2013年2月21日木曜日

第148回芥川賞作品・黒田夏子著『abさんご』を読む・その1.

 『abさんご』が単行本で刊行されているのは知っていたが,やはり,芥川賞選考委員の人たちの選評や受賞者のインタヴューなども合わせて読みたかったので,掲載誌が書店に並ぶのを待った。そうして,ようやく出た,と思って買ってきたところに別件の飛び込みの仕事が入ってしまった。だから,昨日までおあずけのまま机の上で眠っていた。

 前評判どおりの不思議な小説だった。でも,いちど読んだら忘れられない,こころの奥底に眠っていたものがつぎつぎに呼び起こされるような,どこか時空間がどんどんぼやけてしまいそんざいすらふたしかになっいくような,それでいてそこはかとなく寂寥感がただよいはじめる不思議な小説だった。そう,ひとくちで言ってしまえば,今福龍太が『薄墨色の文法』のなかで展開した世界を彷彿とさせるような,そんな作品だと思った。あるいは,記憶というものの危うさ,つまり,aであったともいえるし,bであったかもしれないし,そういうあやういものが入れ子状態になってもやもやとうごめいているようなもの,そういうもののちくせきが記憶というもののじったいなのだ,と主張しているような・・・・。そして,それが人生なのかも・・・・。というような印象をもった。おやおや,すでに,作者・黒田夏子の文体にかぶれはじめている自分が表出している。

 とにかく,わたしのとおい記憶のそこにうずもれてしまっていて,にどとよみがえってくることはなかろうと思われるような,そんなやみよにしずんでしまっていたふかくてとおい記憶が,このさくひんをよみながらつぎつぎに浮かんでくるから不思議だ。

 それをもっともらしくせつめいすれば,作者の黒田夏子とわたしは年齢が同じだから,というのがひとつある。そのほかにもいくつも似たようなところがあって,いちいちなっとくしてしまうので,どんどんかのじょの小説世界にひきこまれていく。それらについては,これから,たぶん,なんかいにもわけて書くことになるだろう。

 つまり,同世代として,おなじじだいやしゃかいのくうきをすって生きてきた。そうしていまをいきている。だから,作品のぎょうかんにしょうりゃくされてしまっているようなことがらまでが,このまかふしぎなしょうせつをよまされる者たちのひとりであるわたしには,そのきょをつくようにしてひょこひょことおもいだされてくることになる。ああ,もう,ほとんど黒田夏子菌にかんせんしてしまっている者たちのひとりになりきっている。

 この作品はみじかいフラグメントのような記憶をとりだしてきて,それをつぎからつぎへとつみかさねていく,そんなしゅほうで書かれている。だから,ほとんどなんのみゃくらくもないようにみえるが,ふかいところにながれている通奏ていおんの音はとだえることはない。そして,その音がしだいになりひびきだすかとおもうと,つぎのしゅんかんにはするりとかわされてしまう。つまり,たしかな記憶というものはどこにもそんざいしないのだ,とばかりに。そうして,かぎりなく「む」のせかいにわたしをいざなっていく。

 たとえば,3さい児が母の死をどのように記憶し,そのご,どのように回想するのか,というモチーフがひとつながれている。ほとんど,なにも記憶していない,とさしょに書く。しかし,いろいろの記憶をたどるうちに,じょじょにそのときのふんいきのようなものをおもだす,あるいは,おもいだしたつもりになっている。それでも母のデスマスクは記憶にないとだんげんする。にもかかわらず,このしょうせつのおわりのほうでは,かなりしょうさいに葬儀のひとつひとつのばめんがかいそうとしてきじゅつされている。しかも,それらの記憶もまた,のちに,しゅういのいろいろの人たちからのはなしをつなぎあわせて,じぶんになっとくできるものがたりをこうちくしたにすぎないのかもしれない,ともいう。けっきょく,たしかなものはどこにもそんざいしない,といっているような・・・・。

 あまりかんたんにだんげんしてしまうことはつつしまなければならないが,たしかなものなどどこにもない,ふたしかなじょうたいのままちゅうづりにされて,じかんだけが流れ去っている,というていねんににたような世界にいざなっていく。こうしてじぶんのなかのたしかだとおもっている記憶をたどっていくとそんなふたしかなものしかうかんでこない。それでも,そんなふたしかな記憶をてがかりにしながら,どこかにみずからのよってたつ「ね」をさがしもとめているようにもよみとれる。

 もう,すっかり過去をふりかえるなどというせいかつからとおざかってしまっている,あるいは,ふれようとしていない,あるいはまた,てっていてきにきひしてにげているだけかもしれない,げんざいのわたしには虚をつかれたような不思議なけいけんとなった。

 そのことを,もっともしょうちょうてきに表現しているのがこの作品のタイトルである『abさんご』ではないか,と考えている。このことは「その2.」で書いてみることにしよう。

 今日のところはここまで。

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