2013年1月31日木曜日

奈良県桜井市の「出雲」を歩く。野見宿禰塚・幻視・遊。

意外な発見があった。
いや,幻視があった。
その前に,ある種の直観が働いていた。
向こうからなにかがやってくる,と。
それがそのとおりになった。
つぎからつぎへと,向こうからやってきた。
どうにも受け止められないほどの情報となって。

奈良・桜井市の出雲は,野見宿禰が住んでいたところに,ほぼ間違いはない。
かの地に立って,ぐるりとまわりを見渡した瞬間に,まっさきに直観したことだった。
そして,それはもはやわたしの確信のようなものになっている。
野見宿禰は桜井の出雲に住んでいた──わたしの不動の確信。

しかも,野見宿禰が生きていたころの,桜井の出雲は,相当に大きな勢力を形成していたに違いない。それは,二上山を拠点として大きな勢力を張っていた当麻蹴速と拮抗するほどの大きな勢力を形成していたはずだ。いや,それ以上に大きな勢力を張っていたのではないか。
だから,この二大勢力が激突するのは必然だった。

わたしの直観は,さらに飛躍し,あらぬことを幻視する。
国譲り神話の舞台は,ここ桜井の出雲だったのではないのか,と。
さらには,いわゆる邪馬台国もここにあったのではないか,と。
そして,その邪馬台国を打ち立て,支配していたのも出雲族だったのではないか,と。

国譲りの神話は,邪馬台国の最後の支配者オオクニヌシを追い出して,父祖の地である島根の出雲に封じ籠めたのではないか。オオクニヌシの次男タケミナカタも,天孫族のタケミカヅチに追われて諏訪に封じ籠められたのではないか。

それでもなお,三輪山を守りつづけたのは出雲族。三輪山は御神体。
そこに祀られる大神神社(おおみわじんじゃ=大三輪神社)には出雲の神様が鎮座ましましている。
「おおみわ」の「み」は,「霊」「巳」。大神神社の境内には「卵」があちこちに。
その大神神社を守る拠点が桜井の出雲に住む人びとだったのでは。

野見宿禰はその地を守る,出雲族を代表する豪族の頭領(力士)だったのでは。
だから,当麻族の頭領だった蹴速との決闘は必然だった。
それに勝利することによって,垂仁天皇の目にとまり,召し抱えられることに。

野見宿禰塚跡という碑が小さな田んぼの中に,ぽつねんと建っている。
ここに直径10mに及ぶ塚があった,とある。
それが,野見宿禰の塚(お墓)であった,と。
その塚が,明治16年の農地整理によってつきくずされ,田んぼになった,と。

まことに,摩訶不思議な話である。
わけがわからない。
塚を崩して,猫の額のような田んぼを造成しなければならない理由が。

野見宿禰から菅原道真に連なる系譜は,なぜか,藤原一族から蔑視され,冷遇される。
「もとはスガワラ」などという蔑称が残るほどに。

野見一族は全国のかなり広い地域に広がって散在している。
やはり,国譲りの神話の陰に大きな「謎」が隠されているのか。

にもかかわらず,三輪山を手放すことはなかった。
なぜ,それが可能だったのか。
巨大な出雲大社を構築することと,深くかかわっていたのではなかったか。
そこには深い密約があったらしい。

三輪山の裏側の尾根つづきに「ダンノダイラ」と呼ばれるところがある,という。
まだ,そこには行っていない。
こんどは,そこに立ってみたい。

桜井の出雲の集落からは耳成山がみえる。
両側から迫る山並みの間の向こうにわずかに広がる大和平野の中央に。
その背景には,遠く金剛山・葛城山がみえる。

なんとも不思議なロケーションではある。
今回の野見宿禰塚・幻視・遊は,ここまで。

ことしの奈良の山焼きは最高のできばえ。

 毎年1月の第四土曜日は奈良・若草山の山焼きの日。ことしは26日(土)にあった。わたしの第二の故郷へのお里帰りの日でもある。奈良の地を離れてから毎年,欠かさず通っている。もうかれこれ17,8年くらいになろうか。その間,たった一回だけ,関ヶ原に大雪が降り,新幹線が止まってしまったことがある。その年だけは残念ながら欠席。

 奈良には19年間住んで,いろいろの人にお世話になった。その間も山焼きは欠かさず眺めていた。やはり,そのつど不思議な感興がわき上がってくるからだ。山に火を放って燃やす・・・。山全体が燃え上がる・・・・。山に炎が走る・・・,横に,斜めに,真上に。自然が演出する演劇空間の表出である。

 人間がいくら頑張っても少しも燃えない年もある。そうかと思えば,点火して,ものの数分で炎が走って,あっという間に終わることもある。山をどのように燃やすかは,長年かけたノウハウがいろいろあるそうだ。その道のベテランから話を聞いたことがある。それでも,うまくいかないことの方が多いという。それほどに自然界を支配する力は,とうてい人智,人力の及ばないものをふんだんに蓄えているということだ。

 その山焼きが,ことしはみごとだった。これまで眺めてきた山焼きのなかでは最高のできばえだった。少なくとも,35回以上は山焼きを,じっと眺めてきたわたしとしては大満足だった。ことしはいい年になりそうだ・・・・そんな予感につつまれた至福のひととき。寒さにふるえながら,奈良では最高の場所から眺め,感動を味わった。

 ことしは,いつも見慣れてきた山焼きとはいささか趣が異なっていた。まずは,山焼き行事のはじまりを告げる打ち上げ花火がすごかった。いつもはほんのお印程度に打ち上げ花火と仕掛け花火があって,すぐに山焼きの点火に入る。ところが,ことしは,延々と打ち上げ花火がつづいた。これで終わりだろうと思われる8寸玉が大きな音とともに大輪の菊花を咲かせても,しばらくするとまた打ち上げ花火がはじまる。こんなことを何回もくり返す。これをみていて,ああ,奈良は元気がでてきたんだ,としみじみ思う。

 JR奈良駅は見違えるほど立派な近代的な駅に生まれ変わり,駅の西側は再開発されて,さまざまな文化施設が充実している。新しいホテルも建っていて,かつての奈良駅からは大変身である。その奈良駅からまっすく春日大社に登っていくむかしのメイン・ストリートも,道路の拡幅工事とともに両側の商店街も一新する工事が進んでいる。むかしながらの古都奈良をしのばせる古い木造の商店街がほとんど取り壊され,まっさらな鉄筋コンクリートの建物のなかにしゃれた店構えの店が覇を競っている。まだ,工事半ばではあるが,その雰囲気から元気が伝わってくる。

 山焼きの打ち上げ花火は,原則として,この商店街の主たちの寄付で支えられている。だから,打ち上げ花火が延々とつづくということは,みんな頑張って寄付をしているということだ。そういえば,昼中の商店街を歩いている観光客の数もいつもより多いのではないかという印象を受けた。古都奈良の観光をじっくり堪能してもらう作戦がむかしから考えられていたが,なかなか定着しなくて苦労していたように思う。それがようやく効を奏しつつあるようだ。

 この景気のいい打ち上げ花火が終わると,ようやく山焼きの点火である。いつもだと,山全体を囲むように松明を持った人(奈良の消防関係者が総動員されていると聞いている)が,それぞれの松明に点火して,一斉に山に火を放つ。

 ことしは違った。まず最初に二つの集団が若草山の中央の麓から隊列を組んで登っていく。別名三笠山とも呼ばれる若草山の最初の笠の上のところで二手に分かれ,一つのグループは向かって左手(北側)に移動し,もう一つのグループはその場に円陣をつくっている。やがて,この小さな円陣の松明に火が灯され,真暗な山にぽっかりと炎の輪が浮かび上がっている。しばらく,この状態がつづいたところで,左手の山際(森と草原の境界)の下から上に並んだ人たちの松明に火がつく。そして,同時に,若草山の麓に横一線に並んだ人たちの松明にも火がつく。そして,おもむろに山に火を放つ。

 昼中はかなりの強風が吹いていたのに,それがまるで嘘のように,風が止んでいる。だから,放たれた火はあわてて山を走ることはしない。じつに静かに,まずは麓から横一線に,放たれた火が少しずつ草を燃やしながら上に上がっていく。そして,横(北側)からも,ゆっくりと炎が南側に移動していく。つまり,下側からと北側からの炎の線が,ほぼ直線状態で直角に交わったまま,ゆっくりと移動していく。徐々に,徐々に,この直角の二辺が右上に移動していく。こんな絵に描いたような燃え方をみるのは初めてだ。

 草の乾き具合,風向き,風力,などの条件によって,千変万化する山焼きは,火を放ってみないとどのような燃え方をするかはわからない。だから,面白いのだ。毎年,眺めていても飽きることはない。むかしの人はその年の占いにも用いたという。そうだろうなぁ,と思う。現代の山焼きの説明は,山にいる害虫を駆除するのが目的だ,などともっともらしい説明をする。最初にこの山焼きを行事にしようとした人たちが,そんな合理的な発想をもっていたとは考えられない。そんなことはどうでもいいのだ。ことしは,いったい,どんな燃え方をするのだろうか,とそこに神秘的ななにかを感じ取ればそれで十分。人智・人力をはるかに超えるカミと向き合う瞬間を堪能すればいい,とわたしは身を委ねている。だから,ことしも独り,ぽつねんと,立ちつくした。

 ことしはいい年になりそうだ。そして,なんらかの光明が見出せそうだ。

 いまもつづく憂鬱な日々。「3・11」後,連日,信じられないことばかりが,いまも起きている。人間の根幹にかかわるなにかが崩壊しつつある。やはり,「根をもつこと」(シモーヌ・ヴェイユ)を忘れてしまった人間の傲慢のつけが,ここにきて一気に噴出しているのだろう。それは,日本だけに限らず,世界中に。

 わけても,日本の,政治の貧困・無能・無策。いやいや,それどころか「暴走老人」が放った「火」が燎原に燃え広がって,日本人が一気に右傾化しつつある。そして,ついに,東京都民の73%がオリンピック東京招致に賛成だという。わたしのうつ病はますますひどくなるばかりだ。

 が,そんな憂さを,ことしの山焼きは晴らしてくれそうだ。そんな,藁にもすがりたい気分で,ことしの山焼きの結果にほんのわずかでもいい,なんらかの光明を見出したい。

 翌朝,若草山を眺めてみたら,もののみごとに黒い焼け肌をみせていた。虎刈りでもない,斑模様でもない,全面,くまなく広がる黒い山肌。真っ青に晴れ上がった紺碧のパックと好対照をなしていた。そして,この光景を眺めながら,山辺の道を南に車を走らせる。桜井市にある「出雲」をめざして。このときから,なにかが待っている,という予感につつまれていた。

2013年1月30日水曜日

神戸市外大の連続講演「スポーツとはなにか」,無事に終わる。花束贈呈があって感動。

 年4回の連続講演,無事(?)に終わりました。最終回でしたので,なんとか全体のまとめをしたかったのですが,とても時間が足りないまま,空中分解。残念。1時間30分という時間は,かつて講義をしていた時間と同じですので,慣れていたはずなのに,もう,すっかりそのペース配分を忘れてしまっていました。にもかかわらず,最後までご静聴くださり,お運びくださったみなさんにはこころから感謝しています。にもかかわらず,完結した話にならなかったこと,こころからお詫びを申しあげます。

 こんな講演をしてしまったあとには必ず襲われる慙愧の念というやつです。もう二度と引き受けてはいけない,と自戒するのですが,しばらくたつともう忘れてしまいます。だから生きていかれるのかもしれません。そんなことをくり返しているうちにこんにちまできてしまいました。が,いま,考えてみますと,講演を引き受けるたびにいつもとはまったく違った緊張の日々が何日間かはつづきます。そのつど,わたしの思考はかなり深まり,新しい知の地平がみえかくれしてきます。これが,半分はいやなのに,半分は楽しみでもあります。この二律背反なるものを積み重ねることが,生きることであり,思考を深める原動力ではないか,と最近では考えるようになってきました。

 でも,講演のあとは,やはり,なんともいえない寂寥感に襲われます。これはなんとも不思議な気分です。一生懸命に頑張ったのだから,それで仕方がないではないか,とも思うのですが,それを許さないもうひとりのわたしがいて,せせら笑っています。が,ありがたいことに,今回は4回の連続講演の最終回ということもあってか,花束の贈呈がありました。これは想定外でしたので,びっくりしつつも,嬉しいかぎりでした。終わってから,さらに,竹谷ゼミの学生さんたちが中心になって,懇親会まで開いてくださり涙がこぼれそうでした。

 講演のとおしテーマは「スポーツとはなにか」。それぞれ4回のテーマは,もう,このブログでも書いていますので,割愛。この講演をさせていただいたお蔭で,長年,構想してきたわたしなりの『スポーツとはなにか』という単行本の概要がみえてきました。あとは,細部を詰めて,文章化すれば,なんとか単行本になるという展望が開け,いまは,とても満足しています。お蔭で,すでに,本にしませんかと言ってくださる出版社も現れ,条件はととのいました。ありがたいことです。

 気候が暖かくなってきたら,早朝起床を習慣づけて,朝食前の執筆にとりかかりたいと思っています。いわゆる「朝飯前の一仕事」というやつです。以前から,これが一番なのだ,と聞いてはいましたし,納得もしているのですが,実行まではなかなか手がとどきませんでした。が,こんどというこんどは一念発起して,実行にとりかかろうと思います。

 なにごとも晩生で,もたもたした人生でしたが,やはりこの病は死ぬまで治らないようです。でも,気づいたときが「吉日」。そう思い立ったときがご縁。いまできること,そして,いま一番面白いと思うことに全力を投球すること。こんどこそは迷わず邁進したいと思います。

 こんな気持ちにさせてくれたのも,やはり,神戸市外国語大学で連続講演の機会を与えていただいたお蔭です。長い道のりでしたが,ようやく『スポーツとはなにか』という,わたしの長年の夢である単行本の執筆に向けて,「よし,やるぞ」という覚悟が決まりつつあります。

 今回の連続講演を,なにからなにまで支えてくださったのは神戸市外大の竹谷和之さんです。講演のための映像資料の準備や,わたしの書き送る粗雑なメモのようなレジュメを,きちんと編集し直し,だれの目にもわかりやすいものに推敲してくださり,印刷してくださったのも竹谷さんです。加えて,いつもにこやかに迎えてくださった,事務局のみなさんの心温まるサポートのお蔭です。こころから感謝したいと思います。

 連続講演を終えて,ひとつの大きな区切りができました。これからはさらなるつぎのステップをめざして頑張りたいと思います。聴講にきていただいたみなさんからも大きな力をいただきました。ありがとうございました。こころから感謝しています。

 それでは,『スポーツとはなにか』の刊行の日に,著作をとおしてまたお会いしたいと思います。それまで,ご機嫌よう。

わたしのブログについての訂正とお詫び。

 わたしの書いたブログにいただいたコメントに対する応答の仕方に,わたしの勘違いがあるのでは,という若い友人(3人)からご指摘がありました。あわてて確認してみましたところ,完全なるわたしの勘違いであることが判明しましたので,以下のように訂正とお詫びをさせていただきます。

 その経緯は以下のとおりです。
 1月13日付けで書いた,「体罰」ということばについて。大阪体育大学大学院の授業で議論,というブログに対して,6人の方からのコメントをいただきました。このうちお一人を除いて,あとのコメントはハンドル・ネームと匿名である,と勘違いしてしまいました。つまり,そのお一人が大阪体育大学学長の永吉宏英先生からのものである,と。わたしはあのご多忙な学長さんがみずから,わたしのような者のブログをお読みになって,わざわざコメントをくださったと勘違いして,嬉しさのあまりに,すぐにブログできちんと応答しなくては・・・・と考えた次第です。

 そのブログが,1月28日付けの,再び「体罰」ということばについて。大阪体育大学学長さんに,というものです。しかし,今日いただいた友人たちからの指摘に驚いて再度,確認してみましたところ,二人のハンドル・ネームの方とあとは全部匿名のコメントであることがわかりました。つまり,学長さんからじきじきのコメントではなかった,ということです。

 ですから,わたしはとんでもない勘違いをして,学長さん宛てのブログを1月28日に書いてしまったという次第です。ですので,あわててこのブログを読み返してみました。幸いなことに,このブログが学長さんの名誉を著しく傷つけるような内容のものではない,ということがわかり,少しだけ安堵いたしました。が,多くの読者の方に,なんだこのブログは?ととんでもない不信の念をいだかせてしまったことを,こころからお詫びし,訂正させていただきます。

 とりわけ,学長の永吉先生がこの事実をお知りになったら,さぞかし苦笑されることと思います。でも,わたしとしては,こころからのエールを送っているつもりですので,どうぞ,ご寛容に。

 こんご,こういう失態をくり返さないよう十分に注意しますので,こんごとも,このブログを追跡していただければ幸いです。そして,忌憚のないコメントを入れてくださることを期待しています。

 なお,原則として,いただいたコメントは全部,公開するつもりでいます。そして,みなさんでご議論していただければ,と考えています。また,原則として,匿名さんのコメントには応答しかねますので,お許しください。実名で,身元もしっかりわかっている方からのコメントには,誠心誠意,応答させていただきます。また,明らかに悪意を感ずるコメントは公開を差し控えさせていただきます。

 以上,訂正とお詫びまで。
 こんごともどうぞよろしくお願いいたします。

2013年1月28日月曜日

日馬富士時代の到来。全勝優勝は伊達ではない。白鵬に翳り?

 千秋楽の相撲をみて,いよいよ日馬富士時代の幕開けだ,と強く思った。今場所の日馬富士は一回りもふたまわりも,相撲内容がよくなった。スケールが大きくなった。それが今場所の日馬富士の相撲だった。とりわけ,千秋楽の相撲が。立ち合いから寄り切りまで,白鵬になすすべを与えなかった。それどころか,相撲内容に格の差さえみせつけた。もうひとつ上のレベルの世界に駆け上がった,そんな印象である。

 あの立ち合いの踏み込みの圧力で,すでに白鵬を圧倒していた。相手の土俵に一歩,攻め込んでいた。それほどの鋭い立ち合いだった。このときから白鵬はすでに受け身であった。その勢いに乗って,白鵬のあごの下に頭をつけて,あっという間に双差しを果たした。ここで勝負あり。白鵬は日馬富士の両腕をかかえて,防戦これあるのみ。たった一回だけ,腰を振って日馬富士の右の差し手を切って,つぎへの展開を見出そうとしたその瞬間に,日馬富士は,右で前まわしを引き直し,間髪を入れずに寄ってでた。右前まわしをぐいと引きつけた瞬間に白鵬の体が浮いてしまった。あとは,怒濤の寄りである。白鵬はなすすべもなく,持ち上げられるようにして土俵の外へ。立ち合いから真っ向勝負にでての,日馬富士の文句なしの圧勝。この一番のもつ意味はとてつもなく大きい。そのことは,日馬富士はもとより,白鵬が一番よく承知していることだろう。

 先場所の日馬富士の後半戦は両足首を痛めていて,パワーもスピードも半減。その結果の9勝6敗。相撲のなんたるかもわかっていない横綱審議委員長の情け容赦のない発言に,このわたしですら涙した。つまり,新横綱日馬富士の相撲を「横綱の資格はない」と唾棄したのだ。じゃあ,だれが横綱に推挙したのだ,とわたしはひとりで吼えた。なにか恨みでもあるのだろうか。二場所全勝優勝して,文句なしに横綱に登りつめた立派な力士だ。「どこか痛いところでもあったのか。だとしたら,早く治して,来場所に雪辱を。」くらいのことばがなぜ吐けぬ。いまのような横綱審議委員会なら必要ないない。もともと横綱というものは,外部委員会の合議制で決めるような,そんな存在ではないのだから。

 それにつけても今場所の日馬富士の相撲内容は素晴らしかった。立ち合いの鋭い踏み込みで,まずは,相手を圧倒していた。つねに,相手の土俵で相撲をとるべく努力していた。当たって,押し込んでおいてからの芸術的な変化技が冴え渡っていた。激しく当たって,突き立てておいてからの一瞬の変化わざ。そのスピードは,かつての横綱栃の海にも匹敵する,目の覚めるような芸術品だった。明らかに新境地を開く,みごとな場所だった。この今場所の日馬富士の相撲のすごさにどれだけの人が気づいているだろうか。

 わたしが確認したかぎりの新聞もテレビも,そして,ネットも,日馬富士の今場所の相撲のすごさについてはほとんど触れていない。解説する能力がないのかも知れない。ただ,星勘定だけして,全勝=素晴らしい,という程度の反応でしかない。ひょっとしたら,日馬富士の活躍を快しとしない輩がメディアには多いということなのだろうか。いやいや,そうではなくて相撲の醍醐味を伝えられるジャーナリストが少なくなったということなのだろう。あちこち掛け持ちで,いろいろの競技種目の記事を書いているようでは,相撲の醍醐味を理解し,解説し,記事にすることなど,まずは,不可能に近い。

 だからこそなおのこと,このブログでは強調しておこう。今場所の全勝優勝は,これまでにない内容のある相撲であった,と。つまりは,心技体の三拍子揃った,とてつもなく素晴らしい相撲内容を誇っている,と。日馬富士のこれまでの相撲歴のなかの頂点のひとつと言ってよいだろう。こんごも,つぎつぎに,そのレベルを上げていってくれるものと信じている。がしかし,そうそう簡単ではない。そのためには,両足首にかかえている時限爆弾を,一刻も早く完治させることだ。これを完全に克服したとき,日馬富士の相撲は完成するのだろう。そうなったら,もはや,天下無敵となる。日馬富士の黄金時代の到来である。

 その日のやってくることをこころから願ってやまない。それは,単なる日馬富士のファンとして,優勝記録を更新してほしいというよな単純な願望ではない。そうではなくて,これまでの大相撲のレベルを上げるために貢献してほしい。つまり,これまでの相撲史になかったような,まったく新しいスピードとパワーを兼ね備えた,きわめてレベルの高い,アーティスティックな相撲を見せてほしいからだ。それは日馬富士にしかできない芸だからだ。

 今場所にみせた,あのからだの切れのよさ,これこそ天下一品の芸だ。こんな芸をもっていた力士をわたしは知らない。日馬富士の相撲はこれからだ。円熟味がでてくるのは,これからだ。これから,ますます芸術的な相撲が完成していくことだろう。それをこれから楽しみにしたい。そのためには,まずは,なにをおいても両足首を完治させることだ。来場所は,まだ,その痛みを引きずりながらの相撲になるのかも知れない。そんな中でこそ,前人未到の相撲道を極めていくことができるのではないか。そんなことをこれからの日馬富士には期待している。

 そして,彼ならできる。そう,わたしは確信している。
 頑張れ,日馬富士!


