2012年7月26日木曜日

NHK・クローズアップ現代「デモは社会を変えるか,声をあげる市民たち」・考。

 今日の午後にブログを書いた(「日本のメディアはいつから「世論操作機関」と化したのか)同じ日の午後7時30分のNHK・クローズアップ現代で,「デモは社会を変えるか,声をあげる市民たち」というタイトルで,最近の脱原発・原発再稼働反対のデモをとりあげていた。夕食の準備をしながらの「ちらり見」なので,見落としがあるかもしれない。が,いかにもNHKらしい取り上げ方だなぁ,と半分は不満であった。最後に解説者として登場した映画監督の森達也さんの話はうなづける部分も多かったが,いささか物足りなかった。時間が足りないから仕方がないのかもしれないが,もっと踏み込んでほしかった。

 ほかのメディアでの報道の仕方もみんな同じなのだが,これまでの組織立ったデモとはまったく異質の,個々バラバラの市民が集まってきて,それぞれのやり方で自分の意思を表明するところに今回のデモの特徴がある,というところに話題が終始している。このこと自体はなにも間違ってはいない。しかし,では,どうして,こういう組織にも縛られてはいない,まったく自由意思にもとづく人びとが,自発的に集まってくるのか,というもっとも重要な点についての絞り込みと分析が欠けている。場合によっては,意図的に忌避しているのではないか,と思われる節もあるが・・・。

 少なくとも,これまでデモなどとはほとんど無縁で,どちらかと言えば他人まかせで,傍観者的な立ち位置にいた人たちが今回は主役である,なぜ,そういう人たちが登場したのか,ということにもっともっと光を当てるべきではないのか。なぜ,そういう人たちが,つまり,子ずれの主婦たちが,勤め帰りのサラリーマンが,若い学生さん風の男性や女性たちが,中高年のおじさん・おばさんたちが,そして,初老からかなりの高齢者の人たちまでが,首相官邸前に金曜日になると集まってくる。すでに,これがはじまってから4カ月を経過している。しかも,毎回,その数が増えつづけているという。そして,ついに20日には10万人を越えたという。

 ここには,特定のイデオロギーもなにもない。その動機はじつに簡単だ。原発から「命を守る」にはどうしたらいいのか,ただ,それだけだ。少なくとも,わたしはそれだけの理由でこのデモにも出かけるようにしている。そして,その場に立ち,いろいろの人の立ち姿をみながら,わたし自身がなにをこれからしていくべきかを考える。未来を生きる幼児や青少年たちに,安心して生きていかれる社会を残すにはどうしたらいいのか。かれらの「命を守る」ためには,いま,なにをしなくてはいけないのか。そんなことを,あの場に立ちながら,ひたすら考える。その場にいる人たち同士で,お互いに語り合うこともなく,みんな黙って思考をめぐらせている。その雰囲気は,すぐとなりに立っている見知らぬ人からも伝わってくる。

 60年安保闘争を,わたしは学生として経験している。その場はイデオロギーで塗り固められていた。そして,曲がりなりにもひとかどの理論武装(なにゆえに,この闘争に参加しているのか)が必要だった。そして,ある会派別に,それぞれの主張を展開していた。70年安保ではもっと過激になり,ついには「内ゲバ」まで発生して,やがて孤立していくことになった。このときも,わたしはわたしのやり方でシンパ的な立場で行動をしていた。それでも,なにかしっくりこないものが残った。

 しかし,今回のデモはなんの心配もいらない。言ってしまえば,考えていることはみんな違うだろう。厳密に問い詰めていけば,みんな,ばらばらの考えになるのだろう。でも,たったひとつだけ共通していることがある。それが「命を守る」という立場だ。

 この一点を共有しつつ,それぞれのやり方でデモに参加している。ちょっと顔を出すだけで,すぐに帰っていく人もいる。遅れてやってくる人もいる。まったく自由なのだ。なんの拘束力もない。知った人もいない。一人ひとりがどこからともなく集まってくる。これから育っていく子どもたちの「命を守る」ために。

