2014年7月31日木曜日

2020年東京五輪で駒沢オリンピック公園の競技施設をまったく使わないのはなぜか。

 1964年東京五輪に合わせてつくられた駒沢オリンピック公園の立派な競技施設が,こんどの2020年東京五輪ではまったく使われない,という。どうして?とだれもが思うこと。いまでも全日本選手権などの大きな大会がここで開催されることも多いというのに。

駒沢オリンピック公園にある陸上競技場。
スタンドの一番上の日除けが地上にでているだけ。
競技場(トラック)は地下を掘って設置。

 7月26日(土)に行われた新建築家技術者集団・東京支部が開催した「2020年東京五輪施設見学ツアー」でも,ここに立ち寄り,この施設の副所長さんからの説明を聞いた。それによれば,稼働率95%で,おそらく全国でももっとも多くの人びとに利用されているだろう,とのことだ。わたしたちが尋ねたときも,陸上競技場を除いて(新しい施設・用具の搬入が行われていた),あとは全部,使われていた。体育館ではジュニアのフェンシングの全国大会が行われていた。ジョギングや自転車の愛好者も大勢押しかけていて,どのコースもほとんどフル回転。広場では,親子連れでボール・ゲームをして楽しんでいる人たちもみかける。環境もみどりが多く申し分がない。

駒沢オリンピック公園の全体図。
緑に囲まれた閑静なロケーションにある。
 

 なのに,2020東京五輪では使われない,という。JSC(日本スポーツ振興センター:ここが2020年東京五輪の施設に関する責任者。新国立競技場建造に関してもここが事業主体者)のいうには,駒沢オリンピック公園の施設は,観客の収容人数も少なく,しかも古いので使用に適さない,とのこと。ならば収容人数を増やすべく増築をしたり,古いところは新しく補繕をしたりすればいい。いまの技術ならかんたんにできることだ。しかし,それはしない。しようともしない。まったくの無関心だ。なぜ?

 それには理由がある。

 東京ベイエリアと名づけられた,いわゆる東京湾埋め立て地に,最新の施設・設備をもち,かつ収容人員も充分な大きな競技施設を建造するから,駒沢オリンピック公園の施設を使用する必要はない,というのだ。はたしてそうだろうか。

 不思議に思いながら,予定されている東京ベイエリアの競技施設候補地を巡回して行った。そして,主催者からのその場所,その場所のことこまかな解説があり,どうしてもここに2020年東京五輪の施設を集中させたいとする東京都の思惑が浮かび上がってきた。

 一つは,すでにあるスポーツ施設の稼働率があまりに低く,赤字経営となっているので,その問題を解消したいとする東京都の思惑。たとえば,東京スポーツ文化館。レストランもホテルも併設した立派な施設。なのに利用者が少なくて苦慮しているという。仕方がないので,ホテルは日本ガン・センターを利用する人たちのために特別料金で解放しているとか。つまり,本来の目的・スポーツ愛好者のための施設利用が達成できていないのだ。だから,これを取り壊して,周囲の緑地公園もつぶして,新しく巨大な競技施設(バスケットボール会場)を建造してオリンピックに備えるのだ,という。

東京スポーツ文化館。正面入口。
左奥にも関連の施設が立ち並んでいる。
 
東京スポーツ文化館の道一つ隔てた向かい側に広がる森林公園。
この広大な公園も全部つぶされてしまう,という。

 オリンピックという大義名分を旗頭にして,なにがなんでもここに大きな競技施設をつくるのだ,という。しかも,地上に突き出た,相当に高い建造物になるとか。なぜなら,地下を掘ることはほとんど不可能だから。その点,駒沢オリンピック公園はじつによくできている。すべての競技施設が地下を掘り下げ,そこにアリーナを設定し,出入り口は観客席の中段(二階席あたり)につくられている。そのため,屋根は予想以上に低い。外からみると広々とした空間が広がっており,中に入ってみると予想以上に広いスペースが確保されている(最初の写真を参照のこと)。

 それは千駄ヶ谷にある東京体育館(槙文彦さんの設計による)も同じだ。入口を入ると中二階の観客席のところにつながっていて,アリーナは一階下に見下ろすようになっている。だから,外からみても屋根は低い。圧迫感をまったく感じない。周囲のビルよりも低いので,むしろ広々とした空間が確保されている。その真向かいにある津田塾大学の施設もまた槙文彦さんの設計によるものだそうで,この両者の調和もとれていて,周囲の環境(中央線を挟んだ向こう側には新宿御苑のみどりがひろがる)ともみごとになじんでいる。

 その東京体育館のすぐ裏側に,高さ75mにも達する巨大な新国立競技場を建造しようというのである。神宮外苑の景観がぶち壊しになってしまう,ということはそこに立ってみれば素人にもわかる。にもかかわらず,JSCは強行突破をはかろうとしている。しかし,現国立競技場を解体する工事の入札が二度も流れてしまい,解体の目処も立っていない,という。ここにはまた別の理由がある。この件についてはまた別稿で書くことにしよう。

 勢い余っていささか脱線してしまった。
 そろそろ結論を。

 東京ベイエリアの開発は,いわゆる東京副都心計画の一環として捉えられており,東京五輪が絶好のターゲットになった,ということだ。いまも空き地があちこちにあって,買い手がつかなくて東京都は困り果てているという。その理由もかんたん。掘ると有毒ガスが漏れ出てくる可能性が高いこと,しかも,地震がおきれば液状化する可能性がきわめて高いこと。主として,この二つの理由から大手ゼネコンも見向きもしない,とか。だから,東京都は困り果てていた,というのだ。そこに,うまい具合に東京五輪が転がり込んできた。というか,東京五輪招致を成功させるために,ありとあらゆる手段を講じて(なかには嘘もふくめて),巨額の金もばらまかれて,無理矢理,IOC委員を抱き込んだというのが実態らしい。すべては東京副都心計画の抱え込んでいた難題を一挙に解消するために。

