2013年9月29日日曜日

フロイトとユングの関係をテニスにたとえると・・・? フロイトの手紙より。

 9月26日のブログで紹介しました『フロイトの「セックス・テニス」──性衝動とスポーツ』(青土社)のなかに,つぎのようなフロイトの手紙が紹介されています。

 私は常に「道徳こそ自明の理」という優れた格言に従う道徳的な人間であると,あなたに言っておかねばなりません。正義感と他人への配慮,人を苦しめたり利用したりすることに対して感ずる嫌悪感に関して,私の右に出る者はいないと思っています。未だかつて意地悪や悪意ある行為をしたことはないし,しようと考えたこともありません。ただ一つの例外は,私がネット際でスマッシュチャンスを得た時,いつもユングの奴にスマッシュを食らわしてやるんだと思うことです。もちろんそれには明らかな理由があるわけですが・・・・。
      ──ジェームス・J・パットナムへの手紙 1914年

 このページの左側のページにはテニス姿のカール・ユングを中心に5人の紳士の写真が掲載されていて,しかも,以下のようなキャプションがついています。

 カール・ユングをキャプテンとする
 ひとりよがりのチューリッヒ派遣団が,
 ウィーン協会とのテニス果たし合いを待っているところ   1911年

 さて,この手紙と写真をどのように読み解くか,それが今日のブログの主題です。
 

 まずは,手紙が書かれた1914年という年号と,写真のキャプションの最後に書き込まれている1911年という年号がここでは重要です。フロイトとユングの蜜月は1913年まではつづいていたと言われています。1911年といえば,ユングはフロイトの推薦で初代の国際精神分析学会会長に就任した年でもあります。その年に,写真のキャプションにあるような「テニス果たし合い」が実際に行われたとすれば,「ひとりよがりのチューリッヒ派遣団」という表現との齟齬が,いったいなにを意味しているのか,気になります。

 ほかのページの写真のキャプションなどを比較してみますと,写真を探してきたのも,それにキャプションをつけたのも,このテクストの編者テオドール・サレツキーの手になるものではないか,と推測することができます。だとしますと,編者のサレツキーはいささか思考が乱れているのではないか,と思われます。そのポイントは,簡単に言ってしまえば,「ひとりよがりの」と「果たし合い」という用語の齟齬にあります。

 1911年は,フロイトとユングは蜜月関係にありますので,このようなテニスによる交流会が行われていたとしてもなんの不思議もありません。ですから,「果たし合い」という表現もきわめて妥当です。この「果たし合い」は険悪な関係を意味しているのではなく,この当時のテニス試合の手続きにしたがった表現にすぎません。といいますのは,親しい関係のある相手チームのキャプテンに向けて,試合を希望するチームのキャプテンは,まずは「果たし状」を書いて,試合の申し入れをします。一般的に,この「果たし状」にはきわめて文学的な表現が用いられていて,教養のレベルを誇示する装置になっています。それに対して,みごとな詩文で応答したときに,初めて試合が成立します。この「果たし状」は,場合によっては,何回もやりとりをした上で,ようやく試合にいたるということも少なくなかったようです。

 ということは,このときの試合は「チューリッヒ派遣団」がウィーンに乗り込んできたようですので,
ユングがフロイトに「果たし状」を書いて,それにフロイトが応答した,という経緯があったと考えてよいでしょう。つまり,この両者は,間違いなく蜜月関係にあった,という次第です。しかし,そこで気になるのは「ひとりよがりの」という形容句です。

 「ひとりよがりの」という言い方は,のちのフロイトとユングの離別を予見したものなのか,あるいは,このときすでに「ひとりよがり」な傾向がユングには表れていた,ということなのでしょうか。少なくとも,1914年には「犬猿の仲」になってしまっていたことが,フロイトの手紙に残されています。「奴(ユング)にスマッシュを食らわしてやるんだ」という敵愾心むき出しの表現にはいささか驚きを禁じ得ません。が,それほどに深い溝ができてしまうほどの離別だったことを,わたしは注目したいと思います。

 その決別の原因が,フロイトの「性愛理論」や「エディプス・コンプレックス」の定式化を,ユングが反対したことにあった,ということに注目しておきたいと思います。そして,以後,フロイトはユングを頂点とする国際精神分析学会の進む「精神分析」の傾向にことごとく批判を浴びせていきます。そして,その傾向をユングの「ひとりよがり」,すなわち,ユングの独断と偏見によるものだ,と断定しています。

 この傾向を,編者が,この写真のキャプションに利用したのではないか,というのがわたしの推理です。とりあえず,このテクストに対するクリティークの第一弾まで。

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