再び「体罰」ということばについて。大阪体育大学学長さんに。

 関西方面へ,25,26,27日と出かけ,講演,研究会,フィールドワークを済ませてもどってきましたら,その間に,わたしのブログに6人の方からコメントをいただいていました。そのうちの5人の方は匿名でしたが,お一人だけ実名でコメントをいただきました。大阪体育大学学長永吉宏英先生です。このコメントにはなにをおいても応答しなければならないと考えました。コメントを寄せられたわたしのブログは,1月13日付けの「『体罰』ということばについて。大阪体育大学大学院の授業で議論」というものです。

 このブログに対して,永吉先生からいただいたコメントは以下のとおりです。

 「大阪体育大学の教育にかかわる宣言」
 大阪体育大学は,体育・スポーツや福祉の指導者養成に携わる大学としての伝統と社会的責任を踏まえ,クラブ活動を含むあらゆる教育の場において,体罰を行うことや体罰を是とする教育が行われることを断固として拒否します。
 平成25年1月24日
 大阪体育大学学長 永吉宏英

 大学の方針と食い違うように見受けられるのですが

 以上です。

 で,わたしの応答は以下のとおりです。

 「大阪体育大学の教育にかかわる宣言」を全面的に支持します。そして,わたしのブログは,この方針に食い違うことはない,と確信しています。もし,疑念をいだかれたとしたら,やはり,それは「体罰」ということばの概念をめぐる問題にあろうかと思います。若い高校生を死に追い詰めるような肉体的苦痛を与える暴力は断じて許されることではありません。しかし,残念ながら,このような暴力も含めて「体罰」ということばが世間で流布しいます。その意味では,すべての「体罰」を教育の現場から排除すべきだという考えに全面的に賛成です。

 しかし,先生もよくご存じのように,文部科学省も厳密な意味での「体罰」の概念規定をしていません。ですから,「体罰」の概念をめぐる議論も百花繚乱です。それは,恐ろしいほどの乱れ方です。その乱れに便乗したまま,メディアが濫用しますので,わたしたちはますます混乱してしまいます。その上,「体罰」問題が裁判沙汰になったときの法の裁きもまた,判例ごとに驚くほどの違いがあります。つまり,それほどに「体罰」ということばの概念規定は困難だということでもあります。

 たとえば,東京弁護士会のHPにはつぎのように書かれています。
 「体罰とは,懲戒として,殴る,蹴る,直立不動の姿勢をとらせるなどの肉体的苦痛を懲戒として与えることをいいます。トイレに行かせないといった行為も肉体的苦痛を伴うので,体罰にあたると考えられます。学校教育法11条は『校長及び教員は,教育上必要と認めるときは,文部科学大臣の定めるところにより,学生,生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし,体罰を加えることはできない。』と定めており,体罰は禁止されています。
 体罰にあたるかどうかの判断について,文部科学省は,『当該児童,生徒の年齢,健康,心身の発達状態,当該行為が行われた場所的及び時間的環境,懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え,個々の事案ごとに判断する必要がある』,『有形力(目に見える物質的な力)の行使により行われた懲戒は,その一切が体罰として許されないというものではない』などとしていますが(18文科初第1019号・平成19年2月5日),いずれにしても,肉体的苦痛を伴うようなものであれば体罰に当たる点に注意する必要があります。」

 こまかなことは省略しますが,要するに「体罰」ということばには大きなグレーゾーンがある,ということです。つまり,「体罰」と言った場合には,単なる暴力以外の意味もあることを文部科学省も認めているという次第です。そして,ここの部分に教育の根幹を形成する「教育愛」にかかわる重要な問題が潜んでいる,ということです。教育現場に携わった経験のある人であれば,みんな知っている事実です。ですから,このことを文部科学省もよく承知しているわけですので,その苦悩がこういう形で表現されているのだとわたしは考えています。

 このグレーゾーンの核心部分に触れる発言が院生さんからありましたので,ここは避けてとおるわけにはいかないと考えました。そこで,わたしの考えているところを正直に吐露したという次第です。たぶん,このあたりのことを,学長さんは「大学の方針と食い違うように見受けられるのですが」とコメントされたのでは・・・と推測しています。

 ここからは,いいわけになりますが・・・・。
 ブログは限られたスペースに,ほとんど結論的なことしか書けませんので,これまでにもしばしば同様な指摘を受けてきました。そこで,読者の方たちにお願いしていますことは,当該のブログに関連したブログをほかにも書いていますので,それらと合わせて,総合的な判断をしていただきたい,ということです。たとえば,今回のブログに直接関連するものだけでも,以下のものがありますので,参照していただければ幸いです。

 1月10日 桜宮高校バスケットボール部で起きたことは「事件」であって,「事案」ではない。
 1月15日 「新しい文化の誕生」。帝京大学ラグビー部,岩出監督のことばが素晴らしい。
 1月16日 橋下君,トンチンカンですよ。桜宮高校の生徒や受験生を犠牲にしてはいけません。
 1月17日 「涙する情動を取り戻せ」(トリン・ミンハ)。木下監督,山口良治監督,そして桜宮高校。
 1月20日 言論によるビンタは野放しのまま。これでいいのか。冗談じゃない。
 1月22日 桜宮高校の入試中止。受験生無視,在校生無視,教育委員会はだれのためのもの? 断じて許せない。
 1月22日 桜宮高校の生徒8人,記者会見で反論。素晴らしい。駄目なのは大人。

 ながながと書いてしまいました。これで学長さんへの応答を終わります。
 たいへん責任の重いポジションで,世間の荒波にもまれながらの対応,人には言えぬご苦労が多いことと思います。どうか,くじけずに,わが信ずるところを,一直線に進んでください。こころから応援しています。


〔お詫びと訂正〕
 大阪体育大学学長さんからコメントがあった,という前提で,このブログを書いてしまいました。が,学長さんからのコメントはありませんでした。それは,「匿名」さんが,「大阪体育大学の教育にかかわる宣言」をオープンにして,コメントしてくれたものでした。一度は,このブログを削除しようかと考えましたが,内容的には,前のブログを補完するものになっていると考えましたので,このまま掲載することにしました。とんだわたしの勘違いで,みなさんにはたいへんご迷惑をおかけしまた。お詫びして訂正させていただきます。ご寛容のほどを。








2013年1月24日木曜日

「有用性の限界」(バタイユ)とスポーツ文化について考える。

  明日(25日)に予定されている神戸市外大の講演の,最後の落しどころについて,いまごろになって考えている。テーマは「21世紀を生きるわたしたちのスポーツについて考える」。つまり,「21世紀を生きるわたしたちのスポーツ」が,いま,どのような情況に置かれているのかということを明確に位置づけなくてはならない。

 それを語るには,さまざまな前提条件を確認することが必要なのだが,それをこのブログで展開していると,落しどころに到達しないので,省略。で,いきなり,核心部分について,覚書風に書いてみたい。つまりは,わたしの頭の中を整理するために。

 今回の年4回の連続講演の第一回は「スポーツのルーツ(始原)について考える」というもので,そのときにスポーツなるものが「立ち現れる」きっかけはなにであったのか,という問題について考えてみた。そのときの論旨の根拠とした思想・哲学はジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』であり,『有用性の限界 呪われた部分』である。

 バタイユの考えによると,動物の世界から<横滑り>して原初の「人間」が立ち現れたときに,その後のすべての人間にかかわる問題が発生したという。つまり,人間がたんなる動物であった時代には,動物と同じように内在性の世界を生きていればよかった。「水のなかに水があるように」自他の区別もなく存在していればよかった。しかし,そこから<横滑り>して,するりと動物性(内在性)の世界から抜け出してしまった原初の人間は,自分の頭で考えるということをはじめた。

 考えるためには,ものに名前をつけることが必要になる。つまり,ものをことばにすることによって新たな概念が生まれる。ここに,まずは,ものとことばの間に大きな断裂が生まれる。たとえば,石。大きな石も,小さな石も,みんな「石」と呼ばれることになる。そして,このことばが人間の世界を新たにつくりあげていくことになる。

 内在性(水のなかに水があるような存在の仕方)を生きていた時代には,自己と他者の区別がない。つまり,自己と石の区別がない。みんな同じ内在性を生きている。ところが,あるとき「もの」(オブジェ)の存在が突然意識にのぼりはじめる。この意識にのぼりはじめる瞬間が,すなわち,バタイユのいう<横滑り>のはじまりだ。つまり,他者の存在に気づくことによって,はじめて自己というものの意識が生まれる。つまり,そういうもの(オブジェ)に名前をつけるということは,自己と他者の区別をするということだ。

 この名づけが行われたもの(オブジェ)は,ふたつの種類に分類されていく。ひとつは,自己にとってつごうのいいもの,もうひとつは,自己にとってつごうの悪いもの,である。自己にとってつごうがいいということは,自己の役に立つということ,すなわち,有用性があるということ。たとえば,石にも役に立つ石と,なんの役にも立たない石とがある。この分類の基準が有用性。役に立つ石は,やがて道具となる。つまり,人間の所有物となる。これが事物(ショーズ)だ。

 おおざっぱに言ってしまえば,人間の進化は,オブジェに気づき,それらを有用性の視点から分類し,ショーズにしていく過程だ。その主役を演じたのが理性だ。そのうちに,その理性は,なぜ,どうして,という因果関係を考えるようになる。この理性の行き着いたところのひとつ分野が近代科学だ。やがて,ダイナマイトを発明し,核を手にいれ,原爆・原発へ,そして,ついにはiPS細胞にいたる。こんにちのわたしたちは,こういう近代科学の最先端の時代を生きている。ここにいたって,初めてわたしたちは「有用性の限界」ということに気づく。

 それだけではない。オブジェに気づき,それをショーズにし,自己の思いのままに役立てることができると信じていた自己もまた,気づいてみたら,ショーズとなりはてていたのだ。つまり,自己を見失い,だれかに利用されているだけの存在に。そして,ついには,だれからも相手にもされない,たんなるオブジェになりはててしまっている。これが,こんにちのわたしたちの偽らざる姿だ。「21世紀を生きる」ということはこういうことなのだ。このような情況のなかを生きる「わたしたち」にとってスポーツとはなにか。

 スポーツは「有用性の限界」を超克することができるのか。そのことを考えるヒントをふんだんに提供してくれているテクストが,やはりバタイユの『宗教の理論』である。このテクストについては,2010年,2011年の2年間にわたって神戸市外大の「スポーツ文化論・演習」の授業をとおして,詳細にスポーツ文化論的読解を試みている。その一部は,ブログにも書いたとおりである。さらには,『スポートロジイ』(21世紀スポーツ文化研究所紀要・創刊号,2012年刊)にも掲載してあるとおり。詳細については,いずれかの方法でご確認いただきたい。

 このバタイユの『宗教の理論』に加えて,マルセル・モースの『贈与論』をしっかりと読み込むことによって,スポーツの「謎解き」はまったく新しい地平に立つことができる。そこには,スポーツはもともと「贈与」だったという事実,そして,たんなる「消尽」にすぎなかったという事実を裏づける理論仮説がふんだんに詰まっている。

 もともと,贈与であり,消尽にすぎなかったスポーツもまた,いつのまにか「有用性」の原則に絡めとられてしまって,こんにちに至っている。たとえば,健康の保持増進のためにスポーツが役に立つという「スポーツ健康神話」がいまやピークに達しているといってよいだろう。しかし,この「スポーツ健康神話」もまた,その矛盾を露呈しはじめている。『スポーツはからだに悪い』などという題名の本もでているほどだ。これはひとつの極論にすぎないが,多くのトップ・アスリートたちのからだはぼろぼろである。ドーピング問題もその大きな壁である。そのようなことに,ようやく多くの人びとが気づきはじめている。しかし,まだまだ,圧倒的少数でしかないが・・・。

 その突破口は,有用性の原理に絡めとられてしまったスポーツを脱構築すること。すなわち,スポーツは贈与であり,消尽なのだというところから再出発すること。太陽が,だれのためでもない,ただひたすらエネルギーを消尽しつづけているように。そして,やがては消尽しつくすことを運命づけられているように。スポーツもまた,みずからに蓄えられたエネルギーを,感動体験のために消尽すること,そのための文化装置として位置づけること。ここでいう感動体験とは「自己を超えでる体験」を意味する。しかも,そこが人間が生きていることの証なのだ。

 若者たちがなりふりかまわず自己の能力の限界に挑戦していくのも,自己を超えでるときの感動体験がたまらない魅力だからだ。そして,そのようなパフォーマンスをみる観客もまた,自己を他者に重ね合わせて,同じように自己を超えでる感動体験をする。スポーツの本質はここにあるのであって,それ以外のなにものでもない。それこそが,贈与であり,消尽なのだ。

 それを,「カネ」のために,つまり,経済原則に絡めとられてしまってはならない。つまり,スポーツを商品化してはならない。アスリートがオブジェとなり,あるいは,ショーズとなり,巨額の契約金のもとに売り買いされている現実をどのようにして超克するか。あるいはまた,ドーピング問題をいかに解決させるのか。こんにちのわたしたちに突きつけられているスポーツの現実は重く,厳しい。しかし,ここを通過しないことには,未来はみえてこない。

 とはいえ,ここを通過するにはいくつもの高くて,厳しいハードルがある。その一つひとつをここで論じるいとまはない。が,大づかみに言っておけば,大量生産・大量消費というライフ・スタイルを根底から変えないかぎり解決策は見出せない,とわたしは考えている。つまり,贅沢な暮しの仕方に別れを告げることができるかどうか。地球資源や環境問題を考えても,そして,直近には電力の問題を考えても,すでに,臨界点に達している。無駄をはぶいた省エネ的なライフ・スタイルを確立すべきときにきている。

 スポーツもまた同様である。施設・設備が高度化してしまって,スポーツの大衆化を著しく阻害している。たとえば,体操競技を,クラブ活動として取り組むことのできる高校は全国で数校しか存在しない。体操競技をやってみたい高校生は全国に山ほどいる。しかし,あの施設・設備を整備できる高校は,少なくとも公立高校では不可能だ。だから,競技人口は著しく少ない。この事実をどう考えるのか。

 さて,長くなってしまったので,そろそろこの稿を終わりにしたい。

 スポーツには非難されるべき問題点,改善すべき課題が山ほどある。それでもなお,スポーツがわたしたちを魅了してやまないのはなぜか。それは,スポーツの本質である「感動体験」である。どんなにスポーツが腐敗し,頽廃しようとも,この「感動体験」だけは不思議に生きつづける。この「感動体験」こそが唯一の救いなのだ。だから,ここを起点にして,もう一度,スポーツのあり方を総点検していくことが求められている。大きな感動だけではなく,小さな感動でいい。大小さまざまな感動を,少しでも多くの人が体験できるような文化装置としてのスポーツを,わたしたちの手で取り戻すこと,これが喫緊の課題ではないか,とわたしは考える。

 こんな話を,明日は展開できれば・・・・と。あとは,祈るのみ。

2013年1月23日水曜日

ことし初めての李老師のレッスン「下半身は股関節,上半身は肩関節をゆるめること」(語録・その26.)

