2014年5月27日火曜日

「どっこいしょ」の語源は「六根清浄」(玄有宗求)。

 和室で立ったり,座ったりするときに無意識のうちに「どっこいしょ」と声にしている自分に気づくことが多くなってきました。ついこの間まで,年寄りは立ったり,座ったりすることが大変なんだなぁ,と傍観者であったはずのわたしが,いつのまにか「どっこいしょ」と声に出して言っています。言ってしまってから,あわてて周囲をみまわして,だれにも気づかれないでいるとほっとしたりしています。いやはや,年齢は隠しようもありません。

 この「どっこいしょ」の出どころは「六根清浄」だ,と玄有宗求さんはおっしゃる(『さすらいの仏教語』,中公新書,2014年)。いまでも信仰登山をする人たちは「六根清浄 お山は晴天」と声にだしながら山に登ります。志賀直哉の小説『暗夜行路』のなかで,主人公の時任謙作が大山に登山する場面がでてきます。この小説のクライマックスの一場面です。そのとき,「六根清浄 お山は晴天」とお互いに励まし合いながら山に登っていきます。そして,小休止をするときに「どっこいしょ」と言って地面に腰を下ろします。志賀直哉はこのことを知っていて書いたのだろうか,といまごろになって勝手に想像しています。

 六根清浄の六根は般若心経にもでてくる「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つの感覚器官のことです。そに対応する感覚内容は「色・声・香・味・触・法」です。般若心経では,こんな見たり,聞いたり,臭いを嗅いだり,味わったり,触れ合ったり,意識したりする感覚器官はもともと無いものと思いなさい,と説きます。いろいろのものがあるように思っているけれども,そんなものにはなんの実体も無いのだ,と。あるようであって無い,無いようであってある,そこが浄土の世界だというわけです。それを端的に表現したものが「色即是空 空即是色」です。

 六根清浄とは,この六根をきれいに洗い流してしまいましょう,そうすればこころもからだもさっぱりして,さわやかな生をとりもどすことができますよ,という教えです。そのさきに浄土の世界が待っているんでよ,と教えます。その手始めとして,まずは,登山をしながら,全身からおしみなく汗を流しましょう,それによって清らかな世界に接近していくことができるのですよ,というわけです。

 この六根清浄が,どうして「どっこいしょ」になってしまうのでしょうか。玄有宗求さんは面白い説明をしています。

 登山をしながら六根清浄と唱えている人の声が,完全に疲労困憊し,意識も朦朧としてきた登山者の耳には「どっこいしょ」と聞こえたとしてもおかしくない,というのです。しかも,そのように聞こえる人こそ,すでに六根清浄に達している人に違いない,と。ですから,「どっこいしょ」こそ六根清浄の真髄ではないか,と。ましてや,日常生活のなかで無意識のうちに「どっこいしょ」と声に発する人こそ六根清浄の世界を生きている人ではないか,と玄有宗求さんはおっしゃいます。

 そして,つぎのように結んでいます。

 余計な思惑のなくなった「どっこいしょ」の眼に,この上なく美しい太陽が昇る。

 そうか,加齢とともに世俗の欲望も少なくなって,ごく自然に「どっこいしょ」といえる人は,もはや自然界にかぎりなく接近していて,そういう人の眼には「この上なく美しい太陽が昇る」というわけなのでしょう。「どっこいしょ」を気にしているようではまだまだ枯れていないという証拠。

 これからは,だれ憚ることもなく,堂々と「どっこいしょ」ということにしよう。ましてや,他人が「どっこいしょ」と言ったといって冷やかすようなことはしないようにしよう。その世界はじつに美しい世界なのだから。

 そして,これこそが「サクセスフル・エイジング」。

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