 原発は一触即発だ。ひとたび,直下型の大地震に見舞われたら,それでお終いである。しかも,期限切れの原発をこれからも再稼働しようというのである。子どもたちの「命」の大切さに想像力をめぐらすことができない人びとが,日本の国家の中枢を占めている。このことに対する怒り・憤り・情けなさ,その他もろもろの感情が渾然一体となって,ついに,ふつうに生活している人びとを動かすにいたったのだ。そのことの重大さに,NHKをふくめたメディアがなぜ気づかないのか。気づこうとしないのか。いやいや,「見て見ぬふり」をするのか。

 政治家も官僚も財界人も学界もメディアも,みんな「人が生きる」ということの意味,「命の尊さ」,人の存在の尊厳というものを考える「理性」を欠いてしまっているのだ。人の命よりも,経済が大事なのだ。もっと言ってしまえば,アメリカとの連帯が大事なのだ。そのためには,国民の「命」を犠牲にしてもいいと思っているのだ。だから,沖縄の基地の問題も,長年にわたって放置していても平気なのだ。それ以上に,アメリカさんのご機嫌をうかがうことの方が大事なのだ。

 長くなってきたので,この辺りで終わりにしておこう。
 NHK・クローズアップ現代は,これから何回にもわたって,いま起きているデモの本質はなにかを取り上げ,多くの識者を登場させて議論してもらいたい。そして,日本という国家が,アメリカさんのために「自発的隷従」の姿勢をとりつづけ,みずから「思考停止」してしまって平気なのだという,その諸悪の根源を明らかにしてもらいたい。少なくとも,その周辺まで分け入り,問題の本質を明らかにすべく努力してもらいたい。

 それが,国民から視聴料を徴収して番組を制作している国営放送局の,最低限の義務ではないか。でなければ,まったくの詐欺にも等しい。しかし,そんなことには無頓着できたし,いまも平気なのだ。その体質は,断るまでもなく,東電とまったく同じだ。

 「デモは社会を変えるか」などというタイトル自体が,古いデモの見方から脱していないなによりの証拠だ。すでに,社会は大きな変化を起こしていて,人びとの意識も大きく変化している。断っておくが,社会を変えるためのデモではないのだ。人びとの意識の変化がそのまま露出しはじめた,ただそれだけだ。このことがなにを意味しているか,その重大さは,これから徐々に形となって表出してくるだろう。

 その最大の表出は,すでに,既成政党への圧倒的不信感と絶望だ。選挙公約すら守らずに平気でいる政権党。これは選挙民に対する詐欺行為にも等しい。こんなことが許されると思っている,狂った「理性」の持ち主たちが,日本の中枢に居すわってきたということだ。その人たちへの「信」が,いま,大きな音をたてて崩れ落ちているというのに・・・・。まだ,気づいてはいない。あるいは,気づこうとはしない。あるいはまた,「見て見ぬふり」をしている。この厚顔無恥。

 一般市民は,そこに「NO」をつきつけるために,だれに拘束されることもなく,まったく自発的に,個人の立場でデモに参加するようになったのだ。もう,これ以上黙っているわけにはいかない・・・と。このこと自体が,革命的なことだ,とわたしは考えている。そのことになぜメディアは眼を瞑ろうとするのか。「思考停止」と「自発的隷従」に慣れきってしまった「茹でガエル」は,気づいても身動きできないのだろう。しかし,そんなこととは無縁のところで,もう,すでに市民も社会も大きく変化しているという認識こそが大事だ。

 今日一日のうちに,こんなブロクを二度も書くことになろうとは・・・・。
 これを契機にして,わたしはわたしの思考をさらに深めつつ,そのときどきの行動をとることにしよう。いま,日本は正念場に立たされている。その日本を支えるひとりの市民として。

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