2014年4月18日金曜日

講道館柔道中心史観のはじまりは敗戦後のGHQ対策にあり。「柔道はスポーツである」(昭和24年)。

 柔道といえば講道館柔道,そして嘉納治五郎の名前がまっさきに浮かんできます。
 しかし,講道館柔道が脚光を浴びるようになるのは第二次世界大戦の敗戦後のことだ,といえば驚く人は少なくないでしょう。かく申すわたしも,この事実を知って驚いたひとりです。

 端的に言っておきましょう。敗戦後のアメリカによる占領政策のもとで,GHQ(連合国軍総司令部)は,ただちに柔道をふくむ日本の武道・武術全般を禁止しました。あわてた講道館は家元として,お家芸の柔道の存亡をかけた智恵をしぼります。そして,お家芸の柔道が生き延びるための苦肉の策として「柔道はスポーツであって武道ではない」と主張して,GHQのお墨付きをもらいます。こうして講道館柔道だけが,つまり「スポーツとしての柔道」だけが敗戦後の日本で活動が許されます。

 じつは,ここに大きな落とし穴がありました。というか,日本柔道史にとって致命的なターニング・ポイントとしての足跡を残すことになります。ひとことで言ってしまえば,武道の精神が形骸化してしまい,スポーツの勝利至上主義が最優先される,そういう柔道への大転換です。もっと言ってしまえば,嘉納治五郎のめざした総合武術としての「柔道」をかなぐり捨てて,単なるスポーツ競技への道をめざした,ということになります。

 このことを,作家の増田俊也氏がみずからの作品『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮文庫,平成26年3月刊)をとおして明らかにしています。作品名にだまされてしまいがちですが,この作品は,じつに丹念に当事者たちの聞き取り調査をし,当時の新聞,雑誌を洗いざらい調べ尽くして,手堅く裏付けをとった上で,持論を展開しています。言うなれば,講道館柔道中心史観の誤りを徹底的に突き崩す,批評精神に満ちた素晴らしい作品です。

 以下に述べることがらも増田俊也氏の主張にもとづくものです。もちろん,わたしの脚色が多少なりとも加わっていることもお含みおきください。

 GHQが禁止した敗戦前までの柔道には,大きく三つの流れがありました。一つは,国策にもとづいて武道の再編・統合がなされた大日本武徳会での柔道です。当時の日本の柔道を統括する全国組織です。したがって,ここが主催する柔道の全国大会がもっとも権威あるものとして高く評価されていました。二つには,「高専柔道大会」というものがありました。こちらは,京都帝国大学が中心になって組織された大会で,旧制高校(国立)と専門学校(私立)の柔道の強豪校が地区予選を経て全国大会に進出してくるものです。この「高専柔道大会」が,当時もっとも人気があったといいます。三つめが,講道館柔道でした。ここは嘉納治五郎の権威(家元)による段級制度は認知されていたものの,講道館が主催する柔道大会への参加者はきわめて少なかったといいます。

 この三つの流れのうち,大日本武徳会と講道館が主催する柔道大会は「個人戦」が中心でした。が,高専柔道大会だけは「団体戦」でした。しかも,競技ルールにも大きな違いがありました。前二者の「個人戦」は,すべて競技審判がコントロールし,「一本」「技あり」「押さえ込み」を判定しました。が,高専柔道柔道大会は,対戦相手が「参った」というまで,つまり,「負け」を認めるまで試合がつづきました。立ち技で相手を投げても相手が「負け」を認めなければ勝負が決まったことにはなりません。したがって,その主たる戦法は「寝技」でした。しかも「負け」は認めたくないので,「関節技」が決まっていても「負け」を言わない。「締め技」が決まっていても「負け」をいわない。どういうことになるか。関節が折れるまで,締められて「落ちる」まで,という試合も少なくなかったといいます。団体戦ですから,チームの名誉が個人にのしかかってきます。なかには,からだは小さいけれども「引き分け」専門のエキスパートという選手もいたといいます。ですから,試合会場はものすごい熱気にあふれたといいます。

 この三つの流れのうち,GHQの占領政策のもとで,講道館柔道だけが敗戦後に生き延びて,他の柔道はその姿を消してしまったというわけです。言うなれば,講道館柔道だけが漁夫の利に与った,という次第です。ここから,柔道といえば講道館,そして講道館の発する情報がすべてとなり,権威づけられ,やがて講道館柔道中心史観が構築されていく,という次第です。同時に,全日本柔道連盟が結成されたときも講道館館長が連盟の会長を兼任しました。つまり,講道館と全日本柔道連盟とは表裏一体となったのです。この「癒着」がいまも混迷をつづける根源にあります。ですから,こんにちの柔道の世界的な隆盛と頽廃の端緒は,すべて「柔道はスポーツである」と主張した講道館自身の播いた種にある,と言っても過言ではないでしょう。

 さて,ここからさきは「柔道とはなにか」という基本的な問いに立ち返ることになります。作家の増田俊也氏はみずから北大柔道部での経験もふまえて,この問いに恐るべき執念をみせつけます。そして,「木村政彦」という希代の柔道家をとおして,その解を求めていきます。この木村政彦の残した足跡が,のちの「プロ柔道」「プロレス」「異種格闘技」へと連なっていく,その過程を丹念に描いていきます。

 オリンピックのJUDOをめぐって「これはもはや柔道ではない」という発言が有名になりましたが,その端緒は,敗戦直後の講道館のとった「苦肉の策」にあったということを,わたしたちは忘れてはなりません。日本柔道史が蓋をしてきた「秘事」に,思い切ってメスを入れた作家・増田俊也氏の「批評精神」に拍手を送りたいと思います。

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