2013年12月27日金曜日

長松禅寺の奇祭「どんき」。神仏混淆時代の名残りか。穂国(ほのくに)の匂いも。

 ことしも友人の柴田晴廣(『穂国幻史考』の著者)さんから,たくさんのお祭りの写真を送ってもらいました。「穂国」(ほのくに)は愛知県三河地方の古称。どうやら「瑞穂国」の由来とつながっているらしいのです。つまり,日本の古代史にかかわるきわめて重要な根っこのひとつが,穂国・三河にある,というわけです。そのことは柴田さんの主著である『穂国幻史考』で詳細に論じられています。それを読むと,三河で育ったわたしには,そこはかとなく日本古代のロマンが伝わってきます。柴田さんももちろん穂国に生まれ育った人で,穂国の主のような住人です。

 その柴田さんが,四季折々に催される穂国の各地のお祭りを,毎年,欠かさずフィールドワークされていて,そのときに撮影された写真のおこぼれをわたしが頂戴している,という次第です。

 今回は,その一部を紹介してみたいと思います。
 表題にも書きましたように,長松禅寺(愛知県豊川市御津町の下佐脇)に伝わる奇祭・どんきについてです。残念ながら,わたし自身はまだ見たことのない祭りです。もっぱら,柴田さんの写真から想像力をたくましくして,あれこれ考えていました。が,柴田さんはこの「どんき」という祭りをビデオ映像でみることができる,その方法も教えてくれました。


 それは「こちら三河放送局」(http://allmikawa.tv)でした。早速,開いてみましたら,いくつものヴァージョンの映像(ここ数年の祭りの映像)をみることができ,この祭りの雰囲気もとてもよくわかりました。とても面白い祭りですので,ぜひ,ご覧になってみてください。

 まつりの概要をごくかんたんに紹介しておきますと,以下のとおりです。
 「どんき」とは秋葉祭のことで,火防(ひぶせ)のお祭りです。もともとは「どんき」とは撞木(しゅもく)のことで,この祭りに登場する狐(3),天狗(赤,青)がこの撞木に紅ガラを塗って,それを子どもたちの顔に塗りつけるのです。紅ガラを塗られた子どもは無病息災で,丈夫な子に育つというわけです。それでも,狐や天狗が塗るわけですので,小さな子どもたちは逃げ回ります。その手にもつ撞木(紅ガラ)が主役です。この撞木がいつしか「どんき」と呼ばれるようになったというのです。12月の第三日曜日にこの祭りが行われるようです。



 じつは,この祭りの行われる寺や下佐脇という場所には,わたしのごく個人的なわけありの事情があって,とりわけ興味をもったという次第です。

 わけあり,などと意味深なことを書いてしまいましたが,きわめて個人的なわたしにとってのわけありであって,それ以外には他意はありません。

 一つは,長松禅寺,通称・長松寺という名前です。といいますのは,わたしの育った寺の名前は長松院。場所もそんなに遠くはありません。しかも禅宗ですので,同系です。が,それ以上のなにかがあるということは聞いたことがありません。が,わたしにとっては他人事ではありません。なにかつながりがあるに違いありません。調べれば,なにかわかってくるのではないか,とひそかに期待しています。が,いまは,なにもわかってはいません。

 二つには,この寺のある下佐脇という集落は,わたしの祖母の出たところです。いまも,この集落には親戚の家があります。が,子どものころに母に連れられて一度だけ行った記憶はありますが,いまは親戚づきあいはありません。ですので,尋ねて行って名乗りをあげれば,わかってもらえるとは思いますが・・・・。もう,直接,会った記憶のある人はだれもいません。が,そんなところにこんな珍しいお祭りが伝承されているというのですから,やはり,他人事ではありません。

 三つには,この寺に伝わっている奇祭・どんきは,火防(火伏せ)の祭りで秋葉祭りと呼ばれているということです。ということは,秋葉神社(静岡県周智郡春野町)の祭りということになります。秋葉神社といえば,火難よけ(火伏せ)の信仰と火祭りで有名です。この地方には,むかしから「秋葉さん」と親しまれていて,村の代表者が秋葉神社に代参に行き,御札(火伏せのお守り)をもらってきてくばる,という習俗がありました。そして,どこの家にもかまどがありましたから,その近くの壁や柱に張って,一年間の火伏せを祈っていました。わたしが子どものころには,間違いなく張ってありました。いまは,かまどがなくなってしまったでしょうから,どうなったかは知りません。
 これは,わたしの想像ですが,どんき(撞木)のさきに紅ガラ(赤)を塗ってあるのは,おそらく火祭りの「たいまつ」の代わりではないかと思います。そのどんきを狐や天狗が手に持って,子どもたちを追いかけるのですから,少し考えてみれば奇怪しな話ではあります。とりわけ,狐がたいまつを手に持つわけがありません。が,そこはあまり厳密に考えない方がいいでしょう。秋葉さんと狐や天狗はなんの関係もないと思います。狐は豊川稲荷が近くにありますし,天狗も修験道場がむかしはあったと聞いていますので,そういうものとの習合によるものだと思います。
 寺も神社もお稲荷さんも修験道も,ありがたいものはなんでもござれの神仏混淆時代の残滓が,いまもこの長松寺で伝承されていることに意味があると思います。近代合理主義の世界に生きているわたしたちからすると,まことに矛盾だらけの,奇怪しな話に聞こえるかもしれません。しかし,わたしのような考え方をする人間にとっては,むしろ,この方がいかにも日本人らしい伝統的な生き方ではないか,と嬉しくなってしまいます。

 四つには,この寺のある下佐脇から西に少し歩けば三河湾があり,その海岸は,そのむかし持統天皇が伊勢からわたってきて上陸したところだといわれています(このあたりのことは,柴田さんの『穂国幻史考』に詳しい)。いまはすっかり埋め立てられてしまって様変わりをしてしまいましたが,わたしが子どものころには,御馬(おうま)の海岸と呼ばれ,松林が並び,別荘があって,海水浴場としても知られていました。この御馬という地名のところに引馬神社があります。なぜ,馬なのか,というのがわたしの頭のなかをよぎります。この話は長くなってしまいますので,残念ながらここは割愛。持統天皇つながりで触れておきたいことは,この下佐脇から海岸沿いに西北に行けば,額田郡があります。額田王のゆかりの土地だとも聞いています。持統天皇ときて,額田王と並べると,そこはもはや天武天皇の時代のあの謎に満ちた,怪しげな時代の匂いがぷんぷんとします。おまけに,この地方には小便をすることを「まる」(放る)という雅びなことばが,いまも用いられています。

 というあたりで,このブログは終わりにしておきます。じつは,ここまで書いたらもっと書いておきたいことが山ほどでてきました。いつか,このつづきを書くことにして,今日のところはここまでとします。
 

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