  いつものように稽古をはじめていたら,ひょっこり李老師が顔をみせてくださり,びっくり,そして,大喜び。ことし最初の李老師によるレッスンとなりました。それまでだらだらと準備運動をしていましたが,李老師が来られた瞬間から,みんなビシッとストレッチに取組みはじめました。そして,いつもとはまったく違う緊張感のもとでの稽古がはじまりました。ありがたいことです。

 そして,久しぶりの李老師のレッスンでしたので,わたしたちの自己流の悪いクセがでていたようで,いろいろと細かいところを指導していただきました。これまで気づいていなかったいくつものポイントも指導していただきましたので,これからの稽古の目標がより明確になってきました。

 そのなかでも,今日のポイントは「下半身は股関節,上半身は肩関節をゆるめること」というご指摘でした。これまでの稽古でも「股関節をゆるめる」ということばは何回も繰り返し言われてきましたので,それなりにわかったつもりでいました。が,まだまだ,道は遠く険しいということがわかってきました。そこに,今回は「肩関節をゆるめる」というご指摘がありました。これまでは「肩の力を抜いて」という注意でした。が,「抜く」と「ゆるめる」では大違いである,この差は大きいということが,わたしなりに理解できました。これは,ある意味で,驚きでした。

 このことを指摘されたのは,ダオジュアンゴンの稽古のときでした。たとえば,前に伸びている左腕をうしろに下がりながら引き戻し,引っ張られて出てきた相手の顔を右手で突き返す(攻撃する),この意識が足りないというご指摘でした。そして,このとき,上半身は肩関節をゆるめなさい,同時に,下半身は股関節をゆるめなさい,そうすれば無理な力を使うこともなく,流れるような身のこなしとともにダオジュアンゴンの技が完成します,と李老師は仰ったのです。

 最初,わたしにはなんのことを仰っているのかわからなくてキョトンとしていました。李老師は,すぐに,何回も何回も,みずから示範してくださって,説明をしてくださいます。それでも,まだ,理解できませんでした。そうしたら,Nさんが,こういうことですよね,といって実践してみせてくれました。李老師は「そうです!」と大きな声で応答。そこで,はじめて,わたしの理解の扉が開かれることになりました。

 どういうことなのかといいますと,以下のとおりです。Nさんは,李老師の言われたとおりに,前に伸びている左腕を引き戻す,そして,右腕で攻撃する,という意識を全面に表してやってみせてくれたのです。それで気づいたのは,李老師の示範は,あまりに滑らかすぎて,どこで,なにをしているのか,わたしの眼にはまったくとらえることができなかったのです。それを,Nさんが,技の防御と攻撃という意識を明確にして,見せてくれたというわけです。

 さあ,ここからが問題です。なるほど,意識してやらねばならないこと(技の意味)はわかったものの,どうしてもギクシャクしてしまって,動作がうまく流れていきません。つまり,ロボットが動くような,機械的な動きしかできません。そこで,飛びだした李老師のことばが「下半身は股関節,上半身は肩関節をゆるめなさい」というものでした。これで,すべてのことがらが,わたしの中で一気に氷解しました。なるほど,そういうことだったのか,と。

 わたしの理解は,ダオジュアンゴンの技の全体が,「ゆるめる」ことで成り立っている,ということでした。つまり,たとえば,肩の力を「抜く」のではなく,肩関節を「ゆるめる」こと,そして,同時に股関節を「ゆるめる」ということ,これらのすべてが同時に進行していく技,それがダオジュアンゴンだということです。そういえば,武術の技の基本は「ゆるめる」ことで成り立っている,ということを思い出しました。日本の古武術も原理はまったく同じです。

 ここまで理解できたら,あとは,稽古あるのみです。どこまで股関節をゆるめ,肩関節をゆるめることができるようになるか,意識的な反復練習しかないのでしょう。そして,気づいたら,全身がゆるんでいた,というのが理想でしょう。

 李老師は,わたしのやっている悪い見本をじつに上手に模倣してみせてくださいます。それはそれはみごとなものです。その上で,そうではなくて,こうです,といってやってくださる上手の見本になると,とたんに,なにをしているのかわたしの眼にはとらえることができません。この間に横たわる深い溝はいったいなんなのでしょう。

 そうか,太極拳の奥義への道は遠く,険しい,としみじみ思いました。が,なんとか手がかりはつかめたように思いますので,これから頑張って,李老師のような流れるようなみごとなダオジュアンゴンに挑戦してみたいと思います。太極拳の究極の理想は「行雲流水」だと李老師から教えてもらっています。その鍵を握っているのは「ゆるめる」ことなのだ,と今日,こころの底から納得しました。そして,この「ゆるめる」が,すべてにゆきわたったとき,たぶん「行雲流水」が表出してくるのだろうなぁ,と想像しています。

 つぎに,李老師が顔をみせてくださるときまでに,少しでも腕を上げておきたいのもです。
 李老師にこころから謝謝です。新年のお年玉をもらったような気分です。

戻ってきた日馬富士のパワーとスピード。この相撲は芸術だ。

 日馬富士の相撲がもどってきた。全勝優勝して横綱を手にしたときの相撲がもどってきた。心技体ともに申し分なし。今場所の日馬富士の相撲は,もはや,芸術の領域に入ったと言ってよいだろう。パワーあり,スピードあり。立ち会うまで,どんな相撲になるのかはだれにもわからない。おそらく,本人にもわからないだろう。からだが勝手に反応する,そういう域に入った,とわたしはみている。絶好調そのもの。

 白鵬も調子を上げてきた。こちらも心技体のバランスがいい。相撲に迷いがない。思いのままに相撲が取れている。前に出る圧力があるので,あの左からの上手だし投げが鮮やかに決まる。

 こうなると,千秋楽が楽しみだ。おそらくは,日馬富士が全勝で,白鵬が一敗という星勘定のまま千秋楽に激突することになるだろう。それほどに,この二人の相撲は群を抜いている。

 白鵬が右から張って,すばやく左上手をとるか,そうはさせじと日馬富士が立ち合い鋭く右のどわで攻めておいてから左上手をつかむか,ここらあたりが勝負の分かれ目になるだろう。

 できることなら,日馬富士の「後の先」の立ち合いがみたい。立ち合いに白鵬が右から張ってでてくるのを一瞬,遅く立って,空振りにさせ,白鵬の体が右に回転したところで,左上手をつかみそのまま出し投げを打ち,後ろに回って送り出し,という何場所か前にみせた相撲である。この相撲を初めてみたとき,あっ,日馬富士は白鵬を超えたと思った。以後,日馬富士が絶好調のときには白鵬はいつも後手にまわって負けている。

 しかし,日馬富士は両足首に時限爆弾をかかえこんでいる。この足首に問題が生じたときは,日馬富士の相撲が荒れる。そして,星勘定に苦労することになる。先場所がそうだった。後半戦はとくにひどかった。こういうときは,白鵬に完敗する。スピードもパワーも出せないからだ。しかし,今場所はどうやら大丈夫のようだ。

 横綱土俵入では両足首ともにテーピングなしで勤めているし,四股を踏むときもしっかりと足を踏み込んでいるが,本割の土俵では,ときおり左足首にテーピングがなされている。やや不安があるということなのか,いささか心配ではある。この不安さえなければ,今場所の千秋楽の激突は,白鵬も調子がいいだけに,面白くなりそうだ。どうか,お互いに絶好調で対決してほしいものだ。そうなると,歴史に残る名勝負になる。あの,横綱昇進を決定づけた白鵬との対戦のように。投げ勝ったにもかかわらず,日馬富士は疲労困憊でしばらくは立ち上がることすらできなかった。土俵を一周する投げの連続で,すべての力を出しきる,渾身の投げ。こんな相撲は二度とみられないと思うほどの強烈なものだった。それが,どうやら,今場所,ふたたび見ることができそうだ。

 残り5日間。4大関1横綱との対決がはじまる。今場所は珍しく稀勢の里が元気なので,この人が台風の目になるかもしれない。それも,かれの得意の型に持ち込むことができれば,という条件つきでの話である。相撲そのものの力でいえば,両横綱の次元にはまだまだ遠く及ばない。が,なにかの拍子で左からのおっつけが効を奏するようなことが起きると,一瞬,相撲が面白くなるだろう。しかし,それでも,いまの両横綱にはさばかれてしまうだろう。

 これからの5日間は目が離せない。時間があったら場所に通いつづけたいところだ。が,残念ながら,金曜日から関西へ出張である。仕方がない。関西のどこかでテレビ観戦することにしよう。

 日馬富士と白鵬の,歴史に残る,芸術的な,相撲の粋をすべて出し切るような熱戦を,千秋楽で期待しよう。

神戸市外国語大学の最終講演の日が迫ってくる。緊張の日々。

 神戸市外国語大学はとてもいい大学である。第一に,キャンパスのロケーションがいい。高台にあって空気がきれいでおいしい。背後には山があって,その山をかき分けて少し登れば素晴らしい眺望を楽しむこともできる。そこには古代の古墳もある。それでいて,最寄りの駅から徒歩1分。こじんまりとしたキャンパスはアットホームな雰囲気があって,学生さんたちも楽しそうだ。だから,たまにしか訪れないわたしなどにもとても居心地がいい。

 そんな神戸市外国語大学が,こんどの3月26日で満75歳を迎えるわたしを客員教授として3年間も雇ってくださった。ありがたい(=ありえない)ことである。最初の2年間は,集中講義で,学生さんたちと楽しく過ごさせてもらった。そして,最後の3年目は年に4回の講演をすることになった。これは学生さんだけではなく神戸市民にも公開で行われる。その最後の,第4回目の講演がこんどの金曜日(1月25日)に迫ってきている。いつもにもまして,早くも緊張が高まっている。やはり,有終の美を飾りたいと思うから。

 連続で4回の講演をさせていただけるということなので,ならば,通しテーマを立てて,一貫した話の組み立てにしようと考えた。通しテーマは「スポーツとはなにか」。じつは,このテーマはわたしが大学に入って,卒論を書くための研究室を決めるときから,わたしの中にはっきりと意識しはじめていたものである。「スポーツとはなにか」。この謎解きをするために,わたしは,まずは「歴史的」な観点から取り組んでみようと考えた。その結果が,恩師岸野雄三先生との出会いとなり,こんにちのわたしをあらしめてくださった。もう,かれこれ55年になんなんとしている。この間,ずっと「スポーツとはなにか」とわたしは自問自答してきた。長い長いトンネルだった。

 「スポーツとはなにか」。終わりのない問いでもあった。しかし,つい最近になって,ようやく「スポーツとはなにか」のわたしなりの「解」がみえてきた。よし,これを4回に分けて話をしてみよう,と決断。そして,講演が無事に終わったら,その内容を単行本にまとめてみよう,と。だから,最初から,かなりの気合が入っている。その最終回がこんどの25日(金)というわけである。だから,緊張感も一入である。

 ありがたいことに,「スポーツとはなにか」というタイトルの単行本企画も,引き受けてくれる出版社も,すでに決まっている。だから,なおのこと,こんどの最終講演には気合が入る。どのように展開して,どのように落とそうか,智慧の出しどころである。

 4回の連続講演のテーマは以下のとおりである。
 第一回目:スポーツのルーツ(始原)について考える。
 第二回目:伝統スポーツの存在理由について考える。
 第三回目:グローバル・スタンダードとしての近代スポーツについて考える。
 第四回目:21世紀を生きるわたしたちのスポーツについて考える。

 こうしてテーマを書きつらねてみると,いつのまにか,スポーツ史を語っていることがわかる。伝統的なアカデミズムに則れば,みごとに「古代」「中世」「近代」「現代」の4時代区分でテーマがかかげられている。しかし,わたしの意識としては,第一回目と第二回目は「前近代」,第三回目が「近代」,そして第四回目が「後近代」,というわたしの発想にもとづく3時代区分である。この時代区分にこだわり,提唱している理由は,あくまでも,「近代」という時代がいかに特異・特殊な時代であったかということをクローズアップさせることにある。

 わたしたちは,ようやくにして,「近代」という時代の奇怪しさに気づきはじめ,この時代がいまや臨界点に達しているという,つまりは,極限状態だということを認識しはじめている。となれば,この「近代」という時代をどのようにして超克していくのか,が問われていることになる。「近代」の極限状態とは,すなわち,スポーツの領域に持ち込めば,「近代スポーツ競技」の臨界点ということだ。この「近代スポーツ競技」がいま,どのような情況に追い込まれているのかということを突き詰めて考えていけば,つぎなる「後近代」への突破口がみえてくる。

 それも,スポーツのルーツを問い返し,伝統スポーツの存在理由を考えることによって,近代スポーツ競技が陥った隘路が浮き彫りにされ,やがては21世紀のスポーツ文化が,おのずからその姿をみせはじめる,というのがわたしのいま考えていることである。これを,こんどの講演会で論じてみたいと思う。


2013年1月22日火曜日

桜宮高校の3年生8人,記者会見で反論。素晴らしい。駄目なのは大人。

 さきほどのブログを書いてから,それとなくネット情報をサーフしていたら,ありました。ありました。桜宮高校の在校生による記者会見。まことにまっとうな発言に,まだまだ日本も捨てたものではない,と感動しました。

 詳しくは個別にご確認いただきたいが,概要は以下のとおり。ほとんどは引用。(22時35分,時事通信配信)

 21日夜,同校3年の男子生徒2人と女子生徒6人が記者会見に臨んだ。「私たちは納得がいかない」「学校を守りたい」。8人は「まだ結論を覆せるかも」と,橋下市長と市教委に対し,決意の反論を展開した。
 市役所5階の記者クラブで午後7時半から1時間余にわたって会見。8人はいずれも運動部の元キャプテン。制服のブレザー姿で横一列に並んだ。
 「体育科に魅力を感じて受験したいと思う生徒がほとんど。普通科に回されるのは,私たちは納得がいかない」。女子生徒が口火を切った。橋下市長が同日朝,全校生徒を前に説明したが,「具体的な理由がなく,私たちの声も十分に聞いてくれなかった。思いは1時間で話せるわけがない。「生徒,受験生のことを考えて」と何度も繰り返したが聞き入れてはもらえなかった。在校生や受験生のことを考えたらもっと違う結論がでたんじゃないか」と訴えた。
 橋下市長が体罰の背景に「生徒たちも容認していた」「勝利至上主義」などと発言していたのに対し,女子生徒は「容認していないし,勝つことだけが目標ではなく,礼儀など人として一番大切なことを教えてもらっている」と反論。
 自殺問題については「心の傷は深く,重く受け止めている。傷を癒せるのは先生」として教諭の総入れ換えにも反対し,「多くの生徒が学校を守りたいと思っている」と強調した。
 男子生徒は「今回の結果が覆せるのではないかと,強い思いをもってきた」と会見の動機を語った。別の女子生徒も「今まで続いている伝統は今でも正しいと思っている」と力説した。

 わたしは涙を流しながら,この配信を読みました。もちろん,記事としての書き方に異論もありますが,まずは,おしなべてよく書けていると思いました。これが生徒たちの「生の声」なのだということもよく伝わってきました。この勇気ある生徒たちにこころから拍手を送りたいとおもいます。こういう生徒たちがいるということを確信していましたので,さきほどのブログを書いた次第です。最後のところでわたしが呼びかけたわたしの教え子でもある桜宮高校の卒業生も,こういう記者会見にでてくる正義感の強い人間でした。

 ですから,桜宮高校のOB/OGのみなさん,みんな黙っていないで声を挙げてほしいと思います。声を挙げることが,亡くなった生徒への,せめてもの贐ではないかと思います。わたしは直接の関係者ではありませんが,同じ体育・スポーツノ世界に生きている人間の一人として,黙って見過ごすわけにはいきません。

 さあ,こんどは先生たちの発言が必要です。ほんとうのところを表明してください。場合によっては,教員会議で話し合ったこととして。あるいは,校長の所見として。どんな形式でもいい。やはり,教員の声が聴きたい,それも,ホンネの声が聴きたい,それがわたしのいまの希望です。さらには,父兄の声も。そうして,今回の入試中止という具体的な事態をとおして,ことの深層(真相)を知りたいと思っています。

 わたし自身は,「体罰」などという,うすっぺらなことばに翻弄されて,ことの実態を歪曲しているメディアの報道の仕方に大きな憤りを感じています。そして,それを鵜呑みにして,騒ぎ立てるポピュリズムにも腹を立てています。そうではなくて,ことの真相,問題の所在を,しっかりと見届けることが先決です。

 だからこそ,今回の生徒さん8人による記者会見にこころからのエールを送りたいと思います。やはり,若い人は素晴らしい。「納得いかない」と思ったことをきちんと言える。こういう生徒が育っているのも,桜宮高校体育科の厳しい教育の成果ではないでしょうか。

 まだまだ,わからないことだらけですが,少なくとも,これまでのメディアの報道の仕方はあまりにものごとを単純にとらえすぎているのではないか,というのがわたしの現段階での感想です。

 突破口は開かれました。勇気ある生徒たちによって。さあ,これからです。こんどは先生たちです。そして,関係者全員が声を挙げるときです。みんなでこの問題を考えるために。そして,亡くなった生徒の遺志に応えるために。

桜宮高校の入試中止。受験生無視,在校生無視,教育委員会はだれのためのもの?断じて許せない。

 ああ,ついにここまできてしまったか。世も末である。教育委員会は子どもたちの教育を守るための組織であるとわたしは長い間,そう信じてきた。なのに,教育委員会は子どもたちや親や教員を守るための組織ではなかったのか。その教育委員会が,あろうことか,なんの罪もない受験生を切り捨てた。その決定を文科相も認めた。いったい,だれを信じたらいいのか。

 無責任体制の権化。だれも責任をとろうとはしない。ひとり,気の狂った市長が,おれの言うことを聞かなければ予算執行を行わない,と脅しをかけた。そんなバカな発言にみんな怯えてしまったのか,それとも,自己保身に走ったのか,入試中止を決定してしまった。5人の委員のうち4人の,バカな委員のことだ。1人は,それに反対した。この委員を信じたい。が,形式民主主義は,多数決ですべてを決めてしまう。このたった1人の,わたしからすれば,まっとうな意見は無視されてしまう。教育の場でこのようなことがまかりとおってしまっていいのだろうか。なにゆえに反対なのか,その根拠に耳を傾けることがあってもいいではないか。このたった一人の反対意見について,もっと開かれ場で議論をしたっていいではないか(早い段階でのインターネット情報では,5人のうち3人が「中止」意見だった。途中から,もう一人が「中止」派になったということか)。

 が,大阪市教育委員会はそうはしなかった。いそいそと「入試中止」を決定してしまった。それはそれで意見はあろう。教育現場が混乱をきたす(入試までの日がない)。予算執行が行われないと,もっと大きな混乱をもたらすことになる。だから,小異を切り捨てて,大同につく,という立場もあろう。しかし,これは間違いだ。少ない受験生を切り捨てて,いままでどおりの予算を確保して,多くの受験生の利益を守る方がいい,と考えたとしたらそれは大間違いだ。でも,これが日本の,情けないことではあるが,ほんとうの姿なのだ。(原爆の被爆者,水俣病,原発被災者,などなど。みんな軽視されてきた。)

 「みてみぬふりをする」「ことなかれ主義」「無責任体制」,そして,「保身主義」。わが身可愛さに他者を切り捨てる。あとは「だんまり」。大阪市教育委員会の5人の委員さん。あなた方が(一人を除いて),そういう「無責任」な人たちだったとは,大阪市民の大多数の人は思っていなかったはず。でも,たった一人,良識のある委員さんがいた。この人にメディアは光を当ててほしい。でも,たぶん,どこのメディアも無視するのだろう。それが,いまの日本のメディアだ。少数意見はことごとく無視していく。そして,大衆を煽動する。多数に寄り掛かって。尖閣諸島の問題がそうだ。あれは日本が「盗み取った」のだ,と言えば「国賊」扱いにされてしまう(鳩山由紀夫君のように,そして,わたしも)。

 少数意見は,よほどのことがないかぎり,わたしは「正しい」と思っている。ただ,その「正しさ」を理解できない多数が押し切ってしまう。それが世の中というものだ。イエス,ソクラテス,コペルニクス,みんな多数決で殺されてしまった。民主主義の暴力。ポヒュリズム。

 いまは,桜宮高校を受験しようと夢見ていた純粋無垢の受験生たちが,その犠牲者だ。こんなこともわからない橋下市長,大阪市教育委員会委員,文部科学大臣。情けない。あなた方に生きる生身の人間の「血」が流れているとは思えない。弱者を切り捨てて保身に走る輩が世の中の中枢にいる。それも,けして少なくない。むしろ,多数だ。

 しかし,こんな決定を大阪市民が黙っているとは,わたしは思わない。大阪市民は人情の篤い人が多い。「受験生をどないしてくれんの,可哀相に」という人たちが立ち上がるに違いない。また,それを期待してもいる。

 在校生はもっとつらかろう。「ぼくたちはなにか悪いことをしたの?」と。なんで入試が中止になるねん,と。クラブは上級生が指導したっていいではないか,と。一時的に,別の一般教科の先生に肩代わりしてもらって。

 いま,「ことなかれ主義」に走ってはならない。いまこそ,からだを張って,自己主張をしよう。教育委員会委員を筆頭に。学校長,教員,父兄,生徒,受験生。そして,OB。さらには,良識ある大阪市民。橋下市長がなんと言おうと,予算執行を拒否しようと,わたしたちはこう考える,と。ありとあらゆる手段を用いて,意志表示をしていこうではないか。

 桜宮高校卒業生の君。わたしの教え子でもある君。そして,いまや立派な高校の体育教師となっている君。いまこそ,からだを張って,自己主張をしてほしい。場合によっては,わたしもからだを張って応援する。頑張れ。



2013年1月20日日曜日

大鵬さんが逝った。わたしと同時代を生きた人間として哀惜の念に耐えない。ご冥福を祈る。

 大鵬といえば柏戸。この二人はセットだった。柔の大鵬,剛の柏戸。このふたりの相撲は面白かった。どちらが得意の型にもちこむかで勝負は決まった。だから,組んずほぐれつの相撲が展開した。大鵬は柏戸をつかまえて四つに組みたい。柏戸は突っ張っておいて,大鵬をはずにあてがって一気に寄り切りたい。それを嫌って大鵬もあの手この手をくりだして,四つに組み止めてからじっくりと攻める。柏戸は立ち合いから一気に,一直線にがぶりたい。この攻防はみごとだった。だから,千秋楽の横綱対決は,立ち会うまでが大変だった。つまり,仕切り直しをしている間に息が詰まってしまって,息苦しくて仕方がなくなってしまう。これがまたたまらなかった。立ち上がってからの濃密な数秒間,呼吸を止めてテレビを見入ったものだ。

