2014年3月29日土曜日

アメリカの大学運動選手は「従業員」?労組結成を認める決定。

 今日(3月29日)の「東京新聞」にびっくりする記事が載っていました。
 アメリカの大学運動選手は「従業員」であり,「労働組合結成を認める」という決定を出した,というのです。詳しく書くと以下のようです。まずは,記事をそのまま転記しておきましょう。


 〔ワシントン=斉藤保伸〕米政府の独立行政機関である全米労働関係委員会は二十六日,イリノイ州の名門ノースウエスタン大学アメリカンフットボールチームの選手らに対し「従業員であり,労働組合結成を認める」との決定を出した。複数のメディアが伝えた。学生スポーツの選手を「従業員」として位置付ける判断として注目を集めている。
 選手らは一週間に五十時間アメリカンフットボールに「従事」した事例などを掲げ,組合を結成することでより手厚い健康保険や脳震とうの検査,奨学金の充実を求め,大学側と交渉ができるよう訴えていた。
 これを受けた委員会は選手らが試合に出場することなどで数百万ドル(数億円)を稼ぎ出し,大学から奨学金を受けていたことから,「従業員」である十分な証拠があると認定したという。ウォールストリート・ジャーナル紙によると,大学側は反発し,不服を申し立てる方針という。


 以上です。
 この記事をみなさんはどのように読まれるのでしょうか。
 わたしの感想は以下のとおりです。


 とうとうここまできたか,というのが結論です。
 つまり,大学スポーツは「労働」なのだ,と。もっとも,プロ・スポーツが「労働」であることはつとに承知しています。が,大学という教育機関で行われているスポーツもまた「労働」であるという判断を下さなくてはならないところにアメリカの現状はきている,というのです。これがアメリカの大学スポーツの現実である,というわけです。


 しかし,よくよく考えてみれば,日本の大学スポーツもまた大同小異にすぎません。そのうち,日本の大学スポーツの選手たちも「従業員」と判定され,「労働組合」の結成が認められるようになるのも,そんなに長い時間を必要とはしないでしょう。


 こういう情報に接しますと,いよいよ「スポーツとはなにか」という根源的な問いを発しなくてはならない,と痛切に感じます。ついこの間までは,大学以下の教育機関で行われるスポーツは「教育」の一環として認知され,それなりの節度が守られてきました。もっとも,スポーツを教育の一環として位置づける考え方そのものも,すでに,いろいろの矛盾が露呈してきていて,ほとんど意味をなさなくなってきているのも事実です。


 その根底にあるものは,スポーツの商品化であり,人間の「モノ化」である,とわたしは考えています。つまり,人が「生きる」ということの意味を,多くの人が忘れてしまって,目先の欲望を満たすことに戦々恐々としている,この現実をどう考えるか,という問題です。市場経済が浸透し,いろいろのものを「商品」として取り扱い,人間はその恩恵に与ってきたつもりが,いつのまにか人間そのものが「商品」と化してしまっていることに気づいていない,ここに大きな問題がある,という次第です。


 カネさえもらえれば,命を犠牲にすることもいとわない,と平然と言ってのけるトップ・アスリートは少なくありません。ドーピング問題の根底には,人間であるはずのトップ・アスリートたちの,わたしたちの常識では考えられないような「意識の変化」が横たわっています。金メダルをとるためのドーピングはいとわない,と。


 この意識の変化は,「経済発展のためには原発再稼働もやむをえない」とする人びとの「命軽視」の考え方に通呈するものがあります。このことは,だれが考えても「本末転倒」であるのに,そのことに思いをいたそうとはしません。


 すべては「カネ」の世の中。こんな時代がいつまでつづくというのでしょう。
 オリンピックもまた「マネー・ゲーム」の最先端を走っています。もう,破綻(カタストーフ)まで秒読みに入っているというのに・・・・。


 とまあ,とんでもないところまで脱線してしまいましたが,でも,これらはすべてひとつの糸でつながっています。人間の盲目的欲望のなせる業です。いつになったら懲りるのでしょうか。茹でカエルは気づいたときには,もう,からだが動かないといいます。はたして,現代の人間やいかに。



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