2012年8月14日火曜日

「バタイユ没後50年」『週刊読書人』が特集。

 『週刊読書人』(8月10日刊・第2951号)が「バタイユ没後50年」を特集している。精確にいえば,ことしの6月3日に日本フランス語フランス文学会春季大会(東京大学本郷キャンパス)が開催され,そのときのワークショップ「バタイユ没後50年:これまでとこれからを考える」に参加した5人のプレゼンテーターとその仕掛け人の計6人による寄稿を掲載したものである。

 仕掛け人は福島勲(北九州市立大学准教授),プレゼンテーターは濱野耕一郎(青山学院大学准教授),岩野卓司(明治大学教授),湯浅博雄(東京大学名誉教授),酒井健(法政大学教授),西谷修(東京外国語大学教授)。この順番でプレゼンテーションが行われたが,最後の西谷さんのところにきたときには時間がほとんど残っていなかった,という(西谷さんからの伝聞)。シンポジウムやワークショップではよくみかける光景ではあるが,結局は最後のスピーカーの存在を無視した行為で,失礼千万だとわたしは考えている。学者先生方は,意外にだらしがない。もっと,約束どおり与えられた時間を守るべきである。その上で,フリーのディスカッションの時間で大いに弁舌を振るえばいい。

 こういうワークショップが行われたということは西谷さんから聞いていたので,どんな内容だったのかなぁ,とじつは楽しみにしていた。とこかで特集が組まれるはずだから。と思っていたら『週刊読書人』がわたしの期待を叶えてくれた。

 わたしも長い間,西谷さんのお話をうかがいながら,ジョルジュ・バタイユという人の考えたことに強い関心を寄せてきた。全部とは言わないまでも,バタイユの主だった文献は読破してきたつもりである。とくに,『宗教の理論』と『有用性の限界 呪われた部分』の2著は,何回も何回も繰り返し読みこんだ愛読書でもある。このテクストを用いて,神戸市外国語大学で集中講義をしたこともある。そのときの読解の試みの一部は『スポートロジイ』創刊号(みやび出版,2012年刊)に掲載してある。ご覧いただければ幸いである。

 そんな事情もあって,この特集は一気に読ませていただいた。いずれの論者の寄稿も面白く読ませていただいた。しかし,5人の論者が勢揃いして,一堂に会して議論をするということは,かなりの冒険でもあるなぁ,としみじみ考え込んでしまった。この寄稿原稿はその反映にほかならないのだが,なんとまあ,個人差があることか,と驚いてしまったのだ。

 もちろん,5人の論者はそれぞれバタイユに向き合うスタンスが異なるので仕方がないとはいえ,かくも違いがはっきりするものか,しかも,そのレベルの違いまでもが否応なく表出してしまうものなのか,と驚いてしまった。いずれも日本を代表するバタイユ研究者でありながら,この短いスペースに盛り込む内容の密度の濃さがまるで違うのである。

 で,ほかの論者のことはともかくとして,わたしのこころを強く打った論考は西谷さんのものだった。ほかの論者たちのものは「バタイユを」考えるという立場をとったのに対して,西谷さんだけがひとり「バタイユから」考えるという姿勢をとった。西谷さんは,おそらく,「バタイユを」考えるという段階をとうのむかしに通過して,そこからさらに「バタイユから」考えるというところに足を踏み出して,数々の著作を世に問うてきた。『不死のワンダーランド』や『世界史の臨界』『戦争論』,そして『離脱と移動』などがそれである,と西谷さんみずからが書いている。

 この短い寄稿のなかに,これ以上は圧縮できないというほどの密度の濃い内容が盛り込まれている。逆にいえば,西谷修とバタイユの思想とがどのように絡み合っているのか,ということを知るための絶好のガイドラインとなっている。この寄稿をもとにして,内容を展開していくだけで,ゆうに一冊の単行本が可能である。そういう内容として,わたしは受け止めた。

 言ってしまえば,西谷修が,ひとりだけ異次元の世界を遊んでいるようにわたしにはみえる。体操競技の内村航平選手が,世界でひとりだけ異次元の世界に飛び出しているのと同じように,わたしにはみえる。なんという人とわたしはお近づきになってしまったのだろうか,とわが身が引き締まる思いである。

 最後に,西谷さんの結論的な言説を引いておこう。
 「バタイユは単に特異な思想家であるのではない。近代を画したヘーゲルのかなたにキリスト教化初期のプロティノスを読むと,バタイユの<内的体験><非-知>の体験が,長い西洋思想の中でとのような位置をしめるのかがわかってくる。その意味ではバタイユは西洋思想二千年を画する思想家なのである。この点については拙稿「輝く闇,バタイユ・ヘーゲル・プロティノス」(『離脱と移動』所収)を参照されたい。」

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