2012年10月12日金曜日

『坐禅は心の安楽死』─ぼくの坐禅修行記(横尾忠則著,平凡社ライブラリー)を読む。

 横尾忠則が,若いころに(30代)坐禅に興味をもち,せっせと坐禅道場に通ったときの体験談を,平凡社ライブラリーが復刻したもの。だから,話としてはもうかなり前のものである。でも,いかにも横尾忠則らしく,感じたことをありのまま記述していて,生々しい新鮮さを失ってはいない。その代わりに,かれの信ずるところをそのまま書いているので,それはちょっと違うだろう,というようなところも少なくない。だから,面白いのかもしれない。

 たとえば,こうだ。自分で望んで坐禅道場に申込みをし,道場に行って坐禅をはじめたのに,いきなり警策(きょうさく)で叩かれ,とたんに逃げ出したくなった,と書く。あれは「暴力」以外のなにものでもない。あんなことをしたってなんの意味もない,と断言する。もう少し手加減というものがあるだろう。なんの因果か,情け容赦なく,思いっきり,本気で「打つ」(と,横尾さんは感じている)。からだの「痛み」に対して我慢する適応範囲が狭いなぁ,とわたしなどは思う。

 わたしも何回か坐禅をした経験があるし,そのたびに何回となく警策に打たれている。樫の棒でできていて(ただし,打つ面は平たくなっている),それは痛いこと限りない。というか,なにごとか,とびっくりしてしまう。なぜなら,坐禅をしていて居眠りをはじめたとたんに「バシッ」とくるから,居眠りの心地よさを突如破られてしまうからだ。しかし,その痛みは瞬間のことであって,あっという間に痛みは引いていく。しかも,そのあとはなんとも清々しい。眠気がすっ飛び,やがて快感が訪れる。でも,そこのところを徹底的に「痛い,痛い」「冗談じゃない」「もう少し手加減をしてくれ」「いますぐにも逃げ出したい」「もう二度とくるものか」と直訴しているかのように,横尾さんは本音の弱音を吐きつづけている。そこが横尾さんの飾らない文章の魅力でもある。

 いまの横尾さんはすでに大家としての風格を備えているが,30代のころの横尾さんは,さぞかし面白い人だったのだろうなぁ,とあれこれ想像しながら楽しく読んだ。とりわけ,自分の直観のようなものをとても大事にしていて,その段階で,いやなものはいや,とはっきりいう。それでも,一度はいやと思ってもまたそれをくり返してみたりもする。とても好奇心旺盛な人だったことがわかる。

 その経緯を丹念に書き綴ったのが,この「坐禅修行記」だ。いやだ,いやだ,二度とくるものか,と逃げるようにして坐禅道場をあとにしておきながら,数カ月すると,またぞろ坐禅道場の門を叩くことになる。それは,坐禅道場から帰ってきてしばらくすると,自分のなかになにかが変化していることに気づくかららしい。そこに気づくと,またまた,坐禅の虫が騒ぎだす。そして,つぎの門を叩くことになる。

 ただ,われわれと違うのは,自由自在に禅の高僧を選んで,いきなりそこに尋ねていくことができるということ(このとき,すでに,名だたるアーティストとして高い評価を受けていた)。羨ましいことかぎりない,とわたしなどは垂涎の的でしかなかった山田無文さん,大森曹玄さん,松原泰道さんといった,いわゆる禅の大家の門を叩いている。しかも,直球勝負で,自分のなかにある疑問をそのままぶっつけている。まあ,度胸がいいというか,好奇心というか,貪欲さというか,やはり横尾さんはふつうの人ではない。この本を読んでいてつくづくそう思う。アーティストとはそういう人たちのことなのだなぁ,と凡人のわたしは思う。

 横尾さんは,わかったことはわかったとはっきり書くし,わからないことはわからないとどこまでも突っぱねて書いているので,禅の世界に少しずつ分け入っていく横尾さんの姿がそのまま手にとるように伝わってくる。この点が,この本の最大のセールス・ポイントなのだろう。ある意味では横紙破り的なところもあって,読んでいて面白い。

 もう一点だけ触れておけば,横尾さんはたいへんな勉強家で,禅の世界に分け入ろうとすると,相当の量の本を読破してから接近していく。だから,大家を前にしても,その人たちの著作は読んでいるので,なんら怯えることなく感じたままの疑問を提出することができるのだ。そして,その疑問に応答する大家の答えが,とてつもなく面白い。歯に衣を着せぬ丁々発止が,なんとも心地よい。これもまた,横尾さんが丸裸のまま身を投げ出すからこそ可能なのだろう。やはり,一流のアーティストは,生まれながらにしてどこかに禅的なところがあるように思う。

 あるがままとか,自然体とか,ことばとしてはだれもが理解しているものの,それを実行できるかどうかはまた別の話だ。それが実行できる人は,どの世界にいっても一流として評価されるに違いない。そうなるためには,只管打坐の修行が,凡人には必要なのだろう。生まれながらにして自然体でいられる人が,ときに存在する。神さまはなんと不公平なんだろうと思う。お与えのものが違うのだから。その差を埋め合わせるのも,只管打坐の修行あるのみ,か。

 坐禅の修行の本としては,なんとも親しみやすく,読みやすい本であることは間違いない。坐禅に興味をお持ちの方は,ぜひ,ご一読を。

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