 その大鵬さんが逝った。万感迫るものがある。あの「昭和の大横綱」と呼ばれ,大記録をつぎつぎに打ち立て,日本相撲史に燦然と輝くその名を残した。しかし,運命のいたずらは容赦なし。36歳の若さで脳梗塞で倒れ,左半身が不自由になった。それから必死にリハビリをつづけながら,弟子を育て,日本相撲協会のために全力を投じて,こんにちまで生きてきた。伝え聴くところによれば,四六時中,相撲のことを考えていたという。立派な人であったとしみじみ思う。

 昭和35年,16歳で相撲界に入門。わたしは18歳。この同じ年に,体操競技でオリンピックにでたいという夢をいだいて,東京教育大学に進学。わたしは怪我をして,もろくも夢破れてしまう。大鵬は努力一筋,順調に昇進をつづけていった。

 もちろん,その当時,納屋幸喜の名前も知らない。納屋という醜名で相撲をとっていたことも知らない。しかし,記録破りのスピード出世をして,十両に昇進したときに「大鵬」という醜名になったニュースは大きく報じられたので記憶している。将来有望な若手力士の登場である。このときから,わたしのなかに「大鵬」という風変わりな力士名とともに,かれの相撲内容が記憶に残るようになる。しかし,そのころの大鵬はまだからだが細くてか弱く見えた。にもかかわらず,いくら攻められても,かんたんには土俵を割らない。そして,いつのまにか自分充分の組み手に持ち込み,じわじわと相手不利の情況をつくり,勝ち星につなげる。いわゆる,理詰めの,負けない相撲,というのがわたしの最初の印象である。

 それから,からだができてくると,あれよあれよという間に大鵬は幕内を駆け上がり,柏戸と競り合いながら,ふたり同時に横綱に昇進した。ここから「柏鵬時代」がはじまる。わたしは,どちらかといえば,柏戸が好きだった。自分の相撲の型をはっきりもっていて,その型にはまったら,だれにも負けない,そのわかりやすさが好きだった。相手を真っ正面にとらえて,一気に押し出す,この単純でわかりやすい型が好きだった。そのときの強さは,大鵬といえども,とうにもならなかった。相撲の型をもつ,ということの意味をはじめて知ったのが柏戸の相撲だった。だから,大鵬はこの柏戸の相撲をいかにはぐらかし,自分得意の型に持ち込むかをつねに工夫し,土俵で必死になった。この立ち合い一瞬の攻防を見届けることが,相撲好きのわたしには,なにものにも代えがたい大事な時間となった。

 数々の名勝負を,大鵬は柏戸との対戦で残してくれた。のちに,大鵬が書いた自伝を読んで知ったことだが,この二人は大の仲良しだった。柏戸が八百長疑惑に追い込まれて苦しんでいたころ,たまたまタクシーで柏戸と一緒に乗り合わせたときに「つらいだろう」と声をかけたら,柏戸が号泣したという。この話を読んで,わたしももらい泣きをしてしまったことがある。以後,大鵬と柏戸とはだれにも知られることもなく,こころの奥深くで強い絆で結ばれていた,という。こういうピンチに立たされたときの相手の気持ちを思いやるこころを大鵬はもっていた。それが大鵬なのだ。

 自己には厳しいが,他者には優しい,これが大きな仕事をなし遂げる人の特性だ。大鵬はその典型的な人だった。だから,現役の力士たちの多くが,連合稽古のときなどに大鵬親方に声をかけられ,大きな勇気をもらったという。相撲は基本が大事だ,と繰り返し教えてもらった人も多い。ことば数の少ない人だったようだが,発することばは多くの人のこころにとどいていた。核心をつくことしか言わなかったという。

 納屋少年は,相撲部屋の新弟子になってはじめてラーメンを食べて感動したという。16歳。わたしは,東京にでてきてはじめてラーメンを食べた。18歳。感動した。新宿駅近くのバラック建ての岐阜屋というラーメン屋さんで食べた。これが初体験。15円。公衆電話が一回10円。外食券食堂(米がまだ配給の時代だったので,実家のお米屋さんから外食券をもらってきて,それを店に出すと安くなる)があった時代。まだ,みんな空腹をかかえて生きていた時代の話。

 そういう記憶が,大鵬という名とともに思い出される。
 「巨人,大鵬,卵焼き」,こどもの好きなものの代名詞。しかし,このころの「卵焼き」は憧れの食べ物であったことを,いまの人たちは知らないだろう。いま,スーパーで売られている卵の値段をみるたびに,わたしは悲しくなる。あまりに安すぎる。わたしの子どものころには家で鶏を飼育していたが,卵は売るためのものであって,食べるためのものではなかった。事実,高く売れた。このお金で,野球のグローブやバットやボールを買った。だから,運動会の日の朝食に,「卵かけご飯」を食べさせてもらえたことが,どれほど嬉しかったことか。

 納屋幸喜少年は,わたしなどより,もっともっと苦しい生活を強いられて育っている。詳しいことは省略するが,その苦しい子ども時代にくらべれば,相撲部屋での苦労はなんでもなかった,という。なにより,腹一杯,食べることができたことが嬉しかったという。この空腹を満たすことのできる喜びは,わたしにもわかる。戦時中に焼け出されて疎開していた時代には,学校で昼食時になると家でしてくると言って嘘をつき,実際は昼食抜きだった。食べるものがなかったのである。あのひもじさに比べたら,その後の人生での大抵のことは我慢できた。

 大鵬さんの思い出は,どうしても,わたしの過去と重なってくる。同時代を生きた人間としての共感がある。そういう同時代人の英雄が,ひとり,逝ってしまった。寂しいかぎりである。

 こころからご冥福を祈り,こころからの哀悼の意を表したいと思う。
 大鵬さん,やすらかに。そして,ありがとう。


言論によるビンタは野放しのまま。これでいいのか。冗談じゃない。

 鳩山由紀夫が「国賊」ならば,わたしもまた立派な「国賊」である,と昨日(19日)のブログに書いた。その理由はすでに書いたとおりであるが,その他にもある。わたしは長い教職生活の間に,中国や韓国からの留学生をたくさん受け入れてきた。そのうちの何人かは,博士論文を書くためのお世話もしてきた。かれらは,みんな優秀で,その多くは中国や韓国に帰って大学の教授になっている。そのかれらとは,いまも,密接な交流がつづいている。時折,かれらが日本にもやってくるので,あるいはまた,わたしがあちらに出かけたりするので,そのつど,かなり踏み込んだ議論をする。お互いの信頼関係があるので,ホンネで話をする。

 当然のことながら,今回の「尖閣諸島」の問題についても意見の交換をしている。こちらは,いまのところメールでやりとりをしている。そして,みんな異口同音に「日本がだまし取った」という趣旨の意見を述べている。わたしも,まったく同感である,と応答している。そして,その根拠をポツダム宣言以後の連合国の処理の仕方に問題があったと指摘して,かれらの意見を尋ねみたりしている。そして,やはり,現段階では「棚上げ」にして,しかるべき「時」を待つのがベターである,と。もちろん,このわたしの意見に反対する中国人もないわけではない。たとえば,「実効支配」していること事態が間違っている,という意見の人もいる。しかし,それを言いはじめると日中国交回復の前提が崩れてしまうから,それはもう少し待ってほしい,とわたしは応答している。そして,なにより大事なことはお互いに「友人」になることだ,と。しかし,いまや,その前提すら日本が一方的に破棄してしまい,友人になることどころか,真っ向から「敵対」することになってしまっている。

 しかし,こういう民間でのやりとりもまた「国賊」だというのであれば,わたしはまぎれもなく「国賊」のひとりだ。このように言われることを覚悟した上で,でも,ほんとうのことは言っておこうと腹をくくることにしている。

 その一方で,わたしにも言い分はある。はっきり言っておこう。小野寺国防相の発言そのものが,わたしにとっては「言論によるビンタ」に等しい,ということだ。大臣の言論に対して,わたしたち庶民は,せいぜいこういうブログで対抗するしか方法はない。言ってみれば,ほとんど無抵抗の庶民にビンタをくらわしているのと変わりはない。現に,わたしは少なからず怯えている。そして,相当の覚悟をもって,このブログを書いている。

 この言論という名のビンタは,じつは,ずいぶん前から浸透している。たとえば,テレビ討論などをみていても,わたしのような意見を述べる論者には超党派で集中攻撃を浴びせてくる。ついには,わたしのような論者は,ひとりも登場させてもらえない情況ができあがってしまっている。あらかじめ,排除されているとしか思えない。そして,みんながみんな異口同音に「尖閣諸島」は日本の固有の領土だ,という前提の話しかしない。そうなると,日本の国民の圧倒的多数がそれをそのまま鵜呑みにして,信じることになる。そして,「早く軍隊をつくって,中国の船を追い出してしまえ」「竹島をとりもどせ」「北朝鮮をやっつけてしまえ」という暴論を吐く人が,日に日に増えている。恐ろしいことが,いま,水面下で進展している。

 それに輪をかけるようにして,新聞もテレビも「中国船が領海を侵犯した」「飛行機が領空侵犯」という報道をくり返す。

 これでは,言論による「往復ビンタ」ではないのか。

 庶民はいつのまにか,この「往復ビンタ」に順応してしまい,なんの抵抗もなく,ああ,そうなんだ,と思うようになる。そして,にわかに愛国主義者に変身する。そして,いとも短絡的に「軍隊をつくって,やっつけてしまえ」と吼えはじめる。そのくせ,自分の息子たちは絶対に兵隊には行かさない,と平然と言ってのける。じゃあ,だれが戦うのか。そんなことはそっちのけの愛国主義者が激増している。わたしの身のまわりにもうじゃうじゃいる。そして,自分の言動の矛盾に気づいてはいない。こういう庶民レベルの話が,いまでは,高学歴者で一流企業に勤めるエリート社員の間にも広がっている,という。わたしも,そのうちの何人かの人と話す機会があった。

 もう,びっくり仰天を通り越して,唖然としてしまって,茫然自失である。エリートもまた,「思考停止」「自発的隷従」の隘路に入り込んでしまっている。まわりの人がみんなそうなってしまうと,自分の奇怪しさに気づくこともなくなってしまう。

 こんなことが日常化しつつある。となると,どういうことが起こるのか。

 漫画家牧野圭一のデビュー当時のマンガにつぎのようなものがある。
 サラリーマンが,いつものように朝,バス停で新聞を読みながら立っている。そこに,どこかから鉄砲の弾が飛んできて新聞紙を突き抜けていく。サラリーマンはなにが起きたのかわけがわからなくて呆然と立ち尽くす。すると,そのバス停周辺はいつのまにか戦場になっている。そして,兵士たちが銃撃戦を繰り広げている。サラリーマンは急いで身構える。そのサラリーマンに銃が手渡される。最初は自分の身を守るために銃を構えているが,敵が目の前に現れると,もう,われを忘れて銃を撃ちつづける。いつのまにか立派な兵士に変身している・・・・というマンガである。

 熱心に新聞を読んでいたサラリーマンが,あっという間に,ひとりの兵士に成り果てる。
 言論による「往復ビンタ」をくらっているうちに,だれもが無抵抗のまま兵士となる可能性を予言しているようなマンガである。

2013年1月19日土曜日

鳩山由紀夫が「国賊」なら,わたしも立派な「国賊」だ。

 政府自民党サイドから恐ろしい発言が相次いでいる。ちょっとただごとではないところに向って猛進(盲進)していく,その勢いに,唖然としている。自民党には河野洋平というご意見番がいるが,蚊帳の外に放り出して無視である。まともなことを言う人は邪魔なのだ。そして,自民党右派の仲良しクラブが手を結んで,盲進(猛進)していく姿は,危なくて仕方がない。

 たとえば,小野寺五典防衛相の「国賊」発言,小池議員の「鳩は鳩小屋に」発言・・・・。それに呼応するかのようにネット右翼が,悦び勇んで,トンチンカンな発言をくり返している。惨憺たる情況がネットの世界で展開している。なるほど,安倍君がネットの世界をこよなく愛しているというのも,まことによく理解できる。しかし,間違ってはいけない。ネットの世界は,原則として,匿名発言である。都合がわるくなると雲散霧消してしまう,そういう人たちが主流である,ということを。

 もちろん,話題の中心は,鳩山由紀夫元総理の訪中時での「係争地」発言に対する批判である。そして,南京大虐殺に関する発言である。

 これまでの鳩山由紀夫の言動をとおして,メディアが作り上げてしまった「宇宙人」イメージがあまりに強烈なために,いまも,多くの誤解に晒されている。その意味ではまことに気の毒な人ではある。が,この人の根っこにある純粋さ,素直さ,まじめさは,捨てたものではないとわたしは思ってきた。ただ,政治家としての段取りのまずさ,根回しの稚拙さが命取りとなって,あえなく政界から追い出されてしまった(民主党・ノダが,意図的・計画的に居場所を奪ってしまった)。

しかし,わたしは,鳩山由紀夫というひとりの人間が導き出す結論(政治課題)には,不思議に一致することが多かった。「最低でも県外移転」「消費税増税反対」「TPP参加反対」,などなど。ただし,それにともなう言動には,首を捻らなくてはならないことも多かったが・・・・。

 たとえば,こんどの「係争地」発言。これは,要するに「棚上げ」論だ。日中国交回復いらい40年にわたって,日中両国が合意し,両国ともにその合意を守ってきた,ひとつの重要な了解事項だ。それを無視して,突然,日本が一方的に「わが国固有の領土」であるとして「国有化」してしまった。その経緯はよくご存じのとおりである。驚いたことに日本共産党まで同調している。あちゃーっ!?である。まるで,日本国中,お祭り騒ぎである。こうなると,もう,歯止めがきかなくなる。まるで熱病にかかったかのように。

 にもかかわらず,アメリカ政府は,尖閣諸島にかんして「安保条約の範囲内にはあるが,領土に関してはとちらにも与しない」という姿勢を崩していない。国際社会もじっと息をひそめて見守っているようだ。ということは「どちらにも与しない」というアメリカ政府の姿勢を支持しているようにみえる。というより,「棚上げ」論を支持している,というべきか。

 そして,とうとう,アメリカの新聞(社説)が「尖閣諸島は日本が盗み取った」という見出しの記事を掲載した,という。その詳細を確認していないので,あまり,ですぎたことは言えないが,わたしとしては「とうとう,このような意見がでてきたか」というのが正直な感想である。この手の議論は,一度,はじまると燎原の火のようにあっという間に広がっていく。日本が袋叩きに合い,国際社会から日本の信用は一気に失墜してしまうのではないか,とわたしは畏れる。

 すでに,従軍慰安婦に関する河野洋平談話(1993年)を見直すという日本政府発言に対して,アメリカ政府は素早く反応し,それはならぬ,と釘を刺している。尖閣諸島に関する河野洋平の主張もじつに明確である(『世界』参照のこと)。日中国交回復時に合意した「棚上げ」論だ。ここに戻ってやり直すべし,と。その河野洋平の声を,いまの自民党政府は,まったく聞く耳をもたない。情けないかぎりである。だから,アメリカ政府は安倍政権に期待と疑問という,「?」マークつきの姿勢をくずしていない。

 くり返すまでもなく,わたしも「棚上げ」論から出直すべきだ,と考えている。そうして,日中両国が,つぎのステップの合意にいたるまで,じっくりと時間をかけて理解を深めることである。しかも,これまでも日本の「実効支配」を中国は容認してきたのだから。小泉政権も模索したように,日中共同開発というような「友好」を前提にした道を切り開くべきではないか。一刻も速く,国際社会から「盗み取った」と言われないように,先手を打つべきだ。しかし,いまの安倍君にはその耳ももたないだろう。となると,自民党沈没のシナリオは,外からやってきそうだ。

 鳩山由紀夫が「国賊」だというのなら,わたしもまた「国賊」の一員に加えてもらいたいものだ。「国賊」は裏返せば「救国の士」にもなる。「たった一人の叛乱」のような話ではあるが,ここは黙っているわけにはいかぬ。わたしなりの決意表明である。

2013年1月17日木曜日

「涙する情動を取り戻せ」(トリン・ミンハ)。木下恵介監督,山口良治監督,そして桜宮高校。

 NHKのクローズアップ・現代で,今夜は,木下恵介監督の映画が取り上げられていました。えっ,どうして?と思いながら,ぼんやりと眺めていました。もちろん,夕食の時間ですから,片方で夕刊を眺めながら・・・。そうしたら,世界の4大映画祭のすべてで木下作品が取り上げられ,大きな話題になっているというのです。

 その瞬間に,ハッと脳裏に浮かんだのは,なぜか,シモーヌ・ヴェイユの「根をもつこと」,そして「魂の欲求」ということばでした。同時に,トリン・ミンハの「涙する情動を取り戻せ」ということばでした。

 木下恵介監督といっても,もはや知る人の方が少ないかもしれません。わたしたちの世代の人間は,みんな木下映画をみて「涙した」ものでした。もう,最初から最後までボロボロに泣いたものでした。ですから,映画館に向かうときから泣くことを覚悟して,ハンカチを何枚も用意してでかけたものです。たとえば,木下映画の代表作といわれる『喜びも悲しみも幾年月』。佐田啓二,高峰秀子主演の,いい映画でした。わたしが大学の2年生の夏休みと記憶していますので(間違っているかもしれません),昭和32年の作品です。夏休みに帰省したら,郷里の豊橋市の松竹映画館で上映していました。無理やり,母親を連れ出して,見に行きました。

 昭和20年が敗戦の年。その1年前にアメリカのB29の爆撃によって焼け出され,丸裸のまま母親の実家に駆け込みました。かろうじて命拾いをしてから,食べるものも,着るものもまともには手に入らない苦しい配給の時代を過ごしました。それから12年間,5人の子どもたちを育てるために両親は必死でした。そんな情況のなかでも,わたしはありがたいことに大学に進学させてもらいました。もちろん,東京での生活費の大半はアルバイトで稼ぎました。そうして2年目の夏休みで帰省したときの話です。

 母親はお金がないのでもったいない,と言って行こうとはしませんでした。わたしは,三日間ほどかけて母親を口説きました。この映画は,木下恵介監督の傑作と言われている映画なので,試しにみておいた方がいい,と。そうして,ようやく映画館にでかけました。でも,間違いなく泣いてしまう映画なので和タオルをもっていきました。予想どおり,わたしも泣きましたが,母親は嗚咽していました。母親は,途中から,わたしの左手を両手で握りしめて,離そうとはしませんでした。そうして,交代で和タオルをつかっていました。こんなにたくさんの涙を流した映画は,あとにもさきにもありません。それはそれは,たいへんな映画でした。そして,大満足しました。

 わたしの記憶している木下映画はみんなお涙頂戴ものばかりでした。それが,いま,日本の若い世代に注目されているだけではなくて,世界の映画ファンを魅了しているというのです。その理由について,何人かの映画監督さんが登場して解説をしていました。そのなかで,印象に残ったのは,「お互いに共感するこころ」が大事だという考え方が木下監督の根源にあって,それが映画となって表出しているのでは・・・という山田太一さんのことばでした。1950年代の映画ですから,みんな貧しく,世の中の矛盾に泣かされつづける弱者が,耐えに耐えて生きていく,そういう人物が主人公になっていました。そこでの人と人とを結び付ける力は,「共感するこころ」,そして「涙する情動」でした。

 他者と苦しみを分かち合う,共感し合う,そして涙する情動・・・・こういうものを現代の文明社会に生きるわたしたちはすっかり忘れてしまっています。そのことをいちはやく指摘したのがトリン・ミンハでした。「涙する情動を取り戻せ」という名言はトリン・ミンハの名前とともに記憶しています。

