2012年12月9日日曜日

陸上競技・長距離界で用いられている「距離を踏む」ということばについて。

  『蛇を踏む』という川上弘美の短編集がある。じつに鮮烈な印象を残す名作だ。いまも「蛇」を「踏む」瞬間の,あのなんともいえない感触が,全身をかけめぐる。蛇に限らず,われわれ日本人は「踏む」ということに関しては,かなり鋭敏な感性を持ち合わせていると思う。そして「踏む」という語感から,多くの日本人はさまざまな連想を引き起こすのだろうなぁ,とわたしは考えている。

 たとえば,「敷居を踏む」のは,家長(父親)の頭を踏むのと同じことだ,だから踏んではいけない,とこどものころに厳しく教えられた。寺の本堂では,畳の縁を踏むな,とも教えられた。畳の真中を踏んで歩け,と。なぜ,いけないのか,その意味については記憶がない。しかし,いまにして思えば,なんとなくわかる気がする。境界,境目が,民俗学でなにを意味しているかを考えれば,容易に想像がつくだろう。

 日本語の「踏む」には,ふつうの国語辞典には載っていない意味やニュアンスが,つまり,ほとんど死語になってしまったようなことばのなかに,その名残が,わたしのような世代にはまだかなり残っているように思う。しかし,いまの若い人たちには,字義どおりの意味でしか「踏む」ということばからは,なにも思い浮かぶものはないらしい。ことばは使われなくなれば,自然にその寿命を終えて消え去るのみだ。

 今日(8日),スポーツ用語を研究している友人の清水泰生さんから,陸上競技の長距離界で用いられている「距離を踏む」ということばについて朝日新聞校閲センターから取材を受け,それがコラムになって紹介されているので「送ります」というメールがとどいた。早速,開いて読んでみた。とても面白い内容で思わず食い入るようにして読んだ。しかし,わたしの期待が大きすぎたのか,どこか物足りない。こんな程度の内容でまとめてしまっていいのだろうか,と。でも,それは,やはり新聞記者の眼からすれば,それで十分ということなのかもしれない。

 このコラムは,朝日新聞校閲センターが発行しているWebマガジンである『ことばマガジン』に,「ことば談話室」というコーナーに掲載されている。執筆者は,朝日新聞社のスポーツ担当記者(陸上競技専門)の柳澤敦子さん。新聞記者のネットワークをフルに活用して,可能なかぎりの人をたぐっていって取材を重ね,その話をまとめている。とても,手際のいいまとめになっていて,読みごたえがある。

 しかし,その情報源が,ことばの専門家でもなければ,民俗学の専門家でもない。取材した順番はわからないが,最初に登場する話題の提供者は,国際武道大学の前河洋一教授(52)。筑波大学時代に箱根駅伝の山登りを走っていた長距離選手。いまは,マラソンのトレーニング科学を専門とする研究者。この人の記憶(「距離を踏む」ということばが,いつごろから使われるようになったのか)をたどることからはじまる。そして,かつてのマラソン・ランナー宗兄弟をはじめ,宇佐美彰朗(69),君原健二,重松森雄(72),などといった人びとの記憶を尋ねていく。このあたりの展開はじつにおもしろい。みんなひとりずつ記憶が違うのだ。だから決定打がない。

 そこで,とうとうスポーツ用語の研究者であり,ランニング学会会員でマラソンランナーでもある,わたしの友人でもある清水泰生さん(47)のところに取材にやってきた,というのだ。そこで,清水さんは蘊蓄を傾けて,少なくともさきに挙げた人びととは違う立場から「距離を踏む」ということばの出所を推理している。その中では,「舞台を踏む」「場数を踏む」という清水さんの推理が,わたしにはとてもおもしろいと思った。

 が,取材記者の柳澤敦子さんは,そこで満足してしまったのか,話題をまとめてしまっている。新聞記者の話題提供としては,これで十分ということなのだろうか。

 このコラムを読みながら,わたしは勝手に,もっとおもしろい推理があるぞ,と想像をたくましくしていた。

 冒頭に書いたように「踏む」という日本語は,じつに多義的な意味内容を連想させることばなのだ。たとえば,四股を踏む,蹈鞴を踏む,六方を踏む,仁王さんが邪鬼を踏みつける,古くはヘンバイ(反と門構えの中に下),ウホ(禹歩),なども同じ「踏む」の系譜のことばである。

 大相撲の力士が土俵の上で四股を踏むのは,土俵の邪気を鎮め,聖域であることを周知徹底させるためだ。これを最初に儀礼としてやることによって,はじめて土俵の上で相撲を取ることが可能となる。それに近いイメージなのが仁王さんが邪鬼を踏みつける所作であろう。仁王さんは金剛力士。力士のつとめの第一は邪鬼,すなわち,仏教以前の土着信仰の神を踏みつけて,完全にコントロールする,つまり,支配することだ。そうして,東大寺でいえば盧遮那仏を守る。

 歌舞伎でいえば,弁慶が六方を踏む。なぜか。それは単なる移動ではないということだ。もっと言ってしまえば,距離を移動するということではなく,「踏む」というところに意味がある。いまにも転びそうな,前のめりになって片足でけんけんしながらの移動である。もっと言ってしまえば,躓いて転びそうになった体勢を保ちながら,ようやくこらえている,という姿勢である。その主役は「踏む」である。では,なにを踏んでいるのか。

 これに倣ったのか,歌舞伎役者が花道を引き上げていくときに,やはり六方を踏む。この「踏む」にはとくべつの意味が,言外に籠められている,という。つまり,単に演技が終わって舞台からはけていくだけではなく,観客にその存在をアピールするための最後の身振りだというのである。それが「踏む」という所作によって示される。

 このように考えていくと,蹈鞴を踏む,ヘンバイ,ウホ,なども単なる変則歩行ではないことがわかってくる。しかも,ただのロコモーションでもない。一歩,一歩に思いが籠められている。それが「踏む」ということの意味だ。

 「距離を踏む」とは,距離をかせぐ,長い距離を走る,ということとは意味が異なる。走るは,からだが平行移動すればいい。歩くも,からだが平行移動すればいい。つまり,ロコモーションだ。しかし,「踏む」は平行移動やロコモーションとはまったく別次元の身体技法であり,そこに籠められた意味内容もまったく異なる,ということに注目すべきだろう。

 ここからさきの話は,読者にゆだねよう。自由自在に思いをめぐらせて,考えていただこう。しかしながら,そこには,きわめて重要な思考の広がりが待っていることも,ここに書き添えておこう。ヒントは,シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』のなかの「魂の生の欲求」に応答する,永遠にして普遍である「義務」。

 謎めいた終わり方で恐縮だが,とりあえず,今日のところはここまで。

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