2012年12月6日木曜日

シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』をふたたび読みはじめる。

 シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』(冨原眞弓訳,岩波文庫)を,ある必要があって,再読をはじめた。第一部 魂の欲求,第二部 根こぎ,第三部 根づけ,という三部作で上下2巻にまとめられている。いささか意表をつく議論の展開になっているので,初めて読んだときにはとまどうことが多かった。しかし,ひととおり読み終えて,訳者解説に耳を傾けると,なるほど,シモーヌ・ヴェイユという人(女性)がなにを言いたかったのかということが,朧げながらみえてくる。

 ある必要があって,と書いた。が,正直にいえば,毎月一回,わたしの主宰している「ISC・21」の月例研究会で,このシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』を補助線にして,バスク民族の間に伝承されている「アウレスク」というダンスについて考えてみようという企画があるからだ。それが,今月の22日(土),大阪学院大学(世話人・松本芳明)で予定されている。その「ねらいどころ」を明らかにしておけば,以下のとおりである。

 伝統スポーツには,シモーヌ・ヴェイユが言うところの「根」が,みごとに「根づき」しているのではないか。そして,「近代スポーツ」にはその「根」がないのではないか。つまり,伝統スポーツが「根こぎ」されてしまったものが「近代スポーツ」ではないか。その「根」とは,シモーヌ・ヴェイユに言わせれば,「魂」であり「霊魂」であり「霊感」のことだ。そういう「根」が,シモーヌ・ヴェイユの説によれば,フランス革命によって断ち切られてしまった,という。それをキー・ワード的に言ってしまえば,「権利」の主張があまりに強くなりすぎて,「義務」の立ち位置があいまいになってしまったところに起因する,ということになろうか。ここに,フランス革命の大きな落とし穴があった,とシモーヌ・ヴェイユは主張する。

 そのことを明らかにするために,シモーヌ・ヴェイユは,まるで「遺書」のようにして,死の直前に『根をもつこと』というこの本を書き残している。医者に強く注意されたにもかかわらず,食べるものもまともに食べず(意図的に断食をしていたらしい),そのまま「餓死」してしまったのである。43歳の若さで。そういう情況下で,この『根をもつこと』は書かれたことを銘記しておくべきだろう。

 「義務の観念は権利の観念に先立つ」。これがこのテクスト『根をもつこと』の,冒頭の書き出しのセンテンスである。彼女の言い分にしたがえば,人間の「生」にとって大事なのは「魂の欲求」であり,それに応答するのは人間としての「義務」であって,「権利」ではない,ということになる。第一部では,その「魂の欲求」について,懇切丁寧に議論を展開している。このように考えると,第一部が俄然おもしろくなってくる。

 このテクストの第一部 魂の欲求,はわずかに50ページ足らずの言説であるが,きわめて濃密な文章で埋めつくされていて,一回読んだくらいではなんのことかさっはりわけがわからない,というのがわたしの最初の感想であった。悔しいので,何回も何回も読み返す。すると,おのずから,絡みついていた糸がほぐれるようにして,するすると,一本の糸になっていく。

 この人間が生きていく上で,もっとも重要な「義務」,すなわち「根」(魂,霊魂,霊感)を,もう一度,取り返さなくてはならない,とシモーヌ・ヴェイユは言う。第二部 根こぎ ではどのようににしてその「根」が断ち切られてしまったのかを考察する。そして,第三部 根づけ では失われた「根」をどうすればもう一度とりもどすことができるのだろうか,と思考を巡らせている。

 わたしたちの研究者仲間がいま追い求めつづけている「伝統スポーツとグローバリゼーション」というテーマは,まさに,シモーヌ・ヴェイユが『根をもつこと』で展開した思考とみごとに共振・共鳴する,とわたしは受け止めている。とりわけ,バスク民族の間で伝承されている「アウレスク」というダンスは,そのままシモーヌ・ヴェイユのいう「根をもつこと」の典型的なサンプルではないか,というのがわたしの研究仮説である。

 こんどの22日(土)の月例研究会で,より稔り多い議論ができるように,これからしばらくは精読するつもり,いな,精読しなければならない,と考えている。あえて,ここに書いておけば,これまでのスポーツ史研究には欠落していた思想・哲学の成果をいかにして取り込むか,いかにして思想・哲学とリンクさせるか,という試みの一環として,こんどの月例研究会がある。そうすることによって,バスク民族の伝統ダンスである「アウレスク」が,おそらくは,まったく新しい意味を帯びたものとしてわたしたちの前に浮び上がってくるに違いない・・・と期待しつつ・・・・。

とりあえず,今夜はここまで。

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