2013年6月12日水曜日

『東京新聞』掲載の三浦雄一郎さんの「手記」を読む。死と向き合う体験に注目。

 昨日のブログで書いたように,三浦雄一郎さんの「手記」が,さっそくに今日(6月11日)の『東京新聞』に掲載されました。テレビというメディアの報道内容のいい加減さにくらべたら,本人直筆の「手記」はそれなりに内容があって,伝わってくるものが重い。

 三浦さんの「手記」は,そんなに長いものではないので,情報を共有する意味でここに転記しておきたいとおもいます。

 史上最高齢でエベレスト登頂に成功した冒険家三浦雄一郎さん(80)が今回の挑戦を振り返った手記が届いた。という枕があって,「80歳エベレスト登頂」「三浦さん挑戦振り返り手記」「生還 新たな夢の始まり」という見出しが付いています。手記の本文は以下のとおり。

 2013年5月23日午前9時(ネパール現地時間),私は80歳にして三度目の世界最高峰エベレストの山頂へ立つことができた。5月16日に標高5,300メートルのベースキャンプを出発。若手あったら4~5日で到達する山頂へキャンプ数を二つ分増やして8日目の頂だった。
 5年前,75歳での登頂後,常に見据えてきた夢の頂。この5年間というのはどのような肉体的な意味を持つのであろうか。
 日本人男性平均寿命を超え,不整脈や76歳での骨盤骨折,特に心臓はヒマラヤ出発の直前に手術をしたばかりだった。加齢による衰えをさまざまな工夫や意志の力によってどれぐらい乗り越えることができたのか。
 今までの経験を踏まえた新たな発想や装備,斬新なトレーニング方法を活用した。
 高みに上がるにつれて身体の調子は良くなり,標高約8,000メートルのサウスコル(通常アタック前にテントを張る場所)のキャンプ4(C4)に到達したときは,37歳で初めてそこまで登った時より体調は良い。70代も体調は良かったが,あのエベレスト大滑降を行った時よりも良かった。
 無駄に体力を使わず,補助酸素を使って体力の温存と高所への順化がバランス良くできていた。ここからは死の世界「デスゾーン」と呼ばれる8,000メートル以上での登山。山頂までの標高差はまだ千メートル近くもある。
 最終キャンプのC5への登攀(とうはん)は猛吹雪に見舞われた。積もった雪がまるであり地獄ように足元で崩れ,30センチ登ると20センチずり落ちる。苦しいなんてものじゃない。娘からの電話「無理しないで」。しかし無理をしなければ世界最高峰の山頂へは登れない。
 数時間の休憩後,午前2時に出発。風はなく絶好のコンディション。薄い大気にあえぎ,急な勾配や研ぎ澄まされた稜線(りょうせん)を登る。
 頑張って,頑張って,頑張って・・・そして登頂。眼下に広がる美しい地球を眺め,はるかなる宇宙を見上げた時にこれ以上なく幸せでうれしく,これ以上なく疲れていた。
 下山は死闘となった。C5直前で身体が全く動かなくなった。長時間にわたる超高所での行動と充分な栄養補給ができなかったことによる極度の疲労と脱水症状。C5で休息と食糧と水分をとることができた。
 「生きて還(かえ)りたい」という唯一の強い思いで再び立ち上がり,C4へたどり着く。翌日,長い時間をかけて慎重に標高6,500メートルのC2へと下った。デスゾーンでの滞在は足かけ4日,登攀行動は計36時間以上となった。
 山頂へ向かう一歩ずつが「希望の軌跡」となった。しかし希望への足跡を刻むこと以上に素晴らしいことは生きて還ってくること,それが新たな夢の始まりへと続くということを感じた80歳のエベレストだった。
 素晴らしい仲間に恵まれ,素晴らしい天気を授かり,そして多くの方々に応援していただいた。この場をお借りして心から感謝申し上げます。(三浦雄一郎)

 抑制のきいた,簡潔にして要をえた,いかにも三浦さんらしい文章だとおもいます。冒険家には,こうした字数制限のあるなかで,説得力のある文章を書く能力もまた求められています。こういう能力が,綿密な登山計画を組み立て,チーム三浦を支えるサポーターたちを組織し,全員に計画を周知徹底させていく上で不可欠なのです。当然のことながら,チーム三浦のなかには現地のシェルパたちもふくまれます。細部にわたって一分の隙もない,正確な情報を発信し,徹底させていくことが命綱となります。その歯車がひとつ狂っただけで,大きな遭難事故につながっていきます。ですから,ただ,若々しい体力や情熱だけでエベレストに登れる,と思わせるような昨日のNHKクローズアップ現代の報道姿勢に,わたしは我慢がならないのです。

 わけても,足首に重い錘をつけて足首を曲げないで歩くトレーニングを日常的に行い,大腿四頭筋を鍛えていた,などというナレーションつきの映像を見せつけられると,なにを言ってるんだ,とテレビに向かって怒鳴ってしまいます。三浦さんの足首は立派に曲がっているではないか,と。つまり,この番組制作にかかわった人のなかに,ひとりとして,登山がいかなるものかということがわかる人がいなかった,ということがここにみごとに露呈してしまっています。足首の固い人は基本的に登山に向いていません。足首が固かったら急坂を登ることはできません。もう,その時点で,初心者としても失格です。そのむかし山を歩いていた人間として,みずからの足首の固さにどれほど悩まされたことか。もともとスキーの選手として活躍していたことのある三浦さんの足首はふつうの人よりはるかに柔らかいことは間違いありません。

 昨日の話はやめにしましょう。はじめるときりがありません。この手記にもどりたいとおもいます。

 この手記で,わたしの眼が釘付けになったのは,「下山は死闘となった」からはじまる文章です。「デスゾーンでの滞在は足かけ4日,登攀行動は計36時間」にいたってクライマックスに達します。そして,「身体が全く動かなくなった」時点で,三浦雄一郎さんはいったいなにを考え,なにを思ったか。その答えが「生きて還りたい」の一念でした。このあたりに三浦さんの本音を聞き取ることができます。「死と向き合う体験」が,登山では,ある意味でつきものです。そこをいかにクリアするか,それが登山家としての資産となっていきます。

 もう,これ以上,繰り返しませんが,メディアの人びとにお願いしたいのは,登山というものがどういうものであるのか,そのことをしっかりと踏まえた上で,三浦雄一郎さんの「偉業」を分析して報道してほしいということです。登山のなんたるかということを抜きにして,脳のCTスキャンの写真や「握力40kg」などという数字をあげつらうのはまったくナンセンスです。

 もはや,「スポーツ・メディア共同体」を抜きにしてこれからのスポーツを語ることはできません。それだけに,メディアの人たちには「スポーツとはなにか」ということをつねに問い直しながら報道にたずさわってほしい,ということです。と同時に,メディアが流すスポーツ情報を,わたしたちは厳しい「批評」の眼で見届けていくことが不可欠だ,ということでもあります。

 双方がしっかりしていないと,スポーツに未来はありません。もう,すでに「破局」を迎えてしまっている,という見方もありますが・・・・。

 今日のところは,ここまで。

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