 「涙する情動」で思い出すのは「泣き虫先生」こと山口良治監督のことです。もはや,この人の名前を知る人も少なくなってしまったかもしれません。伏見工業高校ラグビー部監督として全国にその名をとどろかせ,映画やテレビでもおなじみになった『スクール☆ワォーズ』のモデルとなった人です。詳しい説明はたぶん不要でしょう。ツッパリや悪がきばかりが集まっていたラグビー部員を忍耐づよく指導して,全国優勝にまで導いた名監督です。この山口さんのあだ名が「泣き虫先生」。

 強いチームにしてやろうと思って対外試合を組むと,生徒たちはボイコットしてしまう,校内での生活の規律を守るように指導しても,学校の外で悪をする,さんざん苦労した挙句,とうとう先生はラグビー部員たちを前にして「涙する」。どうしてこんなことがわかってもらえないのか,と涙ながらにお説教。「先生が泣いている」。ここから生徒たちの態度に変化が現れはじめます。そして,ついには,試合に勝てるようになってきます。すると「いい試合をしてくれた」「ありがとう」と言って「涙する」。負けるとわたしの指導が悪かったと謝り「ごめん」と言って「涙する」。山口さんのキー・ワードは「感動」。人は感動することが大事だ,と。感動する経験が人を変える,と。山口さんはそれを地でいく人。生徒たちが,それに気づくとみるみるうちに変わっていく。山口監督は「気づかせる」ことの名人。

 生徒たちと苦しみを分かち合い,共感し合い,そして涙する,これが山口監督のセオリー。こういう監督のもとから多くの名選手,名コーチ,名監督が輩出したこともよく知られているとおりです。そのひとりが平尾誠ニ。

 そんな山口良治監督を義父にもつ人,それが桜宮高校バスケットボール部顧問の先生だ,と週刊誌が報じています。ほんとうか?とわが目を疑ってしまいます。もし,ほんとうだとしたら,この顧問の先生には「涙する情動」が欠けていたのだろうか,と考えてしまいます。同じ「熱血」先生でも,生徒の前で「涙する情動」を持ち合わせているかどうか,ここがおおきな分かれ目であり,決定的なポイントとなります。

 箱根駅伝でみごと総合優勝に導いた日体大の別府監督もまた,去年の惨敗のあと,初めて選手たちの前で「涙した」といいます。そこから「基本の基」,選手たちの生活態度からやり直すことによって,なにが大事なことかということに選手たちが「気づき」はじめたといいます。そうして,選手たちは生まれ変わったように走りはじめたといいます。

 「涙する情動を取り戻せ」というトリン・ミンハのことばが,これからふたたび注目されるようになるのでしょう。木下恵介監督作品がそのきっかけになるのでは,と今日のクローズアップ現代は教えてくれました。それは,とりもなおさず,シモーヌ・ヴェイユのいう「根をもつこと」であり,「魂の欲求」を大事にし,実現させることにもつながっていくはずです。近代という時代をとおして「根こぎ」にされてしまった「魂の欲求」(たとえば,「涙する情動」)を,もう一度,「根づき」させること(根づかせること)が,不可欠であるとシモーヌ・ヴェイユは言います。

 わたしたちは,いま,とても重要な転換期に立たされている,としみじみ思います。

2013年1月16日水曜日

橋下君,トンチンカンですよ。桜宮高校の生徒や受験生を犠牲にしてはいけません。

 あまりにバカバカしい話なので無視しようと決めていましたが,やはり,許せない,と考え直し,書くことにしました。今朝の新聞に,桜宮高「体育科の入試中止」,橋下市長 バスケ部 無期限停止,という記事がありました。唖然として,開いた口が塞がらない・・・・とはこのことです。

 橋下君,いったい,あなたはなにを考えているのでしょうか。
 今回の顧問教師による暴力事件での最大の犠牲者は桜宮高校の生徒たちです。一番ショックを受けて呆然としているのは生徒です。この生徒たちを,どのようにして安心させ,救済するか,それこそが喫緊の課題です。一刻も早く,その手当てをすることがなによりも優先させるべき,あなたの使命です。それを「体育科の入試中止」ときた。生徒たちがなにか過失を犯したとでもいうのでしょうか。

 生徒たちにはなにも過失はありません。

 「バスケ部 無期限停止」も,なるほどと思わせながらも,じつはこれもトンチンカンです。生徒に過失はなにもありません。暴力をふるった先生だけが問題なのです。たとえば,高校の野球部などで生徒たちが重大な過失を犯したときにとられる方法が「無期限活動停止」でした。ここにも問題がないわけではありません。いわゆる「連帯責任」という考え方と,それに基づく処分の仕方です。過失を犯した生徒だけを厳重に処分すればいいのであって,まじめに努力してきた生徒たちにはなんの咎もありません。しかも,今回の場合には,ただひたすら先生の問題です。先生の過失を生徒にかぶせてどうするのですか。わたしが生徒だったら,ただちに異議申立をします。

 ましてや,桜宮高校の体育科に入学しようと,これまで夢見て,努力してきた受験生まで犠牲にするようなことをしてはいけません。断じていけません。

 新聞記事によれば,橋下市長は「受験を希望していた生徒や保護者には申し訳ないが,過去の連続性を断ち切る必要がある。こんなことで募集を続けるとなれば大阪の恥だ」と語っています。「過去の連続性を断ち切る必要」はそのとおりです。そのために「募集を中止する」というのは違います。あまりにも安易な方法に堕してはいませんか。これでは受験生が犠牲になるだけです。冗談じゃありません。

 橋下君。「連続性を断ち切る」のはかんたんです。二人の暴力教師を桜宮高校の教育現場から去らせることです。その方法はおまかせします。とにかく,一刻も早く二人の暴力教師を教育現場から遠ざけることです。そして,その穴埋めを急ぐことです。この二人に代わるべき,信頼のおける体育教師を補充することです。あるいは,ショート・リリーフでもいい,スーパー・コーチを雇って,生徒たちを励ましてやることです。そして,少なくとも,来る4月からは新しいスタートが切れるよう,特別の行政措置をとるべきです。「連続性を断ち切る」にはこれで充分です。生徒も受験生もみんな救われます。

 なによりも,生徒を第一優先に考えてほしいものです。繰り返しまずが,かれらにはなんの咎もありません。あったとすれば,同僚の教師であり,校長であり,教育委員会です。ですから,生徒を犠牲にしてはいけません。必要最小限にとどめなくてはいけません。

 橋下君。あなたは「行政の責任だ」と断言しました。しかし,それに対して義家君は「行政の無責任だ」と言いました。この応酬もまたどこか狂っているとしか思えません。いかにももっともらしく聞こえますが,基本的なところで変だと思いませんか。この種の部活の教師による暴力は,つとに知られている事実です。言ってしまえば,みんな知っていることです。ですから,いまでも,どこかで起こっているに違いありません。ただ,表面化しないだけの話です。それを「みてみぬふり」をして放置してきたのは,教職員であり,校長であり,教育委員会です。その実態を把握できていない文部科学省の責任です。もっと言ってしまえば,どこもかしこも「無責任体質」に陥っている,ということです。このこともみんな充分に承知しているはずです。にもかかわらず,相も変わらず,それが平然と行われているという病理現象こそが大問題なのです。こここそが,大いなるメスを入れるべき対象だ,ということです。

 わたしはこんな風に考えています。




『古事記の禁忌(タブー) 天皇の正体』(関裕二著,新潮文庫)を読む。

 旅の道連れに好きな文庫本を数冊もって歩くのは,もう,長い間のわたしの習慣です。そして,その日,その時の気分で,一番フィーリングが合いそうな本を手にとることにしています。今回は,『古事記の禁忌(タブー) 天皇の正体』(関裕二著,新潮文庫,平成25年1月刊)。

 理由は簡単です。このところ野見宿禰のことが気がかりになっていたからです。このブログにも書きましたように,高槻市の上宮天満宮の境内の一角にある野見宿禰の墓といわれる墳墓の碑文には,東大寺の奴婢であったことが記されています。垂仁天皇によって見出された初代野見宿禰(代々,同じ名前を名乗った)は天皇に仕える身分になったにもかかわらず,その一族郎党は東大寺の奴婢であったという,この関係がわたしには理解できません。東大寺を建造したのは,聖武天皇ですから,垂仁天皇からはかなりの時間が経過していることになります。片や天皇に仕える身分でありながら,一族郎党は奴婢。この関係はいったいどういうことを意味しているのでしょうか。

 しかも,調べていきますと,野見一族はかなり広い地域に散在していて,しかも,相当の力をもっていたのではないか,ということがわかってきます。となりますと,天皇とそれを陰で支える勢力との間にはなにか特別の関係があったのではないか,と妙に気になってきます。どうも,古代の天皇というものの存在の仕方が,わたしのようなものの理解をはるかに超えた,得体のしれない,不思議な存在だったようです。そんなことはまともな日本史の本にはどこにも書いてありません。ということはまともな歴史学者は書くはずもない,というわけです。いつの時代も御用学者というものは存在していて,時の権力にすり寄っていたことも浮かび上がってきます。こんなことを考えていましたので『古事記の禁忌(タブー) 天皇の正体』というタイトルを本屋さんで見たときにはびっくりしてしまいました。とうとう,こういう本がでるようになったではないか,と。しかも,ことしの1月に本屋さんに並んだばかりの,ほやほやの本です。

 もっとも,著者の関裕二さんの作品には,新潮文庫だけでも『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』『呪う天皇の暗号』などという怪しげな本があります。ですから,このテクストのタイトルをみた瞬間に,これは面白い本に違いない,とねらいを定めました。この予想はみごとに当たりました。途中からシャーペンをとりだして,あちこち線を引きながら,ときには,書き込みまでしながら読むことになりました。

 さて,この本をどのように読んだのか,率直な感想だけを,思い出すままに羅列して書いておくことにします。

 古代天皇という存在はきわめて脆弱なものでしかなかったということ。そして,血で血を洗うようなクーデターが続発していたということ。その背景には,百済系と新羅系のふたつの大きな勢力のせめぎ合いがあったということ。クーデターで破れた天皇の系譜はみんな追い落とされて,どこかに消えていく運命にあったこと。そして,ふたたび天皇として復活することはほとんどありえなかったこと。ということは,敗れた天皇一族はつぎつぎに被差別民として,どこかに隠れ潜んで暮らしていたということ。つまりは,中上健次が描いた「路地」があちこちに誕生したということ。天皇の柩をかつぐ人たちがいまも存在するように,天皇と被差別民とはきわめて近しい関係にあった(ある)ということ。その一方で,天皇との関係が血縁的に証明される者だけが「貴族」として権力をほしいままにしていたということ。その典型的な例が藤原氏一族。だから,一度でも権力闘争から脱落した者の系譜は徹底して差別されてしまうということ。野見宿禰の出自はこのことと深く関係していたのではないか。たまたま相撲という特技を生かして垂仁天皇にとっては邪魔な存在であった豪族当麻蹴速を蹴り殺した功績によって,野見宿禰の直系だけは天皇に仕える身分を確保できたのではないか,ということ。そして,代々,賢い人物が輩出して歴史にその名を残したこと,そのクライマックスのひとりが菅原道真であったこと。だとすれば,野見宿禰一族の郎党たちは,たとえ奴婢であろうと天皇および野見宿禰を支える陰の勢力として大きな役割をはたしたのではなかろうか。とりわけ,継体天皇以後に,野見宿禰一族とその郎党たちは急速にその勢力をのばし,古墳時代には大活躍したのではないか,と推測できること。ここまで想像力をたくましくしたときに,はじめて,高槻にある継体天皇の墳墓と考えられている巨大な前方後円墳の存在と,野見宿禰の墳墓との関係が,わたしなりに納得のいくかたちでイメージできることになること。

 などなど・・・・・というようなことを,際限もなく連想し,古代史の謎のロマンを追い求めることになりました。どうやら古代天皇はたんなる「呪術」の使い手に過ぎなかったのではないか,と不敬罪に問われそうな連想までしてしまいます。ですから,つぎに読むべき本は,同じ関裕二さんの『呪う天皇の暗号』(新潮文庫),ということに決定です。でも,この本に手が伸びるのはいつのことになるのか・・・・その保証はありません。こんど旅にでるのは・・・と楽しみにしているところです。




2013年1月15日火曜日

「新しい文化の誕生」。帝京大ラグビー部,岩出監督のことばが素晴らしい。

 「史上初の4連覇」という見出しのすぐ横に,大きな見出しで「帝京大 圧巻」という文字が躍る。今日(14日)の『東京新聞』である。ラグビー大学選手権の決勝の結果を伝える,ビッグニュースを飾る文字たちである。思わず引き込まれるようにしてこの記事を読んだ。

 なかでも,帝京大ラグビー部の岩出監督のことばが強い印象となって残った。大学ラグビーといえば,明治があり,早慶があり,そして,同志社の名前がすぐに思い浮かぶ。にもかかわらず,帝京大が「4連覇」したというのだ。しかも,「史上初」である。名だたる大学ラグビーの名門をおしのけて,帝京大が君臨しているのた。どうして?,とまずは首を傾げる。そこには,なにか秘密があるのではないか,と素直に思う。

 やはり,その秘密を解く鍵はあった。帝京大のラグビー部の黄金時代を育て上げた岩出監督の存在がひときわ光っている。

 たとえば,つぎのようである。

 「岩出監督は勝利の源泉を『残像』『成功の可視化』と表現する。『下級生は成功した先輩の姿を見て,何をやるべきか,気付くのがだんだん早くなっている』『指導者が引っ張っていくのではなく,選手たちが引っ張っていく文化が育っている』と誇るふうもない。」

 わたしは何回も繰り返してこの記事を読む。読んでいるうちに,岩出監督に会いたくなってくる。この岩出監督とはそもそも何者なのか,と。直接会って,もっと詳しい話を聞いてみたくなる。なぜなら,この監督さんのことばからにじみ出てくる人間的な魅力に惹かれるからだ。この人はただ者ではない,とわたしは直観する。

 なぜなら,「残像」「成功の可視化」などということばをラグビー部の現場の監督さんが発している。わたしはわが目を疑った。この岩出監督さんは哲学者だ。並の人が発することばではない。長い時間をかけて醸成された,真剣勝負の世界であるラグビー部の指導をとおして得られたみずからの教訓のようなものなのだろう。しかも,それを実践して,「史上初4連覇」を達成した,というのだ。なかでも「指導者が引っ張っていくのではなく,選手たちが引っ張っていく文化が育っている」という,このことばにわたしは瞠目する

 そして,もう一度,読み返してみると「下級生は成功した先輩の姿を見て,何をやるべきか,気付くのがだんだん早くなっている」という談話が,ぐさりとわたしの胸にくい込んでくる。なるほど,帝京大ラグビー部が驚異的な強さを発揮するようになった鍵はここにあったか,と。

 どこぞの高校の,パスケットボール部の監督さんとは,スポーツをとおして観ている世界がまるで違う。大学と高校の違いがあるとはいえ,この「差」はなにか,とわたしは深く考え込んでしまう。なにも,選手やキャプテンを殴らなくても,ひとつの理念を,つまり「成功の可視化」を徹底して浸透させれば,選手たちは「気付くのがだんだん早く」なってくるというのだ。しかも,「指導者が引っ張っていくのではなく,選手たちが引っ張っていく文化が育っている」とまで言う。わたしは,このことばをとおして震撼する。なぜなら,それは新しい「文化」だという。

 この岩出監督は,明らかにこれまでの指導理念のセオリーを超克している。そして,まったく新しい指導理念に到達し,それを「文化」だと断言する。おみごと,としか言いようがない。なぜか,涙が止まらない。

2013年1月13日日曜日

「体罰」ということばについて。大阪体育大学大学院の授業で議論。

 1月11日(金)午後4時20分から午後5時50分まで,大阪体育大学大学院の授業を1コマ,担当させていただきました。いわゆるオムニバス方式の授業で,いろいろの専門の先生方が交代で担当し,毎回,違う内容の授業が展開されます。そのうちのひとつをわたしが担当したという次第です。テーマは「ロンドン・オリンピック後のスポーツについて考える」。

 まずは,ロンドン・オリンピックをどのように総括するかという話からはじめ,いま話題の東京オリンピック招致運動の話へと流れていきました。そして,現代のスポーツの問題を考えるためのキー・ワードとして「メディア・スポーツ複合体」(今福龍太)をとりあげました。なぜなら,わたしたちがなじんできた近代スポーツ競技とはいささか性格の異なる新たなスポーツ文化が生まれつつある,という認識がわたしにあったからです。つまり,ロンドン・オリンピックもふくめて,わたしたちが体験してきたスポーツとは次元の異なるスポーツ文化が,いま,まさに,誕生しつつある,というわけです。もっと言ってしまえば,メディアが生み出す(あるいは,製造加工し,物語化する)スポーツ文化ということです。

 こんな話をしているうちに,メディアが流すスポーツ情報については相当に注意をしていないといけない,という話になりました。そうこうしているうちに,自然に,いま話題の桜宮高校のバスケットボール部の「事件」の話になりました。橋下市長は「事案」と言っていますが,わたしは若い高校生の「命」を奪うことになった,これは「事件」だという話をしました。そして,この種の「事件」は氷山の一角にすぎないこと,しかも,その報道の仕方はスポーツの世界にかぎらず,原発に関する報道もふくめて,あらゆる分野で起きている重大な病根の一種なのだ,という指摘をしました。そうして,数日前にこのブログで書いたものを資料として配布しました。

 こんなような話をしたあと,出席した院生さんたちから,ひとことずつ意見や質問を受けることにしました。その内容がとても面白く,ほんとうは全部,ここに紹介したいところですが,ひとつだけに絞り込みます。

 それは,「体罰」ということばをめぐる議論です。

 ある院生(女性)さんが,つぎのような発言をしたのがきっかけとなり,大いに盛り上がりました。
 「わたしはバスケットボールをやっていて,高校時代にも相当に厳しい指導を受けてきました。もちろん,体罰も受けました。そして,ときにはムカッとくることもありました。でも,その先生を信じることができたので,我慢しました。その経験は,いまふりかえってみても,とてもよかったと思っています。ですから,こんどの報道を聞いていて,わたしは指導者である顧問の先生に同情的です。あの報道のされ方には問題があると思っています。取材した側の一方的な報道だけが流されて,しかも世論を煽るようにして非難の渦を巻き起こしています。あれだけの伝統を築いてきた先生ですから,もっと,愛情の籠もった体罰であったはずです。」

 わたしの記憶違いがあったら訂正しますが,概ね,こういう内容だったと思います。そこで,わたしは,とても貴重な意見だと思いましたので,きちんと議論するためのベースをつくる必要があると考え,「体罰」ということばの概念を明確にしておきましょう,と提案。そうしないと「体罰」の意味が,メディアが用いる場合や,わたしたちが用いる場合にも,それぞれ個々人によって違っていたら,議論はスレ違ってしまいます。しかも,そういう議論は疲れるだけで,不毛です。そこで,つぎのような話をしました。

 わたしは「体罰」ということばが嫌いです。なぜなら,メディアが用いている体罰ということばの概念がじつにあいまいなものでしかないし,場合によってはメディアの責任逃れの用語になっているようにも思うし,単にポビュリズムに迎合している用い方にもみえるからです。さらには,体罰ということばを多用することによって問題の本質を意図的にずらしているようにも思えるからです。大事なことは,「体罰」ということばの背景に隠されている,もっと根源的な問題をとらえることだ,と考えているからです。

 「体罰」ということばは,もともと生徒がなにか悪いことをしたということが明白なときに,先生がそれを咎めて,二度とそういうことをしないようにという教育者としての愛情を籠めて,罰としてからだに痛みをともなう仕置きをすることだ,とわたしは考えています。その「体罰」が,いつのころからか単なる「暴力」と化すようになり,ことばの正しい意味での「体罰」もふくめて,いっさい禁止されてしまいました。いかなる理由があっても,先生は生徒に「体罰」を加えてはいけない,ということになってしまいました。このことは,じつは,学校現場にあってはたいへんな変化をもたらすことになりました。詳しいことは省略します。

 しかし,全国大会のトップ・クラスをめざしているようなクラブ活動では,スポーツにかぎらず(たとえば,ブラスバンドなど),かなりの「体罰」が行われていることをわたしは知っています。そして,それは,先生と生徒と保護者の間に,深い愛情と信頼という強い絆で結ばれていることが前提です。わたしは,基本的に,このような「体罰」は認めたいと考えています。

