2013年7月13日土曜日

『スポーツする文学』の批評性について。「スポーツする」文学なのか,それとも,スポーツする「文学」なのか。

 7月1日のブログ「『スポーツする文学』(疋田,日高,日比編著,青弓社)をどう読んだか」の末尾に,このテクストのもつ「批評性」について,のちほど考えてみたいと書き込んでおきました。その約束をこれからはたしてみたいと思います。

 ひとくちに「批評」といってもさまざまな立場があり,そんなに単純な世界ではないということは承知しているつもりです。しかし,その根源には思想,信条,哲学,宗教,などが渾然一体となった個々人の世界観なり人間観がある,と考えています。そして,そのレベルや是非論はともかくとして,そこから対象をみつめたときになにが写し出されてくるのか,それをどのように受け止め,論評するのか,これが一般的に考えられる「批評」のひとつの流れなのだろう,とも考えています。別の言い方をすれば,批評者は批評をとおしてみずからの裸体を曝け出す営みでもある,と。

 文学そのものはわたしの専門ではありませんが,以前,20年以上もの長期にわたってある雑誌(『月刊体育施設』,現在は『SF─スポーツ・ファシリティ』)に「文学にみるスポーツ」という連載をやっていた関係で,かなりの文学作品を読み込んだ経験があります。これらの連載は編集しなおして,何冊かの単行本にもなっています。その中の一冊は『日本文学のなかにスポーツ文化を読む』(叢文社)というものです。ですので,このテクスト『スポーツする文学』は,わたしにとっては以前から気になっていたもののひとつでした。それが,今回,直接,編著者と膝付き合わせてお話ができるというので,とても楽しみにしていた次第です。

 それと,もう一点だけ,文学批評ということで触れて置かなくてはならないことがあります。さきほどの雑誌連載中にも,かなり多くの文学批評に関する論考を読み漁りました。が,その中でもっとも強烈にわたしのこころを打った文学批評は,ジョルジュ・バタイユの『文学と悪』でした。この作品をどのように読んだか,ということについてもこのブログの中で書いていますので,検索してみてください。一口で言ってしまえば,バタイユが全体重をかけてそれぞれの作家・作品と対峙し,バタイユの思想・哲学の深奥で真剣勝負をしている,ということです。そして,これが「批評」というものなのだ,とわたしは深く納得しています。

 そういうこともあって,わたしは『スポーツする文学』というタイトルをみた瞬間に,まずは,つぎの二つのことが脳裏をよぎりました。ひとつは,「スポーツする」文学を研究対象にしているのか,あるいはもうひとつの,スポーツする「文学」に研究対象が置かれているのか,という点です。

 前者の「スポーツする」文学を研究対象とするのであれば,わたしが長年取り組んできた「文学にみるスポーツ」「文学作品のなかにスポーツ文化を読む」という営みとほとんど重なってくるのではないか,と考えました。もう少し踏み込んでおきますと,「スポーツする」文学とは,わたしの場合,「スポーツする」ことによって生まれるスポーツの熱狂や人間の葛藤などを文学作品のメイン・テーマとしている文学を意味します。しかし,そんな作品は厳密に言うとほんのわずかしかありませんので,もう少し枠組みを広げて,文学作品のなかに「スポーツする」情景が取り込まれている文学もこのなかに含むことにしています。ですから,ここでは「スポーツする」営みがどのように文学作品のなかに取り込まれ,描かれているのか,が考察の対象となります。もちろん,そこからさきの分析はスポーツ史やスポーツ文化論の,きわめて専門的な見識が強力な武器になってきます。わたしの職務はここにある,とずっと考えながら「文学にみるスポーツ」の連載をやっていました。

 もうひとつのわたしの関心事は,スポーツする「文学」,という発想にあります。つまり,「文学」がスポーツする,とどうなるのか,ということです。この発想はわたしのくたばってきた脳の皮を引っぱがすほどの,めくるめくような,新鮮な響きとともにあるなにかをわたしに訴えかけてきました。なぜなら,「文学」(とりわけ,小説の時代は終ったとする大江健三郎の主張や筒井康隆の主張など)がある限界に達しつつあるという危機意識のようなものが感じ取られていて,それを打破して新たな「文学」の地平を切り開いていくには「スポーツする」しかない,と編著者たちが考えているとしたら,これは凄いことだ,と考えたからです。つまり,「文学」に「スポーツする」という補助線を一本引くことによって,これまでにないまったく新しい「文学」の可能性がそのさきに待っている,とわたしは考えたからです。

 もし,編著者たちがここまで考えてこのテクストを編んだとしたら,では,そこで考えられている「スポーツとはなにか」という根源的な問いが立ち現れてきます。つまり,「スポーツ」を世間一般に理解されているような近代スポーツ競技という枠組みのなかでのみ考えるのか,そうではなくて,近代スポーツ競技というような近代的なシステムの枠組みからはこぼれ落ちてしまうような広義の「スポーツ文化」にまで広げて考えるのか,さらには,スポーツの「始原」をたどりながら,そこで「生成・変化」していくスポーツの「原初形態」にまで思考を広げていくのか,すなわち,生きる人間にとってスポーツとはなにか,という大問題にまで触手を伸ばそうとしているのか,ということです。ここまで思考の枠組みを広げていって,「スポーツする文学」を考えているとしたら,それはまさに「文学」のまったく新しいスタイルの誕生を意味することになるし,そこに向けて誘うような論考が展開されているとしたら,それこそ,わたしの考える「批評」のUrformenのひとつをみることになります。

 そんな意気込みで,このテクストを再読してみました。が,残念ながら,このような意図はわたしには感じ取れませんでした。だとすると,このテクストに秘められた「企み」はなにであったのか,編著者の人たちの意見・お考えをとことん聞いてみたい,という強い衝動に駆られています。もし,チャンスがあれば・・・・。

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