2014年3月11日火曜日

3・11を忘れるな,だけでいいのか。反省すべきは人間の「驕り」ではないのか。

 3年目の3・11。新聞もテレビもみんな3・11。被災地の惨状や被災者の苦労を,これでもか,これでもか,というほど流しつづける。そして,「3・11を忘れてはならない」「3・11を風化させるな」の繰り返し。ただ,それだけ。どこか絵空事にみえてくる。3・11を忘れないで,しっかりと記憶にとどめておく,とはどういうことなのか。なにを,どうすればいいのか。日本人のひとりとして,取り組むべき課題はなにか。その具体的な提言も思想も哲学もない。単なる情報の垂れ流し。そして,「忘れるな」の繰り返し。


 そこには,メディア・サイドの深慮遠謀,つまり,ある意味で,意図的・計画的な「責任逃れ」が企まれているのではないか,と思われて仕方がない。もっとはっきり言っておこう。政府自民党の,そして,原子力ムラの,あるいは東京電力の,「深慮遠謀」がメディアに反映されているのではないか,と。


 つまり,東日本大震災の結果のすべてを自然災害のなかに封じ込め,だれも責任をとらなくてもいい,という免罪符を大量に発行しているだけではないのか。そこには,人災というきわめて重大な視点は最初から忌避され,無視する力学がはたらいているように思われる。だから,復興とは,すべて被災地・被災者の問題に還元されてしまう。そこには,われわれ日本人としての「復興」という視点が完全に欠落している。それでいて「忘れるな」と声高に叫ぶ。


 3・11がわれわれ日本人につきつけた問題は,たんなる自然災害への対応の仕方だけではない。それは,3・11以前まで,日本人の多くがなんの疑問も抱くことなく,ひたすら追い求めてきた経済的繁栄という虚像の上に構築されたライフ・スタイルに対する,根源的な問いではなかったか。それは,ひとことで言ってしまえば,生き物としての人間の「驕り」に対する根源的な問いではないのか。


 三陸地方の小さな漁港のほとんどは,高台に居を構え,漁のたびに海まで降りていって仕事をし,ふたたび高台にもどる。それが基本になっている。しかし,大きな都市になると,大津波の記憶から遠ざかるにつれ,高台から平地に降りて,そこに居宅を構え,漁にかかわる処理工場を設置し,海岸沿いに大きな商店街が誕生する。その方が経済的に効率がいいからである。つまり,儲かるからだ。そこに大きな落とし穴が待ち受けていた。そのとき,イノチとカネの交換が行われたことに気づかなかったのだ。これこそが生き物としての人間の「驕り」のなせる業だ。目先の欲望に目がくらみ,もっとも大事なイノチのことを忘れてしまった,ということ。


 災害は忘れたころにやってくる。


 その極めつけが原発だ。単位時間の発電効率の良さと安定供給を理由に,電気代の安さと安全という「神話」をでっちあげ(どちらもウソだったことを露呈させたのも3・11),全国各地に原発を大量に設置した。そのうちのフクイチが破綻をきたした。廃炉まで40年かかるという(政府発表)。とてもそんな時間で片づくとは思えないが・・・。加えて,使用済み核燃料の処分の方法はまったく未知の世界だという。最悪,40万年かかるという。これまた,生き物としての人間の「驕り」のなせる業である。利便性という甘い汁に誘われて・・・・。しかし,利便性には「限界」がある(ジョルジュ・バタイユは「有用性の限界」と言った),ということに気づく人は少なかった。その結果はもっとも大事な「イノチ」を代償として支払わなくてはならなくなった。


 復興とは,日本人のすべてが,生き物としての人間の「驕り」から目覚め,3・11以前のライフ・スタイル(経済的効率主義)に決別し,まったく新たなライフ・スタイルを構築することにある,とわたしは考える。わたしたち一人ひとりのからだとこころに「痛み」を伴うほどの,大転換が求められているのだ。そして,必要なことは,そのための思想であり,哲学である。


 3・11を通過したのちの社会を構築するための思想/哲学とはいかなるものか,この議論を立ち上げることこそが喫緊の課題だ,と言っておきたい。そして,そのための議論はすでに始まっている。たとえば,ジャン=ピエール・デュピュイの『経済の未来──世界をその幻惑から解くために』(森元庸介訳,以文社)や『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社)をはじめ,『3・11以後この絶望の国で──死者の語りの地平から』(山形孝夫・西谷修著,ぷねうま舎)などがある。


 少しオーバーに聞こえるかもしれないが,思い切って言っておこう。3・11がさらけ出した問題は,世界史的な大転換を余儀なくする,それほどの根源的な問いである,と。3・11以後の世界は,いかなるまやかしも「驕り」も許されない,真に平等で公平,かつ自由を保障するものでなくてはならない,と。


 3・11を忘れるな,ということの内実は以上のようなことを意味している,とわたしは考える。死者たちの声に耳を傾けるということの内実は,以上のような新たな知の地平を切り拓くものでなくてはならない,と。少なくともわたしは,そのような努力をこれからも積み上げていきたいと念じている。それこそが,わたしにとっての復興の内実なのだから。

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