2013年12月30日月曜日

父猿之助との葛藤を乗り越え,中車を襲名した香川昭之に期待大。芸能の底力に触れる。

 29日,遅い朝食をとっていたら,NHKテレビが再放送のいい番組をやっていた。NHKスペシャル・密着300日,歌舞伎に挑む香川昭之,父・猿翁の秘めた思い。

 すでに俳優としての地位を確立していた香川昭之が,あえて歌舞伎俳優となる決意をしてから,中車を襲名するまでの300日を追ったドキュメンタリー。その迫力ある内容に触れ,久しぶりに鳥肌が立った。なにに? 歌舞伎という芸能のすさまじさに。親子の縁も断ち切ってしまうほどの「魔力」が歌舞伎の世界には生きているということに。そのことを充分に承知の上で,あえて挑戦しようという香川昭之に。最初から最後まで,ピーンと張りつめた空気が流れている。

 香川の父・猿翁は先代の猿之助。母は女優の浜木綿子。香川が生まれてまもなく両親は離縁。それも,父の芸能魂に火がついた,というただそれだけの理由。ひとしなみの家庭を営み,家族の愛情にひたることが芸能の道の支障となる,と。そう考えて親子の縁を切る。以後,一度もこの親子は対面していない。香川が成人してから父を尋ねていくと,父は冷たく「あなたとはなんの関わりもありません。父でも子でもありません。もう,二度と尋ねてくるな」と追い返してしまう。

 以後,香川は父の本心がどこにあるのか,と考えつづける。香川は母・浜木綿子に育てられ,東大を卒業した俊才である。父にも人間としてのやさしい心がどこかにあるはずだ。にもかかわらず,その心をあえて押し殺して生きる道を選んだのはなぜか,その理由が知りたい,と。でも,父は会ってはくれない。

 父・猿之助(離縁当時)は,歌舞伎界の常識を破る新たな挑戦をつぎつぎに繰り広げる。世にいう「スーパー歌舞伎」だ。意表をつく「早変わり」「宙づり」,斬新な「隈取り」など,つぎつぎに「新工夫」を繰り出す。当時の歌舞伎界では異端児として扱われ,批難ごうごうだった。それでも猿之助の芝居は面白い。人のこころを虜にしてしまう,そんな魅力があった。ヨーロッパ遠征でも大成功し,ようやく歌舞伎界でもその存在を大きく認めざるをえなくなる。

 40歳を過ぎた香川がふたたび父との接触をはかる。しかし,会ってはもらえない。が,その父が脳梗塞で倒れ,猿之助の芸名が甥の市川亀次郎に引き継がれることになる。そのころから,父の態度に変化が表れる。親子の接触が少しずつ可能となり,ついに,香川は父に歌舞伎の世界への入門を申し出る。そして,弟子入りをはたす。40歳台半ばをすぎてからの歌舞伎界への転身である。異例のできごとである。

 父はリハビリに励む。香川は異例の「中車」襲名のための稽古に入る。からだの自由を奪われ,言語の障害も残る父の前にひれ伏して,渾身の稽古を重ねる。父も香川の一挙手一投足を眼光鋭くみつめながら,ことこまかな注意を与え,何回も何回も繰り返させる。それに応えて,必死の形相で台詞回しの稽古をつづける。汗まみれの顔なのか,涙にくれる顔なのか,その区別さえつかないほどの全身全霊をこめた稽古ぶりに,わたしはいたく感動した。いまどき,どの芸能の世界で,これほどの厳しい稽古が行われているだろうか。一対一の真剣勝負だ。いわゆる「面授」。

 こうして香川の芸能魂に火がつく。なりふり構わず,父の指導に食らいつく。一歩も引かないその姿勢がすばらしい。真っ向勝負にでている。こうして「中車」襲名披露のための,血のにじむような,いや,満身創痍と言ったほうがいい,そういう「行」が積み上げられていく。

 その裏で,父は,あれで舞台が勤まったとしたら,それは奇跡にも等しい,と周囲にもらす。その奇跡を起こすべく香川はまっしぐら。その熱情に周囲も動かされ,みんなが香川を支援する。そうか,歌舞伎の世界は Leidenschaft (気も狂わぬばかりの情熱)が勝負なのだ,と納得。かぶく,とはこういうことなのだ,と。

 おそらくは,香川自身もこの火のでるような稽古をとおして父の真意をつかみとったに違いない。そして,自分の長男の「団子」襲名披露のための稽古にも気配りをする。この団子がまた素晴らしい。まだ,幼子だが,じつに聡明な顔をし,台詞回しもみごと。祖父の猿翁も,孫は別のようで,かわいくて仕方がない。そうして,この子はわたしよりいい歌舞伎俳優になれるよ,とにこにこ顔で太鼓判を押す。それを素直に受け止めている団子の将来もまた楽しみだ。

 祖父・猿翁の身辺で遊び,父が,俳優香川昭之を捨て,歌舞伎俳優の中車となる,その瞬間瞬間を空気のように吸って育つ。これもまたすさまじいと思う。祖父の隠居姿と,父の死と再生。そして,みずからの団子としてのスタート。これらが同時進行しながら,団子の血となり肉となっていく。

 歌舞伎は奥が深い。こんど新歌舞伎座で中車の芝居がかかったら,ぜひ,見にいきたいと思った。そして,芸能の底力をみとどけてみたい。猿翁の遺伝子がみごとに中車のなかに引き継がれ,花開いていく,その姿をこの眼で。

 猿翁は,若くして歌舞伎のなかにある異次元世界の魅力に触れてしまったに違いない。そこに手がかかってしまった以上,もはや後には引けない。歌舞伎界の異端児と中傷されながらも,わきめもふらず,一心不乱に新しい工夫を加え,沈滞気味の歌舞伎界に新風を吹き込んだ。中車も,いまではからだをとおして,猿翁の真意を受け止めていることだろう。

 稽古ですら,あれだけの迫力満点の演技や台詞回しができていて,それをテレビでみているわたしが感動するのだから,やはり,新歌舞伎座で生の公演をみてみたい。間違いなく,歌舞伎界に新しいヒーローの誕生である。これで,猿之助を襲名した市川亀次郎のこころにも火がつき,ますます迫力満点の,そして円熟した舞台をみせてくれることだろう。この相乗効果ははかりしれないものがあろう。そこに団子がからむ。いよいよ楽しみだ。
 

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