほんの少しずつでもいいから引き受けてほしい。わたしたちは,オスプレイどころか,もっと恐ろしい危険飛行や騒音(基地の近くの学校では授業ができなくなる)に悩まされつづけてきているのです。それが日常なのです。この現実を,敗戦後67年,本土「復帰」後ですら40年,ずっと背負わされたまま,本土のどの県からも同情こそされても,結果的には「見て見ぬふり」をされ,基地を押し付けられてきたのです。これを「差別」と言わずしてなんと言えばいいのでしょうか。

 朝鮮戦争のときや,ベトナム戦争のときの,昼夜を問わず離着陸をつづけたときの基地周辺のウチナンチュは,ただ,ひたすらじっと耐えてきただけです。その他にも書きたいことは山ほどあります。が,それもいまとなってはむなしいだけです。ですから,わたしたちにとってオスプレイなど,どこ吹く風か,という程度の反応でしかありません。

 もちろん,8月5日(日)に予定されている県民集会では,激しい抗議が展開されることでしょう。その人たちにはこころから敬意を表したいと思います。が,本音のところは,だからといってなにも変わりはしないという冷めた気持ちがわたしの中にはあります。ですから,そういうことも見据えた上で,そのさきを見通し,まったく新たな道を模索していくことが重要ではないか,といまは考えています。つまり,「差別」からの脱出と「自立」への模索です。

 すっかり長くなってしまいました。
 こんなことを,いまは,じっと考えています。
 また,いつか,こんなことをともに考え,語り合える機会があることを待ち望んでいます。


 こんな趣旨のメールが沖縄の友人からとどきました。
 くり返しくり返し読みながら,ふと思い出したことがあります。それは,奈良に住んでいたころ(35年前),被差別部落の集会に参加したときのことです。参加者のひとりが「わたしたちはなにも知りませんでした」と発言した瞬間に「それが差別ということなんだ」という怒声が飛びました。そして,「見て見ぬふりをしてきただけではないか」,なのに「知りませんでした」で済まされると思っているのか,とつづきました。わたしの背中には冷や汗が流れていました。

 このときの情景はいまもありありと脳裏に焼きついています。それとまったく同じ構造が,沖縄問題には厳然として存在することを,このメールはわたしに教えてくれました。こんどかれに逢うときには,そのことをしっかりと認識した上で話をしなければならない,と肝に銘じているところです。ヤマトンチュであるわたしにできることはなにか,という問いをみずからに課しながら。重い宿題ができてしまいました。

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