2013年6月26日水曜日

サツマイモ畑に花が咲く,というお話。

 子どものころ,つまり,敗戦後のまもないころ,食料確保のために,わずかばかりの畑にいろいろの作物を植えて,母親が必死になっていた。父親もまた,昼の勤務を終えてから,腰に懐中電灯をつけて畑にでかけていた。当然のことながら,子どもたちもみんなで畑を手伝っていた。生き延びるために家族が一致団結していた。兄弟喧嘩も絶えなかったが,それでも協力すべきときは仲良く力を合わせていた。その意味では深い情愛に結ばれていたように思う。

 そんな敗戦直後の食料難の時代の主食はサツマイモであった。くる日もくる日もサツマイモで飢えをしのいだ。しかし,この時代のサツマイモは当たりはずれが多く,うまいイモもあれば,まずくて食べられないイモもあった。その当時のもっとも新しくて美味しサツマイモと農林一号と呼ばれた新しく品種改良されたイモだった。その農林一号の苗(つる)を近所の農家から分けてもらって,わが家でも植えることになった。すでに,前の年に「農林一号」という名のサツマイモを一二度食べたことがあって,その味のよさは知っていた。ので,みんな必死で植えた。

 ことしの夏にはおいしいさつまいもが食べられる,と楽しみにしていた。ところがである。奇怪しなことが起きた。つるが伸びてきて,そろそろ地下には芋ができるころだ,イモ堀りも近いぞ,と思っていたら,畑のところどころに花が咲きはじめたではないか。サツマイモに花が咲くとは知らなかった。だから,なにごとか,と初めてみてびっくりした。それも,朝顔に似た清楚な花である。わたしたち家族はだれもこの異変がなにを意味しているのかを知らなかったので,ただ,ただ,傍観するのみだった。

 ところが,ある日,苗を分けてくれた農家の人がやってきて,「いもに花を咲かせちゃあダメだぞん。いもがつかんぞん。」という。なんのことかわからない母親が「どういうこと?」と聞いている。農家の人は「いもはのん,根元の方を活けて,芽の方は土の上に出して植えんと,みんな花が咲いてしまう。そうなると,いもがつかんくなるだぞん」という。そばで聞いていたわたしは「ヘェーッ」とびっくり仰天。

 そういえば,ほとんどの苗は根元と芽がはっきり確認できるものだったので,植え方を間違えることはなかった。が,ときおり,芽の方も切ってあって,どちらが根元なのか芽なのか判断できない苗があったことを思い出す。どちらが芽の方かわからないので,適当に判断して,こっちが根と考えて植えた。それが間違いのもとだったのだ。どうやら母親も知らなかったようで,だから,見分けがつかないまま植えた苗が,あちこちで花を咲かせることになったらしい。でも,それを知ってからは恥ずかしいので,家族交代で朝早く畑に行っては,花を摘むことにした。が,やはり,いもはつかなかった。

 あの花さえ咲かさなかったら,秋の収穫はもっともっと多かっただろうに,とみんなで悔しがった。が,後の祭り。それでも,みんなで苦労して世話をした農林一号の味は格別だった。収穫した当座は,蒸かし芋にして食べた。腹一杯になるほど食べた。米が配給でしか買えない時代なので,圧倒的に少なかった。だから,米のごはんにもサツマイモを角切りにして混ぜて増量した。このご飯も美味しかった。

 秋も深まり冷たい風が吹きはじめると,蒸かしたイモを薄く切って,ゴザの上に並べて干した。うっすらと白い粉が吹き出てくると完成である。これは保存食として大事に保管された。冬の間のおやつはこのイモ切り干しだった。わたしの育った地方ではイモ切り干しと呼んだが,東京にでてきたら「干しイモ」と呼ばれていて驚いた。

 いまごろになって,突然,こんな話を思い出したのは,ある人から「ジャガイモの苗木にトマトを接ぎ木すると,ジャガイモとトマトの両方ともとれる」という,とんでもない話を聞いたからだ。この話はまたいつか書くことにしよう。

 今日は,サツマイモ畑に花が咲く,という子ども時代(小学校3年生)の,なんとも笑えない懐かしい思い出話まで。 

1 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

 出典が思い出せませんが、東三河に甘藷をひろめたのは、「えみしのさへき」に出てくる「わが親ますかたのちかどなりの里」のひとだと真澄がいう「牛窪村の喜八」(河合喜八)だと読んだことがあります。
 かつては牛久保には、そこそこの規模の製飴工場が何軒かありました。
 なお芋切干については、御前崎付近が発祥のようですね。
 明和3(1766)年、御前崎沖で薩摩藩の御用船「豊徳丸」が座礁、船員救助の礼にと、甘藷の種と栽培方法を伝授されたそうです。
 甘藷の話からは離れますが、御前崎からそう遠くない遠州袖志ヶ浦(磐田市福田(ふくで)漁港沖)に、寛政12(1800)年、清国船「萬勝號」が漂着します。江戸学の大家・三田村鳶魚は、清楽「かんかんのう」の伝播ルートとして、長崎のみならず、この袖志ヶ浦も「かんかんのう」の発信地だったと述べています(『三田村鳶魚全集 第20巻』「かんかん踊」中央公論社224P)。
 落語『駱駝の葬礼(そうれん)』に欠かせない「かんかんのう」も、こんなことを考えながら、聞くと違った発見もありますし、仮名垣魯文が「かんかんのう」の替え歌『梅が枝節』を作ったとき、遠州七不思議のひとつ無間の鐘をモチーフにしたのも、「萬勝號」の遠州袖志ヶ浦漂着を意識したからでしょうか。
 島国日本、海から色々な文物が入ってきました。