 しかし,深い愛情と信頼関係を欠く場合には,それは単なる「暴力」です。こちらは断じて許すことはできません。深い愛情があったとしても「過剰に」なると,たちまち信頼を欠き,単なる「暴力」になってしまいます。このグレイ・ゾーンのあたりがとても微妙です。ここをしっかりと認識し,区別して議論しないと,この問題は,また違った別の「暴力」を生み出すことになります。

 このことがひとつ。

 もうひとつ,体罰ということばを多用することによって事態の本質がすり替えられることを,わたしは恐れています。

 それは,「みてみぬふり」をする「無責任体質」です。この病いはわたしのなかにも巣くっていますので,このことを語るのは「痛み」をともないます。が,思いきって言っておけば,桜宮高校の先生も生徒も,みんな「体罰」が常習化していることを,そして,ときには単なる「暴力」になってしまっていることも,知っていたはずです。学校というところはそういうところです。もし,それすらも知らないでいたとしたら,その方がもっと奇怪しいし,まさに,異常です。当然,教育委員会も承知していたはずです。にもかかわらず,みんな「みてみぬふり」をし,みずからの「無責任体質」を容認したまま,「だんまり」を決め込んでいた,これが実態だったのではないかとわたしは考えています。そして,この「みてみぬふり」「無責任体質」という,もっともっと大きな病理現象が,「体罰」ということばの乱用(これぞほんとうの「暴力」)の陰に隠れてしまっています。そして,議論の対象から遠のいてしまっていることの方を恐れています。

 とまあ,こんな話をさせてもらいました。院生さんたちも,とても真剣にわたしの話を聞いてくださり,いつもにも増してわたしも熱が入りました。聞き手がいいと,わたしの方も元気が湧いてきます。そして,ふだんは考えないような地平にまで,わたしの思考が伸びていきます。そして,いつのまにかわたし自身を「超え出て」いくことになります。これが「感動」の源泉のひとつです。スポーツの「感動」もまったく同じです。

 このほかにも,面白い議論がたくさんありましたが,すでに長いブログになっていますので,残念ながら割愛させていただきます。

 取りあえず,ここまで。

2013年1月12日土曜日

近代スポーツのミッションとはなにか(奈良教育大学大学院生の問い)。

 1月11日(金)に奈良教育大学大学院の授業に参加させていただきました。院生さんを前にして話をするのは久しぶりでしたので,とても楽しみにしていました。

 奈良教育大学は,かつて,わたしが19年間,お世話になっていた大学です。いわば,わたしの古巣でもあります。その大学に,いま,体育原理を担当する I 先生がいらっしゃいます。わたしの教え子のひとりです。その I 先生が,大学院の授業のテクストとして『近代スポーツのミッションは終わったか』(稲垣・今福・西谷共著,平凡社)を用いているというのです。そして,いつかチャンスがあったら,このテクストの著者のひとりとして,ぜひ,この授業に顔を出してほしいという依頼がありました。それがようやく実現したというわけです。

 大学院のゼミですので,院生さんは4人,そこに卒業生が1人,そして I 先生とで計6人。とても,こじんまりとしたアットホームな雰囲気がすでにできあがっていました。ですから,最初からなんの違和感もなく,するりと授業のなかに入ることができました。ほんとうに気持ちよく古巣にもどってきた気分になれました。

  I 先生の希望としては,著者の生の声を院生さんたちに聞かせてあげたいので,あまり構えないで,本音の話をしてくれるとありがたい,ということでした。そして,院生さんたちが質問を用意しているので,それに応答してください,と。じゃあ,なにも用意することなく,フリー・ハンドで参加させてもらいます,ということになりました。

 テクストの方はすでに第3章まで読み進んでいるとのことでした。それなら,内容もほぼ理解しているはずので,あまり細かな説明は不要と判断。その場で思いつくことをそのままお話することにしました。そのうちのひとつをここではご紹介しておきたいと思います。

 それは,「近代スポーツのミッション」とは具体的にはどういうことなのか,というまことにまっとうな質問でした。考えてみれば,わたしたち著者の意識としては,もはや説明の必要のない自明のことという前提に立っていましたので,「近代スポーツのミッション」についてはなんの解説も断りもしていません。言ってみれば,著者たちの虚をつくような問いでした。

 そこで,あわてて思いつくまま,概ね,つぎのような話をしました。

 近代という時代は,前近代の諸矛盾を克服する時代としてヨーロッパからはじまります。いろいろの考え方がありますが,そのひとつは,フランス革命によってその幕が切って落とされたといわれています。そこでの理念は,自由・平等・博愛でした。つまり,前近代までの身分制度を廃止して,みんな自由で平等な社会をつくろうというわけです。そして,法律(憲法)を定めてそれらを保証しようとしました。つまり,法のもとでの自由・平等です。

 そうして始まった近代社会で求められたのは,個々人の能力と努力に応じた生き方でした。一生懸命に努力をすれば,それにふさわしい人生を切り開くことができる,と考えられました。ですから,みんな必死になって,よりよい生き方を求めて努力することになりました。その結果,「自由競争」という考え方が社会の細部にまで浸透していきます。つまり,自由な社会での平等な条件のもとでの「競争原理」が人びとの間で認知されるようになりました。

 この「競争原理」を,まことにわかりやすく説いた文化装置のひとつとして,近代スポーツが登場します。たとえば,100m競走。みんなが同じ条件で,つまり,平等に,100mという距離を,可能なかぎり速く走ることを競います。そして,着順が「判定」され,時間が測定され,記録されるようになります。こうして,優れている者は速く走り,劣っている者は遅い,という「優勝劣敗主義」という考え方が,だれの目にも明らかになっていきます。そして,いやおうなく広まっていきます。気がついてみれば,いつのまにか人びとの無意識にまで浸透しています。ですから,いまでは,スポーツの世界でこの考え方に疑問をいだく人はほとんどいなくなってしまいました。

 こうした「優勝劣敗主義」は,たんに近代スポーツの世界だけではなく,あらゆる分野にも適用されるようになります。とくに,資本主義社会においては,自由・平等の名のもとに「資本」の力が競われることになります。もう,みなさんもよくわかっていることですので,くわしいことは省略します。が,こうして,気がつくと,わたしたちの,いま,生きている,この現代社会に到達しているというわけです。これも詳しく述べるまでもなく,さまざまな矛盾だらけの社会が露呈しはじめています。その諸矛盾の到達点のひとつが「原発」の問題です。とうとう「資本」の力が「命」を襲うところまできてしまいました。

 これと同じことが,近代スポーツの世界にも起こっています。すなわち,「ドーピング」の問題です。こちらは「命」の問題はもとより,「自由競争」という基本原理までもが脅かされることになりました。そして,「優勝劣敗主義」そのものにも疑問符をつける人が,少しずつ現れはじめています。少なくとも,『近代スポーツのミッションは終わったか』の著者たちは,ここに大きな問題関心を寄せて議論をしています。

 以上のように,「ルール」を守りながら,「自由競争」をすることが近代という時代・社会のミッションとして求められました。その上で,近代スポーツもまたおおいなる貢献をしたわけです。しかし,「競争原理」が過剰に機能しはじめたことによって,当初,予想されていた「予定調和」が大きく崩れはじめてきました。そのひとつが,こんにち,わたしたちが直面している近代スポーツのもろもろの局面に現れています。これではまずいのではないか,これを超克する新たな可能性をどこに求めていけばいいのか,ということを探ろうとしました。それが,このテクストの論者たちの基本的な考え方です。

 ですから,近代スポーツのミッションはすでに終わって,つぎの段階に突入しているのではないかという前提に立って,この3人の論者は真剣に議論しているわけです。

 というような応答をした上で,院生さんたちに,これ以外の「近代スポーツのミッション」について議論してもらいました。なかなか,面白い議論が展開し,とても有意義な時間を過ごすことができました。このほかにも面白い話題がいくつも展開しましたので,みんな満足してもらえたのではないかと思っています。

 こういう人たちとは,また,お会いして話をしてみたいなぁ,といまも思っています。

2013年1月10日木曜日

桜宮高校バスケットボール部で起きたことは「事件」であって,「事案」ではない。

 ちかごろはメディアを流れることばに,ごまかしことばが多すぎる。問題の在り処をすり替えて,なんでもないことのようにみせかける,そんな企みがみえみえ。そして,最終的には,だれも責任をとらなくて済むように仕掛けてある。ほんとうに,どうしようもない国家になりさがってしまったものだ。それを許しているのはわれわれ国民なのだ。

 事件の真相が明らかでない段階で,想像でものを言うことは控えたいが,これまでの体育会系の「情熱過剰」の指導者の姿勢からすると,おおよその察しはつく。

 こんどの事件に関しては,学校も教育委員会もみんな知っていたはずである。バスケットボールの名門校として名を馳せてきた過去の歴史を楯に,みんなみてみぬふりをしてきただけの話だ,とあえて断定しておく。たぶん,自殺という事件が起きなかったら,バスケットボール部の暴行は終わることなくつづいたのだろう。気合を入れるための「教育的指導」という名のもとに。だから,自殺した生徒は,この暴力を通常の手段では止めようがないと考え,みずからの「死」をもって訴えるという最終手段を選んでしまったのだ。あるいは,もはや,冷静な思考能力すら失わされほどの,強烈な暴力がつづいていたのではないか。

 尊い生徒の「命」が失われてしまったというのに,橋下市長は記者会見で,「この事案については見すごすことはなきない」と力んでみせたが,とんでもない。「事案」とはなんということか。今日のニュースでは「100人体制で問題解決に取り組む」とその意気込みを表明しているが,あくまで「この事案」については・・・である。おそらく,行政用語としては慣例的に「事案」なのかもしれないが,世間一般のことばとしては通用しない。とんでもない。なんとも歯がゆくて,はぐらかされた,としかいいようがない。むしろ,警察は「事件」として対処することを検討している,と言っていてこちらの方がぴったりしている。

 事案で扱っているかぎり,たぶん,だれも責任をとらなくて済むようになっているはずだ。そして,「やや行き過ぎた教育的指導」として,訓戒処分くらいで納まってしまうのではないのか。これまでもそうだった。だから,問題は解決しないのだ。やはり,厳しい責任を追及する姿勢が不可欠だ。しかし,猫の首に鈴をつけるような勇気のある教員,いや,責任感の強い教員は,とっくのむかしに教育界から去ってしまっている。そういう実例をわたしは知っている。そして,教員を辞めて,警察官になるための試験を受けたが,面接で顔を知られていて「丁重に断られた」という。その後の経緯についても,わたしは個人的にかなり深くかかわってきている。

 そのかれの話では,職員室ではみんなみてみぬふりをして,黙り込んでいる。職員会議でもほとんど発言はしないという。

 ああ,いけない。あまり詳しく書いてしまうと,そのかれに迷惑がかかってしまう。もちろん,そのかれからの話しだけではなく,わたしのかつての教え子たちからも,多くの事例を内緒で聞かせてもらっている。その背後にあるものは,ひとことで言ってしまえば,「ことなかれ主義」。すなわち,「無責任体制」。

 しかし,この「ことなかれ主義」は教育界だけの話ではない。日本国全体に蔓延している慢性病だ。その典型的な事例が,原発事故であり,その後始末の仕方だ。あれだけの「事件」が起きたのに,だれひとりとして「罪」に問われてはいない。沖縄の基地問題では,敗戦以来こんにちまでの長きにわたって,あるいは,少なくともこの「40年間」(本土なみ復帰のはずだったのに),日本国民はみんな「みてみぬふり」をしてきたではないか。そして,いまも,みぬふりをつづけている。政府を筆頭に。

 この無責任体制をこそ問うべきだ。

 最近,たてつづけに学校現場での「暴力」事件が起きているが,これを「いじめ」などといういい加減なことばでごまかしていること自体が問題なのだ。

 若い将来のある子どもたちの「命」が奪われるという,なんとも情けない事態に,みんながようやく大きな声をあげるようになったが,これでごまかされてはいけない。原発推進は,もっともっと多くの若い「命」を危険にさらすことになるということをみんな十分に承知しているにもかかわらず,最終的には,「みてみぬふり」をしている。そういう国民が多数を占めるかぎり,救いはない。

 今回の「事件」もまた,ことばは悪いが,氷山の一角にすぎない。このことに眼を奪われてしまって,もっともっと大きな「巨悪」が存在することを忘れてはならない。でも,いまのメディアはその「はぐらかし」を,じつに巧妙に,意図的にやっている節がある。いやいや,わたしは個人的には「確信犯」だと思っている。

それがはぐらかしの「ことばづかい」だ。「原発ゴミ」?だと?じゃあ,国会前の公園にでも埋めたら?あそこは一等地だよ。

2013年1月8日火曜日

NHK・クローズアップ現代・寺島実郎さん,あなたもですか。原発推進派でもない,反対派でもない。

  たまたま夕食をとりながら見ていたテレビで,寺島実郎さんが出ていた。このところモテモテおじさんで,あちこちのテレビに顔を出している。この人のアンテナの高さ,情報量の豊富さ,そして,判断力の鋭さ,よどみない論理的な物言い,その他もろもろふくめてこれまで大いなる期待と信頼を寄せつつ,尊敬もしていた。しかし,このところちょっと様子がおかしいと思うことが多くなっていた。とくに,3・11以後の寺島さんの発言に,おやっ?と思うことが多くなっていた。この人の軸足はどうなっているのだろうか,と。もっと言ってしまえば,寺島さん自身の思想・哲学はどうなっているのだろうか,と。

 そうしたら,とうとう化けの皮がはがれる発言をみずからしてしまった。「わたしは原発推進派でもない,反対派でもありません」と。それも,NHKのクローズアップ現代という注目番組で。題して「世界エネルギー大変革 どうする?日本の電力」。今日は特番で午後7時30分から8時45分までのロングラン。国谷さんの手際よい司会に,さすがの寺島実郎さんもうっかり乗せられてしまった,とでもいうのだろうか。それにしても,わたしはショックだった。はやり,そうだったのか,と。つまり,わたしは騙されていたのだ,と知ったから。

 これまで,どれだけ多くの知識人と呼ばれる人たちが,「わたしは原発推進派でも,反対派でもない」と,テレビ,新聞,雑誌をとおして発言してきたことか。そのつど,わたしはがっかりし,失望してきた。とんでもないっ!,と。それなら,あなたはこれからの日本の舵取りについて,なにも発言する資格はない,と。原発が推進されようが,廃炉にされようが,どちらでもいいのだから。こんな無責任な知識人を,あなたは信用できますか。

 でも,こういう人たちだけが,テレビ,新聞,雑誌でもてはやされている。推進派とはっきり宣言する人も,反対派と言い切る人も,メディアは嫌う。いかにも冷静で,客観的な立場からものごとを考えているかのような姿勢をとる知識人たちだけが,メディアにもてはやされる。なぜなら。どちらでもない,ということは少なくとも反対ではないということ,ということは推進派であるということになるから。このことを見越した上で,メディアはこういう人を使う。なぜなら,メディアもまた原子力ムラの一員だから。

 そのむかし,安保闘争時代に,「わたしは安保条約に賛成でもない,反対でもない」と言ったとしたら,即座に「日和見主義者」のレッテルを貼られ,相手にもされなくなったものだ。その一方で,賛成なら賛成の根拠を示せと迫る勢力があり,反対なら反対の根拠を示せというグループがあり,お互いに激しく理論闘争をしたものだ。そのいずれにも与することができないまま,悩み苦しむ人間もいた。そして,みんなが熱くなって日本の将来を憂え,議論をし,行動を起こし,毎日を必死で生きようとしたものだ。家庭の中でも,息子が過激派に身を投じたために,親子で激論を交わすことも少なくなかった。みんな真剣だった。

 それを思うと,みんな無責任になったものだ。日常の会話で,原発推進も反対も,ほとんど取り上げられることもない。みんな,どうでもいい話をしてごまかしている。あるいは,触れたくないという姿勢を示す。ひょっとしたら,どうでもいいと思っている人も少なくないらしい。一番,大事なことなのに,みんなダンマリを決め込んでいる。いうなれば,「どちらでもない」という姿勢を貫くことが一番無難だと思っているらしい。そして,それが理性的な人間のとるべき態度だとでもいいたげに。でも,それは違うだろう。

しかしながら,テレビに出演して,原発をどう思うかと問われて「推進派でもない,反対派でもない」と平然と答える知識人とはいったい何者なのか。こんなことを平気で,テレビをとおして言える知識人が信じられない。そういう人を専門バカという(マックス・ウェバー:Fachmensch ohne Geist)。あなたには,思想も哲学もないではないか,と。人が生きるということはどういうことなのか,そのこともわかっていないではないか,と。それでも,専門家として生きていかれる。そういう時代がくるとマックス・ウェーバーは20世紀の初頭に予言していた。

 いまになってみれば,それどころか,立場をあいまいにすることによって,メディアでの発言の場を確保できると考えている「確信犯」もまた圧倒的多数を占める。だから,まともな考え方をする人,まともな生き方を追求している人は,みんなメディアから排除されてしまう。もちろん,大手出版社からも排除されてしまう。そして,あまり知られていないマイナーな,しかし,しっかりとした理念をもった出版社から,みずからの信念に基づく本を出すしか方法がなくなる。目立たなくなるので,あの人はいまどうしてます?などという話になる。

 日本は病んでいる。しかも,重病である。寺島実郎さんともあろう人ですら,NHKテレビをとおして「原発推進派でもなければ,反対派でもありません」と,なんの衒いもなく言えてしまうこの病理現象に多くの人が気づいていない。もはや,手のつけようがないほどに,重症である。

 こんな情況にあっては,もはや,残る手段はただ一つ。原発推進派,原発反対派,どちらでもない派を一堂に集めて,堂々と議論させる番組を,NHKは継続的に組むこと。そうして,国民的議論を盛り上げていくこと。その結果が,選挙に反映されるように仕掛けること。これこそが料金を徴収する国営放送(?)の果たすべき役割ではないか。でなかったら,民放と同じだ。

 勢いあまって,とんでもないところにまで飛び火してしまった。
 話をもどそう。

 「原発推進派でもない,反対派でもない」という無責任な発言をして憚らない知識人の仲間に,今日,はからずも寺島実郎さんが新たに加わってしまった,というお話。そして,それが,メディアを上手に泳ぎわたるための術であること。それを計算と打算の上で,つまりは,自己中心主義(自己保身)のもとに,もっと言ってしまえば,単なる金儲けのために,一番楽なスタンスを,知識人ともあろう人が平然ととってなんら恥じるところがない,この現実。これこそが「経済第一」と吼える政権におもねる生き方そのもの。ここに現代の病理現象の根源の一つをみる。

寺島実郎さん,さようなら。『世界』の連載も,終わりにしましょう。居場所としてふさわしくありません。化けの皮がはがれた以上は。

2013年1月7日月曜日

真島一郎編『二〇世紀<アフリカ>の固体形成』(平凡社,2011年)を読みはじめる。眼からウロコの本。

 「ヤマトのアフリカニストとしての自己否定が懸かっていた」とふり返る真島一郎さんのことば(西谷修編『<復帰>40年 沖縄と日本』,せりか書房,2012年,P.92.)がこのところ気になっていた。真島さんがふり返るのは,2007年11月に二日間にわたって開催されたシンポジウムのうちの第二日めの「暴力とその表出」にシンポジストとして参加されたときのことである(西谷修・仲里効編『沖縄/暴力論』,未來社,2008年)。このときの真島さんの発言は「暴力を読み解く/神話・耳・場所」という見出しでまとめられている(前掲書,P.98~108)。

