2012年12月26日水曜日

野見宿禰は野見姓を嫌い,菅原姓へ。それでも消えぬ蔑視を考える。

 野見宿禰の「野見」の姓は,なにか不都合があるのか,その字に当て字をして,野身,濃味,濃美,などヴァリエーションとして用いています。能見,能美,などもその流れを汲むヴァリエーションなのかな,とわたしは考えています。しかし,なぜ,「野見」という姓を,わざわざ当て字にして,別の名乗りをしなくてはならなかったのでしょうか。

 野見宿禰は,埴輪の提言(生き埋めという人身供犠を廃止)という功績が認められて,土師氏を名乗ることが許されます。土師氏とは,断るまでもなく,土器や埴輪を制作する専門家としての職称です。これによって,野見宿禰一族は土師氏として立派な職能集団として律令制のもとに公認されることになります。にもかかわらず,野身神社の社碑に記されているように,野見一族には奴婢として生きる野身・濃味・濃美を名乗る集団が誕生します。しかも,それらは東大寺の公奴婢(くぬひ)であり,良民と同格であるということを強く意識して刻まれたものだと考えられます。つまり,野見宿禰が垂仁天皇に取り立てられて立身出世していく片側では,まだまだ低い身分のまま苦労を重ねなくてはならない一族がいたということでもあります。これはとても不思議なことです。

 いったい野見宿禰の出自はどうだったのでしょうか。伝承されているのは,アマテラスとスサノオの誓約(うけい)の結果,生まれたとする天穂日之命ということになっています。そのつながりでしょうか,高槻市の野見神社の祭神は素盞鳴尊と野見宿禰です。しかも,野見神社となる前の名前は,牛頭天王社でした。スサノオ=牛頭天王は同一神と考えられていますから,なんの矛盾もありません。しかし,このような,ある種の操作はのちの人間にとって都合のいいように辻褄合わせをしたものであることは間違いありません。なぜなら,そんなに立派な出自の子孫が,奴婢として扱われたり,土師氏として名乗ることを認められる,ということは明らかに矛盾しています。しかも,野見一族の実態は,葬送儀礼に従事する職能集団にすぎません。

 野見宿禰の子孫は代々,優秀な人材が生まれたらしく,歴代の天皇に篤くもてなされています。それでも,何代目かの野見宿禰は当麻の地の代わりに菅原村への移住を天皇に懇願します。そして,その願いが叶い,菅原宿禰を名乗ることになります。これは明らかに葬送儀礼の職能集団である「野見」一族であるという人びとの記憶を断ち切ることが目的でした。しかし,人びとの記憶はそんなに簡単に消えるものではありません。

 それでも,野見一族,あるいは,それに代わる菅原一族からは続々と優れた人材が誕生します。そのピークをなした人物が菅原道真というわけです。とうとう右大臣にまでのぼり詰めます。ところが,平安貴族たちの妬みを買い,とうとうかれらの讒言により,太宰府に流されることになったことは,よく知られているとおりです。その根拠が,もとを糺せば奴婢であり,葬送儀礼の職能集団の出身ではないか,というものです。つまり,身分の低い者が・・・という蔑視です。

 「野見」という姓そのものが,どうやら葬送儀礼を連想させる身分と密接につながっていたように,いまになっては思われて仕方がありません。野見を,野身,濃味,濃美,と表記を変えてみても,音は同じです。つまり,どの音を当て字にして用いようが,意味は同じです。

 ここで考えなければならないことは,野見宿禰はたまたま天皇に見出され,立身出世をするけれども,その他の一党の人びとはきわめて身分の低い人びとのままだった,ということです。たぶん,もともとの出自は,奴婢にも入れてもらえない,いまでいえは,戸籍もない人びとだったのではないか。ひょっとしたら,河童の仲間?そこから,たまたま野見宿禰のような優秀な人材が輩出したということだったのではないか。と,このフィールドワークをとおして,そのように考えています。

 今城塚古墳から出土した膨大な量の葬送儀礼の行列をなす埴輪,継体天皇(継体大王)のものと考えられている前方後円墳=今城塚古墳,そこから南にくだった野見町に鎮座する野見神社,その野見神社の祭神はもともとは素盞鳴尊一人だったのですが,上宮天満宮の境内に鎮座する野身神社の祭神野見宿禰を勧請して合祀し,いまは二人の神さまが祀られています。野見町に住む氏地内氏子と呼ばれる人びとの思いが,ようやく叶えられたのではないか,というのがわたしの推測です。

 しかも,なによりも,上宮天満宮のこの地への造営の話と野見宿禰の古墳墓といわれる野身神社がここに存在するということの意味が,わたしにとってはきわめて重くのしかかってきます。つまり,伝承されている話は逆ではないか,というわけです。この話は,稿を改めて書いてみたいと思います。

 この謎解きは際限がありません。
 が,今回のフィールドワークをとおして,少しだけ深いところに足を踏み入れることができたかな,と思っています。そして,これからやらなくてはならないこともたくさん見えてきました。古代史の謎解きはまだまだつづきそうです。

 というところで,今日はここまで。

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