2013年3月4日月曜日

フランスからの柔道情報・第2報.ボルドーの道上道場。

 フランス現代思想の勉強のためにフランス・ボルドーに留学している若い友人・藤山真さんから,久しぶりにメールがとどいた。以前から,時間があったらボルドーの柔道場を訪ねて,いろいろ情報を集めて知らせてほしい,とお願いがしてあった。その第二報である。第一報は,フランスの柔道に関する国家試験制度について,でこのブログでも紹介済み。

 ボルドーといえばワインの名産地として知られる。そこの柔道場を訪ねてみたら,偶然にも日本人がつくった道場で,その名も「道上道場」というのだそうだ。道場主(フランス人)は温かく迎えてくれ,とても親切にあれこれお話をしてくれたという。そのときの話とその後に藤山さんが調べてくれたネット情報を整理すると以下のとおり。

 この道場をつくったのは,「道上伯(みちがみ・はく)」(1912年10月21日~2002年8月4日)という日本人。経歴を調べてみると,1926年愛媛県立八幡浜商業学校入学。このときから柔道をはじめる。すぐに頭角を表して,最年少初段(15歳)を取得。アメリカに渡航しようとして失敗。1933年立命館大学入学。1934年武道専門学校柔道科に入学。実技試験は1番,学科試験は2番だったという(受験生500人ほど)。1938年卒業と同時に,旧制高知高等学校助教授として赴任。1940年上海東亜同文書院に招かれる。1945年帰国。

 1953年フランス柔道連盟の要請を受け渡仏。ボルドーに定住。ここを拠点にして柔道の国際的な普及に努める。
 1953年11月,クーベルタン・スタジアムで行われた柔道の試合では,フランスを代表する強豪10名と連続して対戦。6分30秒の間に13回の技を掛け,10人抜きを達成。
 1955年,オランダを訪問した際に,当時,建設作業員だった20歳のアントン・ヘーシングに出会い,その才能を見出し,とくべつの指導を行う。
 1961年,アントン・ヘーシンクは世界柔道選手権大会無差別級で優勝。
 1964年,東京オリンピック柔道無差別級で日本の神永選手を袈裟固めで押さえ込み金メダル獲得。当時の日本人に大きな衝撃を与えた。しかし,このヘーシンクの優勝によって,柔道はオリンピックの正式競技種目として認められることになった(柔道は開催国指定種目として,東京オリンピックで初めて実施され,1回かぎりの予定だった)。

 フランスの柔道は,1935年に渡仏した川石酒造之助(1899~1969)によって指導・普及がなされ,フランスの柔道の父として尊敬を集めたこと,1950年には粟津正蔵が川石に招聘され,二人で力を合わせて,柔道の国家試験制度を整備したこと,そして,その試験制度の内容の概略までは,第一報で書いたとおりである。

 しかし,この道上伯という人の存在はわたしも知らなかった。しかも,川石,粟津の二人との関係がどのようなものであったのかも,いまの段階ではわからない。しかし,調べてみたら『ヘーシンクを育てた男 道上伯の生涯』(真神博著,文藝春秋,2002年)という本が刊行されていることがわかる。この本を読めば,もっと詳しいことがわかるはずだ。そういえば,こんな題名の本があったなぁ,というかすかな記憶はある。しかし,わたしの怠慢で買って読むことにはいたらなかった。

 ついでに,この本の存在と同時に,『世界にかけた七色の帯──フランス柔道の父・川石酒造之助伝』(吉田郁子著,駿河台出版社,2004年)という本がでていることも知った。こちらもわたしの怠慢で,まだ,読んではいない。

 なお,You Tubeを検索してみたら,「1997年柔道家道上伯(85歳)。フランス・ボルドーにて最後の夏げいこ」の映像をみることができる。見てみると,元気いっぱいの道上氏が柔道着を着て道場に立ち,実際に技の指導を実演して見せている雄姿がでてくる。驚くべしである。そして,そのお弟子さん二人がインタヴューに応じている。
 Aさんは,「柔道の技の指導だけではなく,生きる哲学も教えてくれる」といい,
 Bさんは,「まっすぐな精神,誠実さに人間としての品格を感じます」と言っている。

 藤山さんのお蔭で,わたしの眼も開かれることになった。フランスの柔道が,本家の日本を超えて,フランス人の人気スポーツとして盛んになっていることの背景にあるものがなにか,これから少し追ってみたいと思う。また,チャンスがあれば藤山さんがボルドーにいる間に一度,訪ねてみたいとも思う。藤山さんには,もっと道上道場に通ってもらって,できれば,体験入門もしてもらって,生の情報をもっともっと送ってもらいたいと思っている。参与観察だけではなくて・・・。

 取り急ぎ,フランスからの柔道情報・第二報まで。

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