 ここには,たとえば,つぎのような真島さんの発言が記録されている。
 「『暴力』と『神話』の取りあわせに何かしっくりくるところがあるとすれば,それは本来そのいずれもが,他者の思想や行為を主知主義的なシステムの物差しで否認するさいにひとが用いる言葉だったからです。」(P.100.)
 「たとえばかつてのアフリカ解放闘争が,『そう,私はニグロだ』とあえて名乗ることから始まったように,あるいは『本土復帰』前後の時点で,新川明があえて沖縄の反国家の『凶区』と形容したように,反復帰の精神譜にもとづく仲里さんの歴史認識の方法をを暴力論にふさわしいしかたでややバイオレントに言いかえると,すなわち「神話」のそれになるのではないか。ある出来事のなかに別の出来事の姿を不可視のまま目撃したり,もはや幻聴とはいいがたい声や音を聴きとどける身がまえは,まさに神話の強度そのものに支えられた批評の特質であると私には感じられた,それが第一の論点です。」

 こういうわたしにとってはきわめて刺激的な発言がこのあとにもつづく。

 がしかし,ここで引用した二つの文章のなかには,「暴力」と「神話」のとりあわせ・・・と「そう,私はニグロだ」とあえて名乗る・・・・というきわめつけの文言が用いられている。そして,これらの文言が意味するところの,もっと深い意味が知りたいと思いながら,上記の二著のなかに織り込まれた真島さんの発言を繰り返し読み込む努力をしてみた。そうして,この二著をとおして「ヤマトのアフリカニストとしての自己否定が懸かっていた」という真島さんの発言の理由/根拠がおぼろげながら理解できたと思っていた。

 しかし,それは大きな間違いだった。というよりは,真島一郎さんにとっては,そんな生易しいものではなかったということがわかったのだ。そのほんとうの答えは今回とりあげたこのテクスト『二〇世紀<アフリカ>の固体形成』(真島一郎編,平凡社,2011年)のなかにあった。それは真島さんの手になる冒頭論文「序 固体形成論」のなかに,濃密に展開されている。寄せては返す荒波のはじける海岸のように,<アフリカ>の「固体形成」の困難について,多面的に,重層的に,ねばり強く,しかも情熱的に論じられている。何回も,何回も後戻りしながら読み返す。そんな読書のしかたを繰り返しながら途中まで読んだところで,わたしは完全に圧倒されてしまった。

 そして,真島さんが沖縄を論ずるということは,アフリカ研究者であること,それも「ヤマト」のアフリカニストであること,それ自体を根底から問い直すことなしには不可能なのだ,ということが痛いほど伝わってきた。つまり,単なる評論ではなくて,ほんとうの意味での批評をするということは,こういうことなのだ,と。今福さんがかつて語ったように,単に表面的にディスクライブ(describe)することではなくて,みずからの身体に痛みをともないながらインスクライブ(inscribe)することなのだ,と。

 それこそヨーロッパ近代が,これぞ研究であり,学問である,と言ってきたいわゆる「主知主義」的なアカデミズムの土俵の上に安住しながら,アフリカを研究し,分析することの,あまりの一方的な<暴力性>が,この「序 固体形成論」によって,徹底的に暴き出されていく。。そして,たとえば,「暴力」的なアカデミズムによって潤色されたアフリカではなく,それを根底から解体し,まったく新たな<アフリカ>として問題を再提示していかなければならないその根拠を,詳細に,克明に論じていく。そうした真島さんの真摯な主張に耳を傾けていくとき,ようやく「ヤマトのアフリカニストとしての自己否定が懸かっていた」という発言の深い意味が,つぎつぎに露わになってくる。

 言ってみれば,最初に研究対象に接近するとき,すでに既成の概念に,あるいは,既成の定説なる権威に,つまりは逆の「神話」に包囲されてしまってはいないか。そういう根源的な問いに気づかされる。それはアフリカに限らず,沖縄にあっても,まったく同じ問いがわたしたちの前に突きつけられているということだ。ひるがえって,長年にわたってスポーツに向き合ってきたわたし自身にも同じことがいえる。

 こうなってくると,これまで考えたこともない根源的な問い,すなわちスポーツではなくて<スポーツ>に,そして,スポーツ史ではなく<スポーツ>史に脱構築しなくてはならない,という問いが,まったく新たな問いとして立ち現れることになる。このことの意味するところはどういうことなのか。

 もう少しわかりやすくしてみよう。スポーツといえばだれでも自明のことのように受け止める。なんの疑問もなしに。同じように,アフリカといえばだれにも自明であるかのように流通していく。沖縄といえば,それはそれで自明のことだということになっている。つまり,わかったようなつもりになっている。がしかし,ほんとうのところはなにもわかってはいないのである。わかっているつもりになっていることは,じつは,ヨーロッパ近代の生み出したアカデミズムが<暴力>的に地ならしをした主知主義的な概念としてのスポーツであり,アフリカであり,沖縄でしかない。すれらは,すべてだれかによって都合のいいようにつくられた「神話」でしかない。そこには,たとえば,スポーツということばの中に内包されている諸矛盾などはすべてどこかに忘れ去られたままになっている。同じように,アフリカも沖縄も換骨奪胎されてしまった抜け殻だけが流通することにななり,それらのことばからイメージされる内実はきわめて薄っぺらであるし,一方的なものでしかない。

 別の言い方をすれば,だれのための「スポーツ」を,だれのために研究しようとしてきたのか。あるいは,「伝統スポーツとグローバリゼーション」というテーマを立てて,スポーツとはなにかを問い直そうとした意図はどこにあるのか。わたしたちはようやくこういう地平に立つことができたのだが,真島さんの<アフリカ>固体形成論は,人間であること,主体以前の「固体」をいかに形成するのか,つまり,存在の「根」をどこに,どのようにして降ろしていくのか,という気の遠くなるような根源的な問いを,わたしたちの前に突きつけているように思う。

 まだ,その序を読みはじめたばかりだが,じっくりと真島さんの意とするところ,真意を読み取っていく努力をしてみたいと思う。

 その上で,ダン族(コートジボワール)のすもう「ゴン」のお話を伺ってみたい(3月9日に予定)。

2013年1月6日日曜日

「人は変われる」(日体大・別府監督)。

 「この1年,本気でやった。人は変われる」という見出しで,『東京新聞』(1月4日)の「この人」のコラムに,箱根駅伝で30年ぶりに総合優勝の日体大監督別府健至さんが,写真入りで紹介されている。ぐっと固く結んだ唇が,つよく印象に残る。かつてのお人好しの別府さんの顔ではない。勝負師の顔に変わっている。

 顔は嘘をつかない。なにか大きなきっかけがあると,人間の顔は変わる。顔は内面の表出そのものだ。顔はなにかを意識的に表現することもできる。しかし,表現する顔は,ほんものの顔ではない。あらゆる鎧兜をとりはらったときに,その人間の素の顔が表出する。このときの顔は,他人を動かす力をも持つ。この顔に接した人は,なぜか,こころを開き,みずからの顔も変化する。「じか」に触れる体験がこれだ(竹内敏晴)。

 別府さんの顔をみていたら,なぜか,竹内敏晴さんを思い出した。人が「じか」に触れ合うとき,人間は変わる。それまでの自己ではない自己に出会う。いわゆる「自己を超えでる」体験だ。人間はこういう濃密な時間を,どれだけ織り重ねるかによって決まる。スポーツの良さは,自己の身もこころも開いて,まったく新しい自己と向き合う体験を積み重ねること,にある。そして,古い自己を捨てて,新しい自己に生まれ変わっていくことにある。蛇が脱皮するように。内圧を高めていくことによって,おのずから古い皮が破れて,新しい皮が現れる。

 このことは,なにもスポーツに限ったことではない。人が生きるということの内実はここにある。アートの世界にしても,学問の世界にしても,あるいはまた,商売の世界にしても,職工の世界にしても,みんな同じだ。いわゆる「出会い」(Begegnung)だ。それには,機が熟すことが大事だ。その機が熟すには,なみなみならぬ努力が必要だ。第15代目の楽吉左衛門も同じことを言っている(二日前のブログ,参照のこと)。

 別府監督は,一年前の過去最低の19位に甘んじたとき,初めて選手たちの前で涙を流したという。別府さんがはじけた瞬間だ。そして,恩師の渡辺公二さんを特別強化委員長に招いて,みずからの退路を断ち,本気で選手たちと向き合った。当初は相当の軋轢があったという。しかし,監督の本気度はじわじわと選手たちに伝わりはじめる。このとき,選手一人ひとりが監督と「じか」に触れ合う体験をしたはずだ。そこからチームは一変することになる。そこからの選手一人ひとりの努力が相乗効果を生むことになり,チームが一丸となっていく。そのトータルの結果が,今回の30年ぶりの総合優勝という快挙となる。

 そして,「この1年,本気でやった。人は変われる」という別府監督のことばとなって結実する。選手たちも,おそらく,みんな異口同音に同じことを言うだろう。監督もコーチも選手も,そして,それを支えた影武者たちも,みんな大きな財産をわがものとした。人間が生きる上での最高の財産だ。それも「基本の基」を,当たり前のように実行しただけの話だ。人が生きるとはどういうことなのか,をこの人たちは学んだ。そのことに思い至ったとき,わたしはこころから感動した。ただ,ただ,ひたすら感動した。

 人が生きるということの「根」はここにあるのだろう。スポーツの良さは,この「根」を,からだをとおして学ぶことにある。しかも,この「根」こそ,普遍のものだ。ここを学び,からだに記憶させた人間は,どんな社会に出て行っても通用する。生きる力は,この「根」をもつかどうかにかかっている。この力のことを,ドイツ語では,Leistungという。直訳すれば「達成,達成能力」。

 ドイツの哲学者ハンス・レンク(Hans Lenk)はこのことをみずからの著作『スポーツの哲学』(Philosophie des Sports)のなかで力説している。かれは,このことをみずからの体験をとおして,確信し,その根拠について詳細に論じている。かれは,オリンピック・ローマ大会のときに,ボートの選手として金メダルを獲得した選手(しかも,キャプテン)である。大学では,体育学と数学を専攻し,やがて,哲学の道へ進み,ドイツ哲学会会長となる。そして,ついには世界哲学会会長にも就任し,東大に招かれて来日したこともある。このときと,それ以前にも来日したことがあり,わたしは二度,かれに会って話をしている。この話は,いずれ別の機会に,このブログでも書いてみたいと思う。今日のところはここまでにとどめておく。

 人は「じか」に触れ合うことによって「変わる」ことができる。ほんとうの自己と他者との「出会い」,これが「じか」に触れるということだ。ここを通過することによって,日体大の,いや,別府監督の,そして,チームが一丸となった選手たちの,さらにはそれを支える影武者たちみんなの,心構えが変わった。生き方が変わった。そして,これまでみたことのない,まったく新たな地平に到達することを可能としたのだ。つまり,自己を超えでて行ったのだ。くり返すが,このことは「普遍」に通ずる,きわめて重要なことだ。

 「人は変われる」。このことを実現させ,実証した別府監督にあらためて敬意を表したい。
 そして,このたびの日体大の快挙は結果ではない,このプロセスにある。このことをもう一度,強調しておきたい。

 「人は変われる」可能性があるかぎり,生きていくことができる。


2013年1月5日土曜日

箱根駅伝・タスキを渡した直後の選手の安全確保を。

  駅伝の中継点では,しばしば信じられないことが起こる。

 たとえば,ラスト・スパートをきかせて中継点に飛び込んできたのにタスキを渡すべきつぎのランナーが待っていなくてウロウロする場面。しばらくして,つぎのランナーが飛び出してきて急いで受け取って走りだす・・・・。

 あるいは,タスキを渡した直後にそのまま倒れこむ選手。これはとても多い。それを幇助する補助員が慣れていないために,タイミングがずれてしまい,場合によってはとても危険な倒れ方をすることがある。

 また,タスキを渡したあと,だれも幇助にきてくれないのでひとりでふらふらと歩きながら倒れてしまう選手。場合によっては半回転して大の字に伸びてしまうこともある。そのあとで,補助員がやってくる。その補助員もこないのでチームのサポーターが飛び出してきて運び去ることも。

 タスキを渡したあとも元気で,走ってきたコースに向かって一礼しようとする選手を補助員が邪魔してしまい,かえってもつれ合ってしまうことも少なくない。とてもいいシーンなのにもったいない。

 3~4チームがほとんど塊になって中継所に雪崩込んでくる場合もある。こんなときは補助員は大変だ。その前に選手たちは激しく競り合ってきているので,みんな限界をこえた疲労困憊状態になっている。補助員も,他の補助員とぶつかって,選手と一緒に転んでしまうこともある。

 なかには,怪力の補助員がいて,選手が倒れこむ寸前に抱き留め,そのままひとりで抱き上げて選手控室まで運んでいくシーンも。これには思わず拍手である。

 よくよく観察していると,補助員はひとりの選手にひとりで対応し,コースの外まで誘導して,そこで大学のサポーターに引き渡すのが仕事になっているようだ。つまり,つぎに走ってくる選手のためにコースをできるだけ早く確保し,競技を安全に,効率よく運営するための工夫なのだ。しかし,補助員が選手と1対1で対応するには,相当の熟練さが必要なのだろう。みていて安心していられる光景の方が少ない。

 この情景は以前から気になっていたことだ。こういうところは来年に向けて,少しでもいい,改善できないだろうか。

 まずは,タスキを渡した直後の選手の安全を確保すること。補助員はなによりもさきに意識朦朧となって倒れそうな選手の腰に抱きつき,安全を確保してから,バスタオルをかけてやる,とか。ことし,みているかぎりでは,まずは,なによりさきにタオルを肩からかけようとしている。その上,ペットボトルも渡そうとしている。その間に,選手のからだは崩れるように倒れこんでいく。なんだか選手が補助員に押しつぶされているようにも見える。補助員には気の毒だが,疲れ切った選手を幇助するにはとても難しい熟練姓が要求されている。

 最悪の場合には,選手と補助員とが一緒になって倒れてしまい,もつれ合ったまま立ち上がることもままならず,コースを妨害してしまうことも起きている。やはり,補助員が二人がかりで一人の選手の世話をみる方が,選手の安全だけでなく,素早くコースの外に誘導することができるのではないか。これが,わたしの感想である。

 ひょっとしたら補助員の数が足りないのだろうか。この補助員はどういう人たちがやっているのだろうか。

 第89回東京箱根駅伝間往復大学駅伝競走 要項をネットで調べてみると,補助員に関して,つぎのようなことが書いてある。

 要項は全部で23項目にわたって,箇条書きに列挙されている。その20項目めの「その他」の2),3),4)につぎのようにある。とりあえず,引用しておくので,それぞれにご検討いただければ幸いである。

 2)本競技中の不慮の事故等については,主催者側で応急処置は行うが,その他の処置は各自(各校)で行うこと。なお,事故の結果等について,本連盟は責任を負わない。ただし,競技者,審判,役員については大会当日の災害保険に加入し,万が一の事故の場合に対応する。
 3)その他の事項については,当駅伝競走競技実施要項,並びに,当駅伝競走に関する内規に基づいて行う。
 4)出場校は本大会に補助員を10名以上出すこと。また,予選会に出場した大学は本大会に補助員を15名以上出すこと。詳細は各校に通知するのでそれに従うこと。

 以上である。おやおやと思わせる部分もあるが,あえて私見は述べないでおく。要項(あるいは,ルール)というものは,管理運営者の側からの視点が最優先されていて,もっとも大事な選手の側の論理は軽んじられているのが通例である。ここに大きな落とし穴があるということだけ,指摘しておこう。あとは,みなさんでお考えください。

2013年1月4日金曜日

NHKスペシャル・楽吉左衛門・究極の茶碗づくり密着9カ月をみる。

 利休の愛した茶碗をつくった長次郎を始祖とする楽焼の当主・第15代楽吉左衛門に密着取材したNHK新春スペシャル(1月3日午後9時~10時,NHKテレビ)をみた。午後8時45分からのニュースをみて,テレビを切ろうと思った瞬間に,楽吉左衛門という名前が画面に現れて,そのまま居すわって見入ってしまった。

 とてもいい番組をみせてもらった。近頃はテレビでみるべき番組がほとんどなくなってしまって,もう,テレビの時代も終わったと嘆いていたが,こんないい番組もあるではないか。こういう番組をもっともっと制作してほしいものだ。

 以前から少なからず,この第15代目となる楽吉左衛門の存在が気になっていた。最初に意識しはじめたのは,かれの書いた文章を読んで,この人はいったい何者?と思ったのがきっかけだった。以後,びわ湖にある佐川美術館へも足を運び,不思議な構造の地下展示場から天窓をふり仰ぎながら,いくつかの逸品を満喫したこともある。この人のみている世界はどんなものなのか,そこのところがわたしの最大の関心事。

 その楽吉左衛門に2012年の9カ月間を密着取材したものが昨夜の映像だった。春と秋の年2回,窯に火を入れる。それに合わせて制作にとりかかる。土を練り,手ひねりで造形をし,さらにそれを削って,釉薬をかけ,みずからの理想の実現に向けて情熱を傾ける。その過程で発するかれのことばがとても印象的だった。今回は,そのいくつかを紹介しておこう。

 その1.エネルギーがたまってくると,バンと爆発する。それを待つ。
 基本は伝統的な茶碗をつくること。これをやっていると,それでは満足できなくなり,創作のエネルギーが溜まってきて,パンと爆発する。そのとき,創作に挑戦する。むかしは創作茶碗の形が現れ,これでよしとして手を引くまでに相当の時間がかかったが,最近はどんどん手が進む。手の動くままにまかせている。

 その2.表現するとはどういうことかと考える。意識と自然とがうまく同調する,そのとき傑作が生まれる。
 茶碗を焼くという仕事は,どこまで行っても自分の思うようにはできない。なぜなら,土も水も火もみんな自然のものだ。この自然との折り合いのつけ方は終わりがない。自分で表現したいという理想の造形は意識の中に鮮明にある。それを手びねりや削る作業をとおして表現する。しかし,最後は火という自然の力に委ねなくてはならない。その火加減にも細心の注意を払うが,これもまた終わりのない道だ。自分の意識と自然とがうまく同調したとき,傑作が生まれる。だから,表現するとはどういうことなのか,といつも考えている。表現とは,自分の意識の及ばないはるかな向こうからやってくるもの,だから,それを引き寄せる力をいかにしてわがものとするか,茶碗をつくるとはそんなものではないかと思っている。

 その3.理想は存在感のあるもの・・・・岩石のような。
 自然の存在にはいつも圧倒されてしまう。人の手をとおしてつくるものにはおのずからなる限界がある。茶碗は手びねりによって生み出される。それは手の形になじむものだ。つまり,手成りの世界だ。それはとても柔らかい表現になってしまう。だから,手びねりでできあがったものを,へらで削って削って,荒々しく存在感のある造形をめざす。そして,ようやく岩石のようなものが現れたとき手を引く。こうして焼きにとりかかる。焼いてみるとまた違ったものが現れてくる。そこはもはや人知を超えた世界だ。そのとき,どれだけ存在感のあるものが現れるか,そこが勝負だ。しかし,自然の岩石には遠く及ばない。

 その4.長次郎の茶碗は,世の中に刃を突きつけている。
 本阿弥光悦の意を帯してつくったといわれる長次郎の茶碗は,世の中に刃を突きつけているように見える。この激しさ,鋭さ,意思力には圧倒されてしまう。「わび」の世界は地味にみえるが,じつはそうではない。秀吉の,ピカピカの派手好みに対する徹底した抵抗の姿勢,それが「わび」の根源をなしている。その迫力を創作茶碗のなかに取り込みたい。が,まだまだ道は遠い。

 その5.表現者の矛盾・・・・引き方がわからない。
 制作の途中で自分がわからなくなることがある。自分はいったいなにをやっているのだろうか,と。つまり,表現の引き際がわからなくなる。だから,「いま」という瞬間に身を委ねるしかなくなる。「いま」のその瞬間の判断にまかせる。生きているということはそういうことではないのか。だから,前に向かってひたすら歩くしかない。立ち止まったら終わりだ。

 まだまだ名言はあるが,このあたりにしておこう。
 番組の終わりに,第15代楽吉左衛門は,「プロフェッショナル」について問われ,「そんなものはいません」とはっきりと言い切り,高笑いした。ちなみに,この番組の名前は「プロフェッショナル 新春スペシャル」だ。NHKの企画そのものを,高笑いで締めくくるあたりに楽吉左衛門の「突きつける」心意気を感じた。おみごと。爽快。

