2013年6月5日水曜日

戦争とはなにか。人間の全存在を賭けた<全体的体験>である。聴講生レポート・その8.

 5月21日(火)もダブル・ヘッダーの授業が行われました。N教授の日常的な多忙さの一端は,わたしにもわかるほどなので,相当に睡眠時間をけずっての日々のはずです。にもかかわらず,元気に,この日もみごとな授業を展開されました。ありがたいことです。

 さて,この日の前半の授業のテーマは「戦争とはなにか」でした。すでに授業を聞いてから,相当に長い空白の時間が流れていましたので,ノートを見ながら,もう一度,ボイスレコーダーで講義を聞き直しました。聞きながらノートに「朱」を入れていきましたら,できあがったノートが真っ赤になっていました。ノートは二度とらなくては,まともなものにはならない,ということがよくわかりました。それほどに,N教授の講義内容の密度が濃いということです。

 このレポートも,ですから,講義の全体を要約するなどということはとても不可能なことを承知で書こうとしています。そこで困りはてていましたら,いいアイディアが生まれました。それはもう思い切ってN教授の講義内容を換骨奪胎して,わたしの考えたことにすり替えてしまう,という方法です。ここだけを聞くと,なんという身勝手な奴だ,とお叱りをうけるかもしれません。しかし,そうではありません。N教授の教えをそのまま実行すると,こういうレポートをこそ期待されているのではないか,とこれまたわたしの勝手な解釈です。

 この授業の冒頭で,N教授は,つぎのように切り出されました。
 社会のあらゆることがコンビニ化していて,いま,まさに,How to reduce the head (the brain).という時代に入ってしまっている。つまり,思考を放棄させる方向に,世の中全体が動いている。しかし,大学というところは,コンビニ化する社会に抗するために存在するのだ。だから,学生さんたちは講義ノートをとりなさい。そうして,考えるきっかけをつくりなさい。そこから自分なりの思考を練り上げていきなさい。わたしはそのための「肥やし」を提供する。そのつもりで,この授業に取り組んでいます。どんな話の断片からでもいい。そこを契機にして,自分の思考を鍛えることが大事です,と。

 ※(このことが,「思考停止」から脱出し,「自発的隷従」の姿勢を超克するための,つまりは,「自立」/「自律」するための唯一の方法です・・・これは,わたしの補注です。授業ではこのようなことばはありませんでしたが,これまでのN教授の著作やブログを読んできたわたしには,このような声も聞こえてきた,という次第です。)

 というわけですので,「戦争とはなにか」というこの日の,いつもにも増して熱の入ったN教授の講義を聞いて,わたしがもっとも深く思考したことの一部をここに書き記しておくことは,これこそがN教授のお考えに応答することだ,と考える次第です。

 それを,ひとことで言ってしまいますと「戦争とは,人間の全存在を懸けた<全体的体験>である」ということになります。この理解も,じつは,N教授がまだ若かりしころに,わたしに語ってくれたことの記憶にもとづく,わたしなりのまとめです。

 なにかの研究会(たぶん,わたしが主宰した研究会)の折に,N教授が,戦争の話をしてくださいました。それをひとことでいえば,戦争とは人間の<全体的体験>である,という結論を導き出されたように記憶しています。その結論に応答するようにして,わたしは,スポーツもまた人間の<全体的体験>だと考えていますが,その認識でいいでしょうか,と問いかけました。そのときのN教授の答えは,それはよく似ている部分がたくさんあるでしょうが,原理的に,そして,本質的に,戦争のもたらす<全体的体験>とはまったく別のものです,というものでした。わたしは納得ができなくて,さらに食い下がって,スポーツの場面で起こる<全体的体験>の事例をいくつも列挙して,とりわけ,人間が人間ではなくなる「エクスタシス」の話をもちだしました。それでも,N教授はにっこり笑って「とても近い,あるいは,疑似体験はいくつもあるでしょうが,そういうものを<全体的体験>とはいいません」というお話でした。

