2013年6月10日月曜日

山口昌男追悼シンポジウム「人類学的思考の沃野」傍聴記・その2.真島一郎さんのプレゼンに感動。

 主催者のご挨拶,後援団体である日本文化人類学会会長のご挨拶があって,青木保先生の基調講演,そしてシンポジストの発言とつづき,プログラムの前半の最後に真島一郎さんが登壇。たぶん,今日,予定されている6名のシンポジストのなかではもっとも若い研究者(アフリカニスト)のはず。わたしはきわめて個人的な関心から,真島さんがどのようなお話をなさるのか,じつはこころから楽しみにしていました。

 真島さんが登壇され,お話をはじめると,それまでどことなくざわついていた会場が静まり返りました。そして,ピーンと張りつめた空気が流れはじめました。それほどに気持ちの籠もった,まさに「追悼」の名に値するプレゼンテーションが展開しました。わたしは感動しながら耳を傾けていました。わずか15分という短い時間でしたが(プログラム上,仕方がない),じつによく練り上げられ,整理され,凝縮したきわめて濃密な内容のお話をされました。途中からノートをとるのも忘れて,聞きほれていました。それほどの完成度の高いプレゼンでした。

 まじめな性格の真島さんらしく,きちんとレジュメを用意・配布された上で,お話がはじまりました。この日のシンポジストのなかでは,お二人の方がレジュメを用意されました。そのお一人というわけです。ですが,レジュメは会場ではほとんど眼をとおすこともできないまま,ただ聞き入るばかりでした。でも,帰宅してから,そして,いまも,そのレジュメを開いてあちこち熟読玩味させてもらいながら,このブログに挑戦しています。

 そのなかから,ひとつふたつ話題をご紹介させていただきます。とはいっても,わたしの独断と偏見にもとづく自己流解釈になることを,あらかじめお断りしておきます。

 真島さんのレジュメに書かれている大きな見出しは全部で7本です。順番に,説話,伝統王権,史資料,天皇制/フィールドの外延,近代に対峙するメタヒストリー:発生≠生成,起源≠始原,社会の/「フィールド」の夜へ,読む/生きる,と並んでいます。そして,それらの見出しに対応する山口昌男さんの文章が引用されていて,しかも,それらの典拠文献が25本,きちんと提示されています。これはとても助かります。これらを手がかりにして,さらに山口昌男さんの原著に入っていくことができるからです。

 さて,ここでは,わたしの専門分野であるスポーツ史研究との関連が深いと思われるトピックスをとりあげてみたいとおもいます。まず最初は,「近代に対峙するメタヒストリー:発生≠生成,起源≠始原」です。真島さんは,山口昌男が早くからモダニティ批判を展開した事跡に注目し,これを高く評価しています。それは単なるとおりいっぺんのモダニティ批判ではなく,ポスト・コロニアルな視点からのモダニティ批判であった点が当時にあっては際立っていた,といいます。つまり,アカデミックな近代史学が取り上げるような「ヒストリー」としての問題提起ではなくて,文化記号論や「メタヒストリー」の視座からの問題提起だというわけです。そのもっとも際立つ差異は,「発生≠生成,起源≠始原」に集約されている,といいます。ヒストリーとしてはものごとの「発生」が関心事になるけれども,人類学では「生成」が重要であり,同じように「起源」ではなく「始原」が重要だ,と山口昌男は強調している,といいます。

 たとえば,「神話」研究にとって重要なことは,その「発生」や「起源」をつきとめることではなくて,神話が「生成」され,新たな生を導き出したり,神話が発する力がどのようなものなのか,そして,それが人びとの暮しにどのような影響を及ぼしているのかが重要なのである,というわけです。神話の「始原」についても同様です。

 このことに関して,山口昌男の言説として,つぎのようなフレーズを切り取ってきてレジュメのなかに取り上げていますので,それらを紹介しておきましょう。

 「発生」という歴史主義的次元での問いに私は昔から馴染むことが出来ず,それがもとで,私は初めに学んだ古代史学から民族学へ逃げだしてしまった後ろめたい過去をもつ〔・・・・〕私はむしろ,「発生」とか「起源」といった言葉は「物事の起こり」よりも,常に回帰的に,何事かの存立を可能にする基本条件として捉えたいという潜かな願望を持っている。(1969年,「幻想・構造・始原──吉本隆明『共同幻想論』をめぐって」,『人類学的思考』せりか書房)。

 これがあの有名な吉本・山口論争の核心部分に相当するというわけです。この問題は追い込んでいくと,スポーツ史的にもとても面白い知の地平が広がっているのですが,ここでは禁欲しておくことにしましょう。

 もうひとつ,引用文を紹介しておきましょう。

 始原的なものが自然的時間を遡った果てにあるものでなく,内的時間の存在様式を「垂直に」たどることによって,開示される,すなわち各々の瞬間のなかに生成として姿を現すものであるということ〔・・・〕。(1969年,「失われた世界の復権」,山口昌男編『現代人の思想15 未開と文明』平凡社所収。)

 どこかジョルジュ・バタイユを想起させるような文章です。となると,この「失われた世界の復権」をしっかり読んでみようということになります。こうして,わたしの問題意識もつぎからつぎへと拡大していきます。山口昌男という人は,まさに,好奇心の赴くままに,貪欲にそのテーマを追い込んで行った人のようです。そして,一見したところ破天荒な研究者にみえるけれども,じつは,綿密な事前調査と文献研究を経たのちに,自由奔放に思考の限界まで飛翔させる,そういう人だったと真島さんは受け止めているとのことでした。

 最後に,「読む/生きる」の見出しのもとに引用された文章を引いてこのブログを閉じたいとおもいます。これぞ山口昌男のモダニティ批判の真骨頂ともいうべき,毒の入った,核心に触れる文章だといっていいでしょう。

 精神が平俗な日常生活を相対化するために踏みだす第一歩は<旅>に出かけることである〔・・・〕旅,何処へ? 自分が属する日常生活的現実のルールが通用しない世界へ,自ら一つ一つ道標を打ち樹たて地図を作成しつつ進まなければ迷いのうちに果ててしまう知の未踏の地へ,書の世界へ,自らを隠すことに知の技術の大半を投じている秘境の世界へ,己れが継承した知的技術を破産させるような知識で満ちているような知の領域へである。(1971年,『本の神話学』,中央公論社)。


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