2013年1月3日木曜日

箱根駅伝・日体大総合優勝,おめでとう。「基本の基」のチームづくり,別府監督の決断が実を結ぶ。

 何年ぶりになるのだろう。もう,すっかりその名も忘れかけていた駅伝の名門・日体大が総合優勝を果たした。おめでとう。関係者のみなさんにこころからお慶びを申しあげます。

 昨日(2日)の往路優勝のときのインタビューで別府監督が「優勝の味を忘れていた」と語った姿が印象的だった。でも,それ以上に感動したのは,3年生キャプテン服部君の快走である。去年までの柏原君の快走に代わる新しいヒーローの誕生である。

 テレビ中継の途中で,そして,今日のテレビ中継でも,何回も繰り返し語られたように3年生キャプテン誕生に,じつは大きな秘話があった。昨年は,日体大はブレーキを起こす選手が続出して,よもやの時間内でのタスキ・リレーができなくなるという不測の事態が起きた。このとき,別府監督は初めて選手たちの前で涙を流した,という。そして,つぎのキャプテンを4年生からではなく,3年生の服部君を指名した,という。そこからのチームづくりは大変な苦労があった,と聞く。そして,最終的には3年生の服部君を中心にしてチームが一丸となる体制ができあがったという。

 そのための秘策は,なんとチームづくりの「基本の基」にもどることだった。それも当たり前のことを当たり前にやる,それを徹底し,継続することだった。たとえば,駅伝チームのメンバー全員が一丸となって,きちんと食事をとる,充分な睡眠をとる,掃除をする,助け合う,・・・等々のことを徹底して身につけることから別府監督はやり直した,という。つまり,ごく当たり前の日常生活から立て直した,というのだ。

 それにはわけがある。わたしは,かつて日体大の大学院で教鞭をとっていたことがある。別府監督は,その当時に,監督をしながら大学院に入学して,勉強にも取り組んでいた。若い院生たちの間に身を投じて,もう一度,勉強し直そうとしていたのだ。つまり,率先垂範だ。つまり,みずからの姿勢を糺すことによって,学生たちが気づいてくれることを期待したのだ。しかし,それもどうやら伝わらなかったようだ。そして,チームは低迷をつづける。いい選手が揃ってきていたのに,成果がでなかった。

 別府監督はとても温和な人柄である。わたしは,駅伝が好きだったので,時折,別府監督と話をすることがあった。そして,チームを預かっている苦悩の一部を耳にしてもいた。そのとき,わたしは別の競技種目の監督から,驚くべき学生たちの生活実態について耳にしていたので,その話をした。たとえば,学生たちは酒が飲みたい一心で食費を切り詰め,インスタント・ラーメンを食べてしのいでいる,上級生が夜中に下級生を叩き起こして,むたいな無理難題を押しつけて,それをやらせている,授業にでてきても眠ってばかりいる・・・・,ここから直さないと折角の才能のある選手もつぶれていくのでは・・・?というように。

 たぶん,別府監督は,その建て直しのためにすでにずいぶんと努力をされたのだろうと思う。しかし,チームにその考えを浸透させるには,もっと別のきっかけが必要だったのだ。それが,監督の涙だった。いつも冷静で,温和な監督が選手たちの前で「初めて涙」をみせた。そして,決意も新たに,3年生キャプテンを指名した。チームに激震が走ったに違いない。4年生にしてみれば青天の霹靂である。チームは大揺れに揺れて,少しずつ揺れが収まり,ついには4年生が積極的に3年生キャプテンを支援しはじめ,チームはひとつになった。その渦中の中心にいて,じっと耐えた服部君の姿勢もまた立派である。それが,こんどの山登りの快挙となって報われた。

 チームがひとつになれば,選手たちの目の色は変わる。選手一人ひとりがみずからの生活を律し,生きる基本から見直し,実践しはじめる。それをみんなで取り組んだ。もう,こうなれば放っておいても選手たちは走る。それも押しつけられたメニューではなく,自分に合ったメニューを考え,実践し,反省し,メニューを修正し・・・・,これを繰り返していく。ほんとうの意味の切磋琢磨がはじまる。

 その結実が,箱根駅伝の総合優勝となって現れた。最高の結果である。この経験をとおして一番学んだのは選手たちであり,それを裏方で支えたチームのメンバーたちだ。素晴らしい財産を手に入れたチームのみんなに,そして,別府監督に最高の「おめでとう」を贈りたい。

 この「基本の基」を忘れないかぎり,日体大の黄金時代はつづくだろう。
 来年の駅伝をいまから楽しみにしよう。

2013年1月2日水曜日

ことしのウィーン・フィルの「ニュー・イヤー・コンサート」,いささか失望。

 元旦恒例のウィーンの「ニュー・イヤー・コンサート」を楽しみに聞いた。正直に言おう。いささか「失望」。どうして,あんなプログラムを組んだの?と聞いてみたい。耳慣れたウィーンフィルのプロの人たちには,斬新なプログラムでとても素晴らしかった,ということなのかも知れない。しかし,素人のわたしにしてみれば,やはり,新春のウィーンを彷彿とさせてくれるいつもの,お馴染みの耳に馴染んでいるウィーナー・ワルツやポルカが聞きたかった。これが正直な感想。

 去年の一年間のいやな思い出もすべて忘れて,新しい気分で新年を迎えたい,わたしにとってはそのための儀礼でもある「ウィーン・ニュー・イヤー・コンサート」。ウィーンの人びともそう思っているはず。それが,ことしはいささか趣を異にした。これまであまり聞いたことのないシュトラウス系の珍しい音楽を集めて聞かせてもらえたという点では文句はない。しかし,新年のプログラムではなかった,とわたしは思う。毎年,恒例のウィーンの華やかさに欠けた。

 わたしのような素人には,やはり,音楽に合わせて舞われるウィーナー・ワルツが見たかった。ウィーンのシェーンブルン宮殿の,ふだんは公開されていない美しい装飾で飾られた広間をぞんぶんに活用して舞い踊るダンサーたちの,極限の美しさともいうべきダンスが見たかった。加えて,ウィーン・フィルが得意とするポルカを聞きたかった。少しずつ音がずれることによって夢幻のふくらみを思わせるウィーン・フィルならではの演奏を楽しみにしていた。近代音楽にして近代からはみ出していくような,なんともゆるい音の広がりが聞きたかった。なぜなら,その微妙にはずれていて,なおかつ,微妙に心地よい,そういう音楽はウィーン・フィル以外には聞けないから。

 ウィーン・フィルの演奏家たちは,よくよくみているとどことなく顔の赤くなった人が混じっている。ことしも何人かいた。間違いなくワインを飲んで,自分のベスト・コンディションにして,この演奏会に臨んでいるはすだ。日本では考えられないかもしれないが,ウィーンではなんの不思議もない。あたりまえのことだ。なぜなら,もし,それで失敗したら全責任をみずから負うことを覚悟して,この演奏に臨んでいることは間違いないからだ。聴衆もそれを承知して,最終的に,いい音楽を聴かせてもらえればそれでいいという了解事項が成立している。

 これは大学の授業も同じだ。わたしが,以前,世話になったUniv.Prof.Dr.Strohmeyerは,毎週一回,わたしと一緒にランチをとり,そのあと授業をするという時間割があった。そのランチのときに,かれはワインを一本飲みながら昼食をとり,それから授業に臨んだ。授業の途中から,徐々に顔が赤くなってきて,最後には真っ赤になっていた。それでも,授業は徐々に調子が上がってきて,学生たちを大満足させるみごとなものだった。授業が終わると,学生たちはみんな机をコツコツと叩いた,教授への称賛の意を表したものだ。わたしも聞いていて,なるほど,これは素晴らしいと感動したものだ。これを日本でできたらいいなぁ,と羨ましく思ったものだ。

 またあるとき,ウィーン・フィルがベートーベンの第九を演奏するというので,いまは世界遺産になっている修道院まで(ウィーンからかなり遠い)聞きに行ったことがある。そのとき,一緒に案内してくれた,いまは亡きFrau Buchta(Marliese)が,修道院の庭園のなかにあるレストランに連れていってくれた。そのとき,ガーデンのたくさんのテーブルを囲んでワインを飲んでいる,かなり大勢の不思議な集団がいた。Frau.Buchtaが,わたしの耳に口を寄せて,あそこでワインを飲んでいる人たちの顔をよく覚えておきなさい,という。なんのことなのかわからないまま,わかった,と返事をしてそれとなく顔を観察しておいた。

 演奏会場に行ってみたら,わたしたちの席は前から二列目。なんと,目の前にさっきのワインを飲んでいた人たちがずらりと坐っているではないか。そして,よくよくみると何人かの人はすでに顔が赤い。それでも,演奏がはじまるとそれはそれはみごとな集中ぶりだった。この人たちは地方にでたときの方がいい演奏をする,とFrau Buchta。

 毎年のウィーンのニュー・イヤー・コンサートが行われるウィーン楽友会館のホールは,Frau Buchtaに連れられて何回も通った懐かしいところだ。ブログラムの第一部と第二部の間の休憩時間には,多くの人がホールの隣にあるカフェに行って,立ったままおしゃべりを楽しみながらシャンパンを呑む。ゲップがでるといけないので,みんな丁寧にシャンパンのガスを抜くために持参のスティア・バーでせっせとカップをかき混ぜながら,演奏の評論を楽しんでいる。その場にも立ち会わせてもらった経験がある。

 そんなことも思い浮かべながら,毎年,この「ニュー・イヤー・コンサート」を特別の思いで楽しみにしている。が,今回はいつもお馴染みの「鍛冶屋のポルカ」も「美しき青きドナウ」もプログラムから落ちていた。なので,途中で聴くのを放棄してしまった。ひょっとしたら,アンコール曲のなかにあったのかもしれない。しかし,その前に,もういい,という気分になってしまった。わたしの期待していたダンスや,ウィーン乗馬学校の馬の演技や,そして,演奏される曲目によって必ず映し出されるお馴染みのウィーンの風景,などが今回は見られなかった。

 ウィーンの「根の根」ともいうべきヨハン・シュトラウスの名曲の数々を聴きながら,ウィーンのお馴染みの風景を眺めるというのが,この「ニュー・イヤー・コンサート」の楽しみだ,とわたしは期待していたのだが・・・。さて,ことしの演奏をどう思うか,ウィーンの友人の意見を聞いてみようと思って,早速,メールを送信してみた。さて,なんという感想が返ってくるのだろうか。いまから,楽しみ。

箱根駅伝・山登りは股関節で走れ,つま先ではない(柏原竜二)。

 ことしも箱根駅伝に見入ってしまった。毎年,いくつかのドラマが生まれる。それを演出する選手たちのひたむきな姿勢がいい。みんな一生懸命だ。一年間,この日のために頑張ってきたのだ。その晴れの舞台,それが箱根駅伝だ。感動の源泉は無尽蔵だ。

 テレビ中継をみながら,「あっ!」と思わず声をあげてしまったシーンがあった。5区の,あの箱根の山登りに入ったときだ。山登りの「神様」とその名を知らしめた柏原竜二のことばだ。ことしの5区をまかされた東洋大の後輩に伝えたということば。「山登りは股関節で走れ。つま先ではない」と。なぜか,わたしのこころにすとんと落ちるものがあった。

 その柏原竜二がこんどは解説者として,この箱根駅伝に参加していた。そして,レースの途中で何回も意見を求められ,そのつど,いくつかの名言を吐いていた。やはり,名選手と呼ばれるような人は自分のやるべきことについてはとてもよく考えている,としみじみ思った。その名言のうち,わたしの脳裏に深く刻まれたものをいくつか紹介しておこう。

〇体重を前へ前へと押し出し,股関節で走る。つま先ではない。

 このことばを聞いてピンときたのは,太極拳と同じだ,というものだ。たとえば,表演をはじめるときの直立の姿勢。体重をやや前にかけ,股関節も膝もきゅっと締めて立つ。その姿勢から足を一歩左に踏み出す。そのときのコツは股関節のつかい方にある。右足に体重をかけながら左足の股関節をゆるめる。そこからあとの動作はすべて股関節を自由自在にゆるめることによって,美しく,力強い武術の表演が可能となる。この股関節をいかにゆるめるか,いかに上手にコントロールするか,これが太極拳習熟のもっとも大きなポイントとなる。

 だから,わたしは,ふだん歩くときも股関節をゆるめることを意識している。そして,いかに滑らかに,無駄な動きのない歩行が可能となるのか,探っている。そのとき大事なことは,前に送り出した足のかかとからつま先にと着地面が移っていくときに,軸足の股関節をゆるめることだ。この軸足の股関節をゆるめながら体重も滑らかに前に移動させる。すると,軸足のつま先で地面を蹴るという感覚ではなく,自然に体重が移動して,つま先が地面から離れることになる。

 これはなんのことはない,忍者の歩行と同じだ。忍者はいかなる場合にも足音をたててはいけない。みずからの存在を消すための初歩の初歩である。いわゆる忍び足である。このとき上体を前後に揺らさないで,やや前傾した姿勢を保つ。そのまま歩行すると,スピードを自在にコントロールすることができる。かつての名ランナー,末続選手の「忍者走り」はこのようにして生まれた。これを箱根駅伝の山登りに応用したものが,なんと柏原選手の走りだったのだ。

 太極拳の歩行は,この忍者歩きをスローモーションにしたものだ。もっと精確に言っておけば,歩行運動をできるだけこまかく分節化して,その一つひとつを確認しながら,体重を移動させる。これが,まず,最初の基本の稽古である。この歩行が無意識のもとでできるようになること,これが習熟するということ,つまり,上手になるということだ。わたしの師匠の李自力老師が,太極拳の稽古のときにみせる歩行がこれだ。それはアートと呼ぶべき美しさだ。

 柏原選手は,厳しい練習をとおして,このことに気づき,わがものとしたのだろう。エネルギー消費の少ない,もっとも効率的な走りは,この忍者歩きに通じているのだ。

 もう一つの名言。

〇自分のリズムで走れ。自分のからだの感覚を信じろ。

 人の走りにつられるな。自分の走りのリズムをまず整えよ。そのリズムがつかめたら,あとは自分のからだの感覚を信じて走れ。いけると思ったらどんどん攻めろ。そのリズムで走り切ることだ。

 まず,箱根湯本駅までの平坦路で,その日の走りのリズムを整えること。ここまででリズムをつかみ,あとは自分のからだの声に耳を傾けながら,自分を攻めていくのだ。

 とても含蓄のあることばだ。第一に,「自分のリズム」とはどういうものか。もっと言ってしまえば,「リズム」とはなにか。クラーゲス(『リズムの本質』みすず書房)のいう「リズム」は,表現するものではなくて表出するものだ,という。つまり,自分でつくりだすものではなく,からだの奥底から「表出」(Ausdruck)してくるものだ,という。そこに身を委ねろ,と柏原竜二は言っているようにわたしの耳には聞こえてくる。

 もうひとつは「からだの感覚」だ。これも日頃の練習をとおして身につける以外にはない。まことにデリケートな自己問答を積み重ねながら,身につけるしかない。よく「からだの声」を聞け,という。さあ,どうやって,その声を聞けばいいのか。まるで禅問答のような話でもある。柏原竜二はそういう世界を通過してきた人間なのだ,ということがわかる。やはり,山登りの神様は生きている世界が違うのだ。

 言うは易し,行うは難し。この極意を身につけるための密度の濃い練習が大事なのだ。だから,日頃の練習から,ただ,たくさん走ればいいというのではなくて,いかに内容のある走り方をするかが問われることになる。長距離界には,「距離を踏む」練習をしろ,という言説があると聞いている。そのことの意味は,こんなところに隠されているように,わたしは思う。

 ここにも太極拳の極意に通ずるものがある。
 以上,箱根駅伝から得られた,ことし早々の,わたしの収穫。

2013年1月1日火曜日

新しい年の始めに。ことしを少しでもよい年にするために。

 12月という月があったのかと思うほどに,早くも記憶から遠ざかっていきます。いやな記憶はどんどん消えていきます。だから人間は生きてゆけるのだと言った人がいます。でも,12月の悪夢は忘れてはいけないとわが身に言い聞かせています。

 日本のこの情況を,辺見庸は「明日なき今日」といい,するどい檄をとばしています。良識ある市民は出口のない隘路に追い込まれてしまい,打つべき手もない逼塞状態のまま困りはてています。しかし,沖縄の人たちはもっともっと苛酷な現実と長年にわたって格闘してきています。なのに,その一方では,自発的隷従を恥ずかしいとも思わない人びとによって,日本はますます右傾化のスピードを高めています。この暴走をどこかで食い止めなくてはなりません。その方法はたったひとつ。こんどの参議院選挙で,しっかりとしたけじめをつけるしかありません。

 しかし,すでに政府もメディアも選挙のための世論操作をはじめています。それに騙されないように,わたしたちは,まずは「生きる」ということにしっかり「根」づいたものの見方・考え方を練り上げていかなくてはなりません。目の前の札びらに躍らされることなく,多少の貧乏は覚悟の上で,未来を生きる子どもたちの「命」を守ること,これはわたしたち大人の「義務」です。このことを肝に銘じておきたいと思います。

 情況はますます悪化の一途をたどることでしょう。しかし,ほんの少しだけですが,この情況に変化がではじめているようにも思います。とりわけ,この情況に疑問をいだく若者たちが出はじめているということが,わたしの密かな期待です。つまり,近代社会がゆきついた数量的効率主義を突き抜けていくためのさまざまな試みです。お金がいくらあっても,ありあまるほどものが豊かになっても,人間は幸せにはならない,ということに気づきはじめている若者たちの出現です。そして,人間が生きる上で大事なのは人と人との温もりのある触れ合いだ,ということを見極めている若者たちの出現です。大量生産・大量消費を基盤とするライフ・スタイルは,ますます人間を駄目にしていく,堕落させるシステムである,と気づいた人たちが少しずつではあるけれども,若者たちのなかからではじめているということです。

 この人たちがすでにいろいろの試みを展開している話が,ちらほらと聞こえてくるようになりました。たとえば,大企業に勤めていた優秀なエンジニアたちが脱サラをして,それぞれのノウハウを持ち寄って,クライアントと直接触れ合いながらものづくりをはじめている人たちがいます。あるいは,農業は自然と向き合いながら,さまざまに折り合いをつけていかなくてはならない厳しい仕事ではあるけれども,それこそが生きがいでもある,ということに気づいて勇んで農村に飛び込んでいく若者たちがいます。三浦しをんの小説ではないですが,林業の面白さに目覚める都会出身の若者たちもいます。あるいは,IT企業をやめて,農家の農作物を直接消費者とつなぐネットワークづくりに励んでいる若者がいます。農協や倉庫屋や巨大流通に独占されて,農家はせっかくつくった農作物を二束三文で買い叩かれる悪循環からの脱出です。あるいは,量販店の向こうを張って,新しいコンセプトを立ち上げ,商店街を復活させようという次世代の若者たちがいます。商店街を歩いていく人たちと商店とがお互いに顔なじみになり,声を掛け合うことによって人と人との温もりのある交流をとりもどそうというわけです。発電やその供給システムを地域で管理していこうという動きも若者たちによって支えられているといいます。

 こういう例を挙げていくと,いくつもあります。最近の雑誌でも,こういう情報が少しずつですが,掲載されるようになってきました。それに触発される若者たちも増えているとも聞きます。

 まだまだ時間はかかるかも知れません。が,ひとつ突破口を見出すと,次第に勢いがでてくるのではないか,とわたしは密かに期待しています。そのコンセプトは「人と人との温もりのある触れ合い」です。そういう社会の実現をめざして,仕事の仕方を変えていくこと,そういうきざしがみえはじめている,そこに期待をしたいと思っています。

 この逼塞情況をなんとか打破していくための方途がどこまで広がり,浸透していくか,そんな夢でもみていないと,これからさきは闇ばかりになってしまいます。

 年の始めですので,少しでも明るい夢をみたい,そんな思いでいっぱいです。
 ほんのささやかでもいい,明るいきざしがみえる方向に向かって,わたしも努力したいと思っています。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。