 それでもわたしは納得できなくて,その後もずっと考えつづけていました。N教授のいう<全体的体験>とはどういうことなのか,と。そして,戦争とはなにか,と。そうして,N教授の書かれた『夜の鼓動に触れる──戦争論』(東大出版会)や『戦争論』(岩波書店)や『<テロル>との戦争』(以文社)などの著作を読み漁りました。そうして,かなりのところまでは理解できるようになっていましたが,いまひとつ,もやっとしたものが残っていました。が,この日の講義を聞いて,それらがすべて木っ端みじんにすっ飛んでいき,こころの底から納得しました。まるで,青天の霹靂のような経験でした。そうか,戦争が導き出す,そして,有無を言わせず,否が応でも,人間が向き合わざるを得なくなる<全体的体験>の内実とは,こういうものだったのか,と。しかも,この日の講義の最後には,もっと驚くべき指摘がありました。もはや,その<全体的体験>すら意味をなさない,まったく異質の,あるいは次元の異なる≪戦争≫がすでにはじまっている,とN教授は指摘されたのです。その瞬間に,『<テロル>との戦争』のことが脳裏をよぎりました。

 これでわたしとしては,このレポートは終わりです。

 しかし,ここまで書いた以上,わたしが納得したことがらの,ほんのさわりの部分だけでも,講義内容の断片を列挙しておくべきかとおもいます。ことば足らずになることを覚悟の上で,ごく簡潔に書いておきますと以下のとおりです。

 如是我聞。

 〇戦争は定義できない。この講義の前提としては,近代の国家間の争いごと,と設定して論を立てている。もう少し大きくとらえるとすれば,人間の集団(政治的共同体)間の組織的な武力衝突,ということになる。
 〇戦争は,異常な状態,つまり,非常時であり,敵のモノを破壊し,ヒトを殺すことが最優先される。つまり,平常の「社会」や「文化」のあらゆる規範がすべて反故にされ,敵を殲滅するためのあらゆる手段が最優先される。
 〇戦争は万物の生みの親である(ギリシア)。人類の歴史は戦いの歴史であった。その結果がこんにちの文明社会を築いた(ヘーゲル)。
 〇戦争は,個に対する集団の圧倒的優位,そして圧倒的勝利をもたらす。これが戦争の特徴である。
 〇戦争は,集団を分断し,敵味方に分ける。そして,あらゆる個人は犠牲になる。つまり,敵を殺すことが最大の目的となる。そうして,個人の存在を無化する。
 〇戦争は,人間であることを排除しなくてはならない。すなわち,「人でなし」になることが必然化される。そこを通過することによって,人間は魔物にもなり,神にもなり,英雄にもなる。
 〇こうして神や英雄となった英霊は,あらたなる共同体の栄養剤となり,共同体を活性化させ,補強する役割をになうことになる。
 〇近代戦争は,20世紀で終わりを告げ,この20年ほどは戦争の名に値しないことが起きている。その内実は,単なる害虫駆除にも等しい。圧倒的な格差のもとでの,一方的殺戮が展開されている。
 〇戦争は,人間の力ではコントロールできない。しかも,その戦争は,ほんのちょっとしたきっかけ(事故のようなできごと,など)によってはじまる。はじまったらだれも止められない,それが戦争というものである。
 〇戦争は「起こるもの」であって,気づいたときにはみんな巻き込まれている。

 以上が,わたしのこころを大きく揺さぶり,戦争が人間の全存在を賭けた<全体的体験>である,ということを納得させた,おおよその概要です。実際には,N教授のこころの籠もった語り部のような,わかりやすい事例が,つぎからつぎへと展開し,上に書いたことがらに「肉付け」がされていきます。ですから,だれのこころにも深くN教授の思い入れが伝わってきます。

 ですから,この他にも,ここに書き記しておきたいことが山ほどありますが,とりあえずはこの程度にして,あとは禁欲しておくことにします。あとは,これからも書きつづけることになるであろうこのブログのための「肥やし」として,楽しみに残しておきたいとおもいます。

 取り急ぎ,今日のところは,ここまで。

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