2013年4月25日木曜日

桜井市・出雲・「ダンノダイラ」・覚書・その2.「ダンノダイラ」は巻向山の山頂付近の磐座信仰の聖地で,かつての出雲族の棲息地。

 真言律宗巻向山奥不動寺は,巻向山からの湧き水が一気にあふれだして沢となる,その水源となる位置に建っている。この湧き水は,むかしから不動明王を祀る修行僧たちの瀧行に用いられたのであろう。その意味では,深山の絶好のロケーションに,この奥不動寺は建っている。三輪山の真裏にあたるというポジションも,どこか謎を秘めていそうだ。

 この水源の右に向かう登山道に「ダンノダイラ」への道案内が立っている。このあたりはあちこちから湧き水がでる地形のようで,一気に急坂にさしかかるのだが,あたり一面湿っていて,まことに滑りやすい。よほど注意して足場を選ばないと滑ってしまう。ここを凌ぐとあっという間に尾根にでる。右に行けば三輪山の山頂へ,左に取れば「ダンノダイラ」。


 尾根道を左にとってしばらく行くと二手に道が分かれている。左は尾根筋をまっすぐにたどる道。右は山腹を巻いていく道。ここの分岐点にはなんの表示もないので,少し考える。しかし,尾根筋の道をたどるとすぐさきに巨岩が露出していて,注連縄がかかっているのがみえる。まずは,その巨岩を確かめるために尾根筋をたどる。この巨岩もまた磐座信仰の対象として,いまも,大事に守られていることがわかる。が,この道は,途中で倒木などに遮られていて,いまは歩行困難。かつては,巻向山の頂上にいたる山道があったはず。今回の装備では,この道筋を薮漕ぎをしながら進むことは無理と判断。


 
 右の巻き道をたどることにする。ゆるやかに下りながらトラバースしていく道は歩きやすい。途中から杉の植林のしてあるみごとな山林に入る。このあたりからが「ダンノダイラ」と呼ばれる聖地。案内表示が多くなる。順番に,「天壇」の跡,山の頂上に「小川」跡,「ダンノダイラ」と周域の現地案内,磐座,という具合につづく。最後の「磐座」というところには急斜面に突出するようにして巨岩が剥き出しになっている。


 歩いてきた山道から少し登っていったところにその巨岩がある。近づいてみると,なるほど,圧倒されてしまうほどの迫力がある。植林された杉の木立の間に見えている巨岩は,岩の割れ目のいたずらというべきか,イルカが笑っているような顔にみえる。でも,その存在は,現代のわたしたちが眺めてみても,やはり,神が降臨するかもしれない,という印象をうける。古代人にあっては,間違いなく,天なる神が降臨する依代としてこの巨岩がみえたのも不思議ではない。


 いわゆる「ダンノダイラ」と呼ばれる場所は,いまは,杉木立のなかに広がる,やや緩斜面の地形をなしている。案内表示(野見宿禰顕彰会作成)によれば,この地に古代の出雲族は暮らしていたという。巻向山の尾根筋には小川跡もあり,沼地の跡もあって,そこから「ダンノダイラ」に水を引き,田や畑を耕していたという。思わずまわりの地形を眺めながら,南斜面であること,緩斜面であること,などを考え棚田や段々畑ならば相当の面積は確保できるなぁ,と想像してみる。

 この道は「ダンノダイラ」を過ぎると,一気にくだり坂になっている。これを下っていけば,桜井市の出雲と白河の集落にいける,と案内表示に書いてある。たぶん,そんなに長い距離ではなさそうだ。われわれは,ここ「ダンノダイラ」の東端から引き返して,奥不動寺にもどる。

 いつの時代かは特定できないらしいのだが,古代の出雲族がここに暮らしていた,という。なにゆえに,こんな山の中(それも巻向山の頂上付近)に暮らしていたのか。まるで里村から隠れるようにして・・・。こんなところに住みつかなくてはならなかった理由はなにか。なにか,特別な理由でもあったのだろうか。あるいは,純粋に,磐座のある「聖地」を守ることだけのために,出雲族の特定の人びとがここに住みついていたというのだろうか。もし,そうだとしたら,三輪山の磐座信仰の原点はここではないか,とも考えてみる。なにより,こんな山の上にもかかわらず湧き水があり,立派な水場があったらしい。

 もし,出雲神話の「国譲り」の話(『日本書紀』にも描かれている)が,なんらかの事実にもとづいているとすれば,その直後に,逃げ込むようにして,こんな山の中に隠れ住まなくてはならない理由があったのではないか,ということがまずはわたしの頭に浮ぶ。「国譲り」とは美しい作り話で,実際には,相当に激しい戦闘がくり返されたのではなかったか。負け組の一部が,この山中に逃げ込み,時節到来を待って,逆襲のチャンスを狙っていたとしても不思議はない。

 奥不動寺の老僧が話してくれたことが脳裏をかすめる。老僧の言うには,学者の先生たちの研究によれば,「ダンノダイラ」の出雲族は岩に穴を掘って,その中で暮らしていた,という。夏は涼しく,冬は暖かく,敵に攻められても入り口を塞げば,一時的に身の安全を確保することもできるのだ,と。そして,ここに住みついていた人びとが,のちに,いまの出雲や白河に降りていって里村で暮らすようになった,という。だから,出雲や白河の人びとは,年に何回かは「ダンノダイラ」に集まり,祭祀を執り行いながら「相撲」をとったと言い伝えられている,という。いまでも,出雲や白河の人びとにとってはこの「ダンノダイラ」は聖地としてとても大事な場所だ,という。そして,いまでも祭祀もきちんと執り行われているという。

 この「ダンノダイラ」には,今回,初めて訪れ,その地に立つことができた,ただ,それだけのことである。「ダンノダイラ」についての研究がどの程度行われてきているのか,郷土史家がどのように記述をしているのか,それらのことについての調査もこれからである。とにかく,このような「聖地」があるということを知った,ただそのことを手がかりにして,その地を訪ねてみた,という次第。

 現段階では断定的なことはなにもわからない。すべては,これからである。
 ただ一点だけ,気になることがある。いま,話題になっているベストセラー,村井康彦の『出雲と大和』(岩波新書)には,この「ダンノダイラ」のことはなにも触れてはいない。なぜか? 記述するに値しないと判断したのか,それとも,記述できない,あるいは,秘匿されなければならない,なんらかの理由があったのか,いまは想像の域をでない。

 いずれ明らかにしてみたいと思う。なぜなら,野見宿禰という人物が突然「出雲の人」として『日本書紀』に登場し,その日のうちに当麻蹴速と決闘をしている。この話も不思議である。垂仁天皇に取り立てられた野見宿禰は,おそらくは,この桜井市の出雲の人ではなかったか,というのがわたしの見立てである。だとすれば,その祖先が「ダンノダイラ」で暮らしていたということになる。この事実を隠すためなのか,野見宿禰の出自については,『古事記』にはなにも記録されてはいない。隠す必要のない出自があれば,『日本書紀』に記録されていてもなんの不思議もない。

 そんなことをあれこれ推測しながら,これからの研究仮説を整理していこうと思う。

 取り急ぎ,第2報まで。

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