2013年10月27日日曜日

R.ボーデの「表出体操」(Ausdrucksgymnastik )とL.クラーゲスの「リズムの本質」との関係についての論文を読む。西田幾多郎の「純粋経験」に通底するなにかが?

 ある周期で,学会誌の投稿論文の査読という仕事がまわってくる。できることなら断りたいが,長年,お世話になった学会には恩返しの気持もあってできるだけ引き受けることにしている。しかし,引き受けた論文の大半は,とても「疲れる」。なぜなら,掲載可能な論文に引き上げるための問題の指摘は,とてもつもない労力を必要とするからだ。その代わりにいい論文に出会うと,だれよりも早く読ませていただいたことを感謝して,こちらから謝金を払いたいくらいの気持になる。

 今回は,久しぶりにいい論文に出会った。だから,嬉しくなって急いでブログに書いておこうと思い立つ。論文の内容は,1910年代のドイツで起きた「体操改革運動」(Neue Gymnastikbewegung )に関するもので,これまでほとんど明らかにされてこなかった論考である。専門的な細かなことは省略することにして,問題の核心だけは明らかにしておきたい。

 号令の掛け声のもとで行われる,事物と化してしまった機械的な体操を徹底的に批判し,その体操に魂(命)を吹き込んで,真の人間のための体操を実現すべきだ,と主張したルドルフ・ボーデ(Rudolf Bode,1881-1970)の「表出体操」とはいったいなにであったのか,と問いかけた気合の論文である。その補助線の一つとして,ルードヴィッヒ・クラーゲス(Ludwig Klages 1872-1956)の「リズムの本質」を取り上げ,その関係を明らかにし,ボーデの体操にとって「リズム」とはなにであったのかを,深く掘り下げて考察した秀逸の論文である。

 わたしはこの論文を読みながら,いろいろのことを連想し,体操の世界の奥の深さを思いやりながら,至福のときを過ごさせてもらった。たとえば,こうだ。ボーデは腕の振り(Schwung)の運動にリズムの典型的な表出があると主張し,体操運動のリズムの基本は緊張と弛緩の繰り返しにあると考え,それこそが生命のリズムであると考えた。そして,それを実践するための体操学校をはじめていた。ちょうどそのころに,ボーデはクラーゲスと運命的な出会いをする。クラーゲスの「リズムの本質」についての論考を知り,直接,会って教えを請うことになる。ボーデが求めていた哲学的なバックグラウンドが,クラーゲスの「リズムの本質」という考え方のなかにあることを見届け,以後,迷うことなく「リズム体操」から「表出体操」へとさらにその理論と実践を深めていく。

 クラーゲスは断るまでもなく当時の「生の哲学」(Lebensphylosophie)の流れに乗る論客のひとりであった。生の哲学といえば,ニーチェやベルグソン,ディルタイ,シェーラーらの名前が浮かんでくるように,ヘーゲルを筆頭とする合理主義や主知主義に対抗し,「体験としての生」を重視し,それをトータルにとらえようとする立場をとる。もっと分かりやすくいえば,ヘーゲルの「精神」(Geist , 知的精神,あるいは理性)を軸にして人間をとらえようとする立場に対して,クラーゲスらは「魂」(Seele)に思考の軸を置き,その活性化を重視する。

 ボーデはこうしたクラーゲスの主張にこころから共鳴し,それを体操の世界で実現しようと情熱を傾けた。それがボーデの「表出体操」(Ausdrucksgymnastik)として結実した。それは,かんたんに言ってしまえば,頭で考えて行う体操ではなく,魂や情動のおもむくままにからだに「表出」してくる「体操」を体系化しようというものである。

 このさきの話は長くなるので,圧縮しておくと以下のようになる。
 頭で考える前に動きはじめるからだを重視する,この考え方は「純粋経験」と呼ばれるもので,まさに,ベルグソンやW.ジェームズや西田幾多郎らの哲学の基本概念である。すなわち,主観も客観もない,それ以前の「直接的な経験」である。この考え方は,西田幾多郎によって,さらに深められ「行為的直観」として体系化されていく。気がついたときにはからだが動いている,という次元の話である。

 そこが,じつは,人間が存在する,あるいは,人間が生きることの源泉ではないか,と「生の哲学」者たちは考える。つまり,自他の区別のない状態,自他を超越した存在,あるいは,エクスターズ(ジョルジュ・バタイユ)する存在,あるいはまた,禅仏教のいう悟りの境地,などへとつながっていく。この世界は,トップ・アスリートたちもしばしば経験する,という。ドイツの哲学者ハンス・レンク(オリンピック・ローマ大会の金メダリストでもある)もみずからのフロー体験を語っている。

 ボーデの「表出体操」について,ここまで触手を伸ばした論考を,わたしは管見ながらまだ出会ったことがない。今回,読ませていただいた論文の著者は,クラーゲスとボーデとの関係に着目した以上は,このさきは「生の哲学」(Lebensphylosophie )との関連に踏み込んでいくに違いない。そうしたときに,ボーデの「表出体操」が,単なる「表現体操」ではない(ドイツ語では同じ表記となる)ということの根拠を明確に提示することができるようになるのだろうと思う。

 いい論文を読ませていただいたあとは爽快な気分である。今夜は熟睡できそうだ。論文の著者に感謝である。この論文が学会誌に掲載されることをいまから楽しみにしている。おわり。
 

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