2013年8月7日水曜日

鳥見長髄彦(とみのながすねひこ)の事跡を尋ねる旅へ。まずは菅原天満宮から。(出雲幻視考・その6.)

 毎年8月には,奈良教育大学時代の教え子が集まる会があり,それを楽しみにいそいそとでかけることにしています。1月の山焼きの日と8月の年2回は,奈良に帰る約束になっています。これまでも,かなりまじめに出席させてもらっています。

 ことしは8月9日の夕刻に集まるということですので,一日前の8日に出発して,三日間,奈良の古代史にまつわるフィールド・ワークをしてこようと考えています。数日前から,そのための下調べにとりかかっていますが,なかなかはかどりません。今日になって,ようやく,初日のプランのイメージができあがってきました。

 幸いなことにわたしが頼りにしている奈良在住のT君が車を出して案内してくれることになっていますので,少しばかり欲張ってみようかという次第です。

 まずは,西大寺駅を振り出しにして,すぐ近くにある菅原天満宮から。断るまでもなく,ここは菅原道真生誕の地。代々,優れた学者を輩出した菅家の拠点となったところです。このあたり一帯は,そのむかし菅原・伏見という地名で呼ばれていたところで,いまも菅原町,伏見町という地名が残っています。この菅原・伏見の土地は,そのむかし垂仁天皇に仕えた野見宿禰が拝領した土地です。そして,この土地に移り住むことになった野見一族はこの機会をとらえて,野見姓を捨てて,菅原姓を名乗ることになります。その末裔に菅原道真が登場するという次第です。

 この菅原・伏見のなだらかな丘陵地帯に垂仁天皇の立派な前方後円墳があるのも故なしとしないとわたしは考えています。奈良の西大寺から南に下って,唐招提寺や薬師寺のある少し手前の右手にあって,電車からも眺めることができます。野見宿禰一族がこの墳墓を守ったことは間違いないでしょう。そして,いまさら断るまでもなく,野見宿禰は「出雲の人」です。すなわち,オオクニヌシの「国譲り」のあと,出雲族としては最初に歴史上に名を残した人が野見宿禰というわけです。

 しかし,この野見宿禰の出自については,なんの記録も残っていません。とつぜん,当麻蹴速との決闘の相手として垂仁天皇によっ召し出されるだけで,それ以前のことはなにもわかりません。それ以後も,学者となった菅原一族のことは比較的よく知られていますが,土師氏として,あるいは,奴婢として,あるいはまた,無名の人非人や河童として,全国に散っていった野見宿禰一族の末裔のことは,ほとんどなにもわかっていません。

 このことと,もうひとつの疑問である長髄彦(ながすねひこ)の子孫が,神武天皇との戦いのあと,どのような命運をたどったのか,こちらも記録がなにもありません。が,相当に大きな勢力であったことはたしかです。おそらくは,その子孫は大和朝廷の眼を逃れて,これまた全国に散っていったことは容易に推測することができます。

 この長髄彦の拠点であったところが,菅原・伏見の西側の丘陵地帯でした。地理的にいえば,富雄川に沿って大和から難波に抜けるためのむかしの幹線道路である磐船街道がとおっています。そして,この幹線道路の要所を押さえていた豪族が長髄彦だと考えられています。その痕跡を残すかのようにこの長髄彦にゆかりのある神社が,この磐船街道沿いに三つ残っています。この地域一帯は鳥見(とみ,あるいは,とりみ),登美,冨,富雄,と呼ばれていました。いまでも,これらの文字を用いた地名が残っていて,町名や字や学校名としてたくさん用いられています。ですから,長髄彦はトミノナガスネヒコと呼ばれていて,表記する文字も文献によってさまざまです。

 すでに述べたように,この長髄彦にまつわる重要な神社が,この磐船街道(つまり,富雄川沿い)に三カ所あります。それぞれ上鳥見,中鳥見,下鳥見と呼ばれ,そこには,それぞれ伊〇諾(いざなぎ)神社,添御県坐(そうのみあがたいます)神社,登弥(とみ)神社があります(この「登弥」の表記は初見です)。この富雄川を遡っていった最上流に,磐船神社があります。ここがニギハヤヒノミコトの祀られている神社です。しかも,このニギハヤヒノミコトが,長髄彦が仕えた天神(天下った神)であり,神武天皇といっときは対峙しますが,のちに国を譲り渡してしまいます。「国譲り神話」の実態は,どうやらこのあたりの話がもとになっているのではないか,とわたしは勝手に推測しています。

 となりますと,長髄彦とはいかなる人物であったのか。そして,この子孫はどうなったのか。なぜなら,ニギハヤヒノミコトの子孫は,海部氏となり,物部氏となり,という具合にその名を残すことになります。が,長髄彦の系譜は,なにも語られなくなってしまいます。やはり,神武天皇に最後まで抵抗したことが,のちの子孫のあり方に大きく影響したのでしょうか。

 最近になって,われわれはこの長髄彦の子孫だという話を祖父から聞いた,という人に出会いました。やはり,秘伝として言い伝えられているようで,滅多なことでは口外できないことだ,とも聞いています。しかも,この話をしてくれた人は,わたしの生い立ちとも無関係ではありません。となりますと,この長髄彦の存在が,急に身近な存在に思えてきて,ますます興味が湧いてくるという次第です。しかも,この問題は,大和朝廷が成立するときの,きわめて重要な,根幹にかかわる問題を内包しています。言ってしまえば,歴史のひかりとかげの問題です。

 ここでは,充分に議論を展開することはできませんでしたが,このニギハヤヒノミコトも長髄彦も,じつは出雲族と深い関係がある,あるいは,同族である,という説を立てている人がいます。詳しくは,村井康彦著『出雲と大和』(岩波新書)をご覧ください。ことしの3月に刊行された名著だとわたしはおもっています。

 まずは,この本を片手にもって,8日からのフィールド・ワークを楽しんできたいとおもっています。
もちろん,ここに書けなかったところにも足を運ぶ予定です。また,なにか新しい収穫がありましたら,このブログで報告をしたいとおもいます。

 というところで,今日はここまで。



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