2012年12月12日水曜日

原発推進派のみなさん,家・土地・家畜を捨てて,いまも戻ることのできないフクシマの人びとのことを考えたことがありますか。

 突然,大地震がやってきて,そのために原発に異常が発生して,放射性物質がまき散らされ,生まれたときから住み慣れた家・土地・家畜をそのままにして退去命令にしたがわなくてはならなかったフクシマの人びとのことを,そして,いまも戻りたくても戻ることのできないまま避難生活を強いられている人びとのことに思いを致す「こころ」を,わたしたちは失ってはいけません。

 こんどの選挙は,このようにして生活の基盤を,原発によって奪われてしまった人びとを,二度と生み出さない日本にするための,天下分け目の決戦です。この最重要課題をそっちのけにして,論点を別のところにすり替えて,原発問題をあいまいにするための,刺激的な論点をもちだし,多くの日本人に猫だましをかましている政党が,なんと有利に選挙戦を展開している,とメディア(このメディアが曲者ですが)が報じています。そして,やはり,そうなんだ,と思い込む日本人が増えている,とこれまた追い打ちをかけています。

 みんな,目の前の,一旦はわがものとした豊かな生活を脅かされたくない,と考えているようです。このこと事態は,ある意味では納得できます。しかし,そのためには,フクシマの人びとや沖縄の人びとのことは,無視していいと考えているとしたら,それは別問題です。自分の生活や安全が守られるのであれば,ほかの人のことはどうでもいい,とでも考えているとした,それこそ大問題です。自分さえよければ,他人のことはどうでもいい,と。

 しかし,それは大きな間違いです。しかも,根本的な間違いです。他人を切り捨てることは,自分を切り捨てることと同じだ,ということに思いを致すべきです。他者を殺すことは自分を殺すことなのです。他者がいなくなってしまったら,自分の存在は意味をなしません。他者があって,わたしが存在するのです。このことを,わたしたちの多くが忘れています。そして,自分だけよければいい,と勘違いしています。それが「自由」だ,と。

 原発事故で家・土地・家畜を捨てて逃げなくてはならなかったフクシマの人びとのことに,わがことのように深く思いを寄せられる感性を,わたしたちは取り戻さなくてはなりません。なぜなら,明日はわが身に起こることなのですから。わが身のことを大事にしたいと思ったら,フクシマの人びとを守り,救済することを,なによりも優先しなくてはなりません。それこそが,わが身を守るためのもっとも大事な第一歩です。

 原発ゼロを目指そうと覚悟を決めた人びとは,みんな,このことを深く胸に刻んでいます。しかし,不幸にして,偽りの情報にごまかされて,原発がないと駄目だよねぇ,と思っている人びとは,自分の手で自分の首を締めているということに気づいていない,哀れな人びとなのです。そして,目の前の,うすっぺらい「豊かさ」に目が眩んでしまっているだけの話です。

 いま,わたしたちが享受している「豊かさ」はほんとうに人間を幸せにする内実をもっているのでしょうか。むしろ,この,経済的なみせかけの「豊かさ」は,人間を不幸に追い込んでいる元凶なのだ,ということを知るべきです。一昔前,経済史家の大塚久雄は『ものの豊かさとこころの貧しさ』(みすず書房)という著作をとおして,大きな問題を投げかけました。つまり,物質的な豊かさは人間のこころを貧しくしてしまうと。

 わたしは,敗戦後の物資を著しく欠いた,貧しい時代を,小学校2年生から大学生になって以後も,ずっと生きてきました。いま,考えてみると,あの時代の方がはるかに人と人との絆が強く,お互いに助け合おうというこころを多くの日本人が持ち合わせていたように思います。ところが,いまの日本人は,経済的な豊かさを享受するとともに,みんな独立独歩をめざし,他人さまには迷惑をかけない,という閉じた生き方を是としているように思います。その結果として,みんな孤独になっています。

 今日,訃報を知って驚きましたが,小沢昭一さんも,貧しい時代の方が人びとが生き生きとしていた,目も輝いていた,とエッセイに書いています。わたしも,まったく同感です。

 だからといって,貧しくなれ,というつもりはありません。しかし,わたしたちが,将来的に,フクシマの人びとが味わったような辛い経験だけは忌避したいと思うのであれば,ここは原発ゼロをめざすしかありません。ここでは,これ以上は踏み込みませんが,原発を持てば持つほど,わたしたちの未来は絶望的になってしまいます。なぜなら,地震による事故のみならず,もし,そうではないとしても使用済み核燃料棒とは10万年は付き合わなくてはならないのですから。

 原発推進派のみなさん。もう一度,顔を洗って,覚めた頭で,考え直してください。原発を推進していっても,わたしたちの生活そのものは少しもよくはなりません。それどころか,天文学的な負債を背負うことになります。半永久的に,先祖代々,使用済み核燃料棒の奴隷になるしかありません。それだけは,なんとしても回避しなければなりません。

 住み慣れた家・土地を強制的に追われることを,シモーヌ・ヴェイユは「根こぎ」と表現しています。ユダヤ人として追われる立場を生きなくてはならなかったシモーヌ・ヴェイユにとっては,生きることの原点である「根」をもつことの重要性を,ひとりの哲学者として,だれよりも深く理解していたと思います。

 わたしたちは,いま,その「根こぎ」を拒否して,「根づけ」に向かうべき時代を生きています。こんどの選挙は,その二者択一でもあります。

 このことを原発推進派のみなさんに,強く訴えたいと思います。どうか,胸に手を当てて,みずからの良心に問いかけてみてください。お金がなくても,こころの豊かな生活はできます。いな,むしろ,お金と縁を切った方が,こころの豊かな生活はできます。それは多くの宗教が教えているところでもあります。人が「生きる」とはどういうことなのか,という根源的な問題が問われている選挙でもあります。

 しかし,ノダ君も,アベ君も,そこのところを考えることなく,いな,むしろ避けて,場当たり的な対症療法で政治を操ろうとしています。その軛から抜け出すこと,それが今回の選挙に臨むわたしたちのミッションではないか,と考えています。つまり,「根をもつこと」を軸に政治を考えるかどうか,ということです。

今夜はここまで。

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