2012年12月24日月曜日

今城塚古墳で考える。力士埴輪と野見宿禰のことを。

 高槻市にある史跡今城塚古墳に行ってきました。そのついでに,野見神社と上宮天満宮をまわってきました。いずれも二回目のフィールド・ワークでしたが,新たにいろいろの発見(気づき)があって,大満足。やはり,現場に立つということの大切さをしみじみと感じました。

 今回のフィールド・ワークの主たる目的は,野見宿禰について考えることでした。野見宿禰については,出雲出身の人ということになっていますが,一説では大阪方面の出身という説があります。古代史は謎だらけですが,この人の存在も多くの謎につつまれています。

 『記紀』の記録を確認してみても,野見宿禰は突然,登場します。それも,よく知られているとおり力士として登場します。そして,その功績により,天皇に仕える重要な人物となり,その子孫も代々,天皇に仕えます。その末裔が菅原道真というわけです。この野見宿禰一族と菅原道真にいたるまでの謎解きをしてみたいとかねがね考えてきました。が,遅々としてその作業は進みません。そのうちに時間切れになってしまいそうですので,なんとか動けるうちに動こうというわけです。

 その手始めに,まずは,史跡今城塚古墳から出土している力士埴輪を,もう一度,この目で確かめることにしました。ここには4体の力士埴輪が,露天に展示されています。よくみると,嬉しそうな笑顔です。片手を挙げて,「やあ,久し振り」と友だちに声をかけているようにも見えます。この力士がなにを表現しているのか,もちろん,どこにも説明がありません。が,この問題は,もっとあとでしっかり考えてみることにします。

 その前に,この今城塚古墳の存在そのものが謎だらけですので,その周辺に思いを馳せてみたいと思います。とりあえず,今城塚古代歴史館で発行しているリーフレットによれば,以下のとおりです。

 今城塚古墳は,6世紀前半に築かれた,二重の濠をそなえる淀川流域最大の前方後円墳です。学術的には,継体大王(聖徳太子の直系の曾祖父)の真の陵墓といわれています。10年間にわたる発掘調査では,日本最大級の埴輪祭祀場や,墳丘内石積,石室基盤工といった当時最先端の土木技術などの貴重な発見が相次ぎました。どうやって造られたか,どのようなまつりが行われたか,しかも誰が葬られたかを具体的に考えることができる唯一の大王墓として,かけがえのない歴史遺産です。

とあります。実際に,この古墳の前に立ってみますと,その大きさに驚きます。中央にある前方後円墳そのものは,あちこち崩れていて,変形していますが(古墳の上を散策できるようになっている),全体像のもつ迫力は満点です。奈良の唐招提寺の近くにある垂仁天皇陵よりも大きいのではないか,とわたしは考えています。その今城塚古墳の内濠を囲む土手の上に,<大王墓の葬送儀礼>の行列が復元されています。その行列は,家,門,塀,太刀,盾,武人,巫女,力士,動物などで構成されています。これを眺めているだけで,さまざまな連想がはじまります。なんとも不思議な人びとの群れになっています。

 このあたりには古墳があちこちに散在していて,それらを総称して三島古墳群と呼んでいます。そこから出土する埴輪の数は膨大なもので,なぜ,これほどの埴輪がこの地から出土するのか,いまのところ不明とされています。ただ,埴輪を製造する技術をもった土師氏の一族が大勢住んでいたのは間違いなさそうです。土師氏を名乗ることを許された最初の人物は,ほかならぬ野見宿禰です。この一族がむかしからここを拠点にして,とてつもなく大きな勢力を誇っていたのではないか,そのひとりが継体天皇として知られる人ではないか,というのがわたしの推理です。なお,今城塚古代歴史館では,継体天皇ということばは使わず,継体大王と呼んでいます。なぜ,そのように表記しているのか,もう少し予備知識をもってから,学芸員の方にお尋ねしてみたいと思っています。

 そこには,大きな謎が潜んでいる,とだけここでは記しておきたいと思います。その理由は,このあとにつづくブログで少しずつ明らかにしてみたいと思います。

後ろは今城塚古墳








とりあえず,今日のところはここまで。

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