2013年11月10日日曜日

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著『自発的隷従論』(西谷修監修,山上浩嗣訳,ちくま学芸文庫,2013年11月刊),名著です。お薦め。

 11月8日に発売,と西谷さんから聞いていましたので,8日に近くの本屋さんに行きました。溝の口の地方の本屋さんでしたが,たった1冊だけ置いてありました。ラッキーとばかりに即購入。

 まだ,現段階では全部を読み切っているわけではないのに,ここで書くのは気が引けますが,そんなことは言ってられないほどの衝撃を受けましたので,ありのままの感想を中間報告として,とりあえず,ここに書いておきたいとおもいます。

 いま,感じていることを,できるだけ正直にそのまま書いておきたいとおもいます。
 いつものように,まずは,西谷修さんの「解説」から読み始めました。なぜなら,本の内容の核心がどこにあるのかを,西谷さんは,いつもわかりやすく,しかも手抜きすることなく,深いところまで道案内をしてくださるからです。そして,いつも大満足する内容になっています。場合によっては,内容を読まなくても,なんだか全部わかったような気分にさせてくださるからです。

 しかし,今回のこのテクストでの解説は,わたしの想定をはるかに超える,とんでもない内容になっていて,鳥肌が立つ思いをしながら読みつづけました。そして読み終わったときには,あまりの衝撃の強さに唖然としてしまい,完全に「震撼」してしまいました。なぜなら,「自発的隷従」とは,なんのことはない,わたしのこれまでの生き方そのものではないか,と思い知らされたからです。情けないことにそう思わざるを得ませんでした。時折,偉そうに,さも権力に抗うようなポーズをとったり,人前で挑発するような言説を発してみたり,そして,ときにはデモにもでかけたりしているものの,なんのことはない最終的にはわが身可愛さに「自発的隷従」に逃げ込んでいることに気づかされたからです。そして,最終的には,つまり,トータルでみたときには,現体制支持とみなされても仕方がないではないか,と気づかされたからです。

 毎日,新聞を読みながら,文句たらたら,政府自民党はなにをやっておるか,と吼えまくり,テレビのニュースをみながら,これまた吼えまくっています。なのに,なにをやっているかと問われれば,せいぜい,このブログで憂さを晴らしている程度のことでしかありません。つまりは,自己満足にすぎません。ということは,現体制を支持していることとほとんどなにも変わってはいないではないか,ということになります。そのことを,西谷さんの「解説」を読んでいて,冷や汗たらたら,いやというほど思い知らされました。

 「自発的隷従」。これまでに,西谷修さんの書かれた論文のなかにしばしば登場してきたことばですし,西谷さんから直接,エティエンヌ・ド・ラ・ボエシについてもお話を聞いていました。ですから,ほとんどわかったつもりでいました。が,それは大間違いであることを,今回,この「解説」を読んで思い知らされました。

 それによれば以下のとおりです。
 一人の独裁者は,その一人の力によってそれ以外の人びとを支配しているわけではありません。一人の独裁者が選ばれると,その独裁者ににじり寄って,その利益のおこぼれを頂戴しようという人間が現れます。これが「自発的隷従」のはじまりです。つまり,一人の独裁者のまわりに,われもわれもとその利益を分けてもらおうという人間がにじり寄ってきます。そして,独裁者が喜びそうな言動をふりまき,実行します。そうして,独裁者の覚えめでたくなるためにはいかなることも辞さずという姿勢を示します。これが「自発的隷従」のはじまりです。

 こうして,一人の独裁者を支える地位を確保すると,そのまた部下になるための「自発的隷従」者が現れ,つぎつぎにその連鎖が広がっていきます。こうして,一人の独裁者のまわりには,その支持者たちが大勢集まってきて,それらが大きな組織を構成します。この組織が,実は,大きな力を発揮することになります。権力はこうして構築されていく,というわけです。

 ああ,もどかしいかぎり。どうも,うまく説明できません。こうなったら,西谷さんの「解説」から,名文を引いた方が早いとおもいますので,その部分を引いておきます。

 「一人の支配者は独力でその支配を維持しているのではない。一者のまわりには何人かの追従者がおり,かれらは支配者に気に入れれることで圧政に与(あずか)り,その体制のなかで地位を確保しながら圧政のおこぼれでみずからの利益を得ている。そのためにかれらはすすんで圧政を支える。かれらの下にはまたそれぞれ何人かの隷従者がいて同じように振る舞い,さらにその下にはまた何人かの・・・,という具合に,自ら進んで隷従することで圧政から利益を得る者たちの末広がりに拡大する連鎖がある。その連鎖が,脆弱なはずの一者の支配を支えて不動の体制を作り出している。そう見てとって,圧政を支えるその鎖の一つひとつのあり様をラ・ボエシは「自発的隷従」と呼ぶのである。」

 このあとに,驚くべき論の展開が,つまり,西谷読解が,めくるめくほどの勢いで深化し,問題の本質に迫っていきます。そうして,その論の運びに,わたしは完全に「震撼」させられてしまいました。それは,わたしが批判してやまない世の中の構造が,じつは,わたし自身のなかにも立派に存在しているではないか,ということを知らされてしまうからです。「自発的隷従」とは,一人ひとりの人間の存在様態の根源にまで根が降りていく,つまり動物的な防衛本能にも通底する,恐るべき概念装置であるからです。とても一筋縄ではいかない,思想・哲学的な大問題がその背後にあることを知ったとき,わたしは立ち往生してしまいました。

 西谷さんの「解説」はもののみごとにその根底にまで触手が伸びていきます。それが,わたしを「震撼」させる理由です。そのあたりのことは,ぜひ,手にとって西谷さんの「解説」を確認してみてください。

 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」はそんなに長い論文ではありません。しかも,とてもわかりやすい文章です。が,その本文に膨大な訳者注がついています。それをとおして,さらにこの論文が一筋縄ではないことを知ることができます。そして,訳者による懇切丁寧な「解題」があります。さらに,「付論」があって,そこにはシモーヌ・ヴェイユの「服従と自由についての省察」と,ピエール・クラストルの「自由,災難,名づけえぬ存在」が収められています。しかも,「付論収録に寄せて」という西谷さんの短い文章があります。そこには,エティエンヌ・ド・ラ・ボエシとシモーヌ・ヴェイユとの関係,ピエール・クラストルとの接点が語られています。

 もう,これ以上のことは書く必要はないとおもいます。あとは,どうぞ,手にとって読んでみてください。世の中がひっくり返るほどの,新しい発見が随所にあるはずです。わたしも,これから時間をかけて精読してみたいと思っています。そして,いつか,これをテクストにして,いつもの研究者仲間と議論をしてみたいとおもっています。もちろん,西谷さんにもきていただいて・・・・。

 というところで,今日はここまで。
 

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