 こうして一件落着のようにみえるが,じつは,そうは問屋が卸さない。原発と同じでつくればいい,そして,大きな電力を確保することができる,とただそのことだけを旗頭にして猪突猛進をした結果が,こんにちの原発問題(手も足も出せない,宙づり状態,いつ爆発してもおかしくない状態)となってわたしたちの眼前につきつけられている。副都心計画がスポーツ施設を軸にして多くの人間を惹きつけることができる,という考えはあまりに甘い。

 2020年東京五輪ですら,この東京ベイエリアに観客を惹きつけるだけの魅力があるかと問われれば,わたしははっきりと「ノー」という。なぜなら,7月末から8月上旬にかけての猛暑日がつづく大会期間に,わざわざでかける気はない。ましてや,東京五輪後に,大きなスポーツ・イベントを持ち込んだとしても,施設を満杯にするだけの人が集まるかどうかは,まったく心もとない。しかも,そんな大きなスポーツ・イベントを年に何回も開催することも不可能だ。すでに,大きなイベントを行う施設はあちこちにある。しかも,フル稼働しているとは聞いていない。だから,東京五輪後の施設の維持管理はきわめて困難だ,というのがわたしの見解である。

 その点は新国立競技場でもまったく同じだ。こんなに立地条件のいいところでさえ,維持管理はほとんど不可能だといわれている。その赤字分は全部,国民の税金で賄うことになる。そんなことが目にみえているのに,それでも強行しようとする「盲目」集団がいる。困ったものである。

 スポーツ施設はつくればいいという問題ではない。すでに,各地方自治体もふくめて,ほとんど使われていない競技施設(屋外の施設の場合にはぺんぺん草が生えていることもある)が山ほどある。そして,どこもかしこも赤字経営に頭をかかえている。

 スポーツはいまやテレビで鑑賞するものであり,茶の間の娯楽でこそあれ,わざわざ猛暑や寒さに耐えながら競技場まで足を運ぶ人はほんの一握りの人にすぎない。この実態を考えれば,8万人もの観客を収容する巨大競技施設(新しく建造される予定の東京ベイエリアの競技施設も含めて)は,なんのため,だれのためのものなのか,とくと考える必要がある。

 それがある特定の人びとの利益だけが優先されて,議論もなしに決定がなされ,現実を無視して突き進む,この体質を根本から改めないかぎり,この悪の連鎖は止まらないだろう。そのことの実情が,これから東京五輪の施設づくりが現実化するにつれ,つぎつぎに明らかになってくるだろう。そのときになって,多くの人びとが驚くことになる。

 しかし,それでは遅すぎるのだ。だから,たとえば,「日本野鳥の会」とか,「東京オリ・パラを考える都民の会」などの民間団体が多くの警告を発し,行動を起こしている。しかし,主要メディアはこれらの主張や行動に対して冷淡だ。だから,ほとんど,報道はしない。しかし,ネットの世界では,少したんねんに検索をかけると,驚くほどの団体が立ち上がっていて,それぞれにほそぼそながら活動を展開している。

 わたしたちは,もう一つの視点をわがものにして批評精神を磨かないと,権力の思いのままに愚弄されていることにも気づかずに,最後の責任を負わされることになる。

 駒沢オリンピック公園はまったく使われないんだって?へえーッ,そうなんだ,では済まされない。そのツケは必ず弱者のわたしたちに廻ってくる。その前になんとかしないかぎり・・・・。

2014年7月30日水曜日

「一動無有不動」ということについて。李自力老師語録・その49。

 一つの動作がはじまったら,からだのどの部分も動かないところは一つもない。つまり,からだ全体が一斉に動きはじめるのです。ですから,からだの内側からも動きが表出してきます。太極拳の動作はこのようにしてからだの内側から外側の隅々まで,すべてが渾然一体となって連続して動くことが理想として考えられています。このことを「一動無有不動」といいます。そして,この動作を習得した上での究極の動きが「行雲流水」ということになります。

 如是我聞。

 このような説明をされた上で,みずから,たとえばこんな動きになりますと言って垂範してくださいました。その動きの美しいこと,それはもはや言語の範疇を突き抜けて,ただ,うっとりとするのみです。同じ人間のからだなのに,どうしてこんな動作が可能なのか,とまるで異次元の世界をみる思いです。それは単にからだ全体がよどみなく動いているというだけではありません。からだの内側から表出してくるなにかが動作を突き動かしているようにもみえます。言ってしまえば,その両者が渾然一体となって醸しだされる一種独特の動作,と言えばいいでしょうか。

 なるほど,これが「一動無有不動」ということであり,その積み重ねが「行雲流水」の境地へと導くのだ,とこころの底から納得。

 その上で,細かな一つひとつの動作の稽古に入りました。この稽古は長年やってきた稽古とはまるで次元の異なる,もうワンランク上のレベルの稽古であることもすぐにわかりました。そして,わたしなりにみえてきたことは「股関節」のゆるぎない操作にすべての鍵が隠されているということでした。これはどういうことなのでしょう。これまでと同じ動作をしているのに,それを感じ取るわたしの感覚はこれまでとはまるで違うということでした。ある動作をしているわたしと,その動作を感じ取るわたしとが,お互いに対話をはじめているような,不思議な世界のひろがりでした。しかも,それは快感そのもの。その中心にあるものは「わたし」ではなく「股関節」。

 以上は,わたしのドグマティックな解釈と感想。正しいかどうかはわかりません。が,これまでになかった一つの発見であったことは間違いありません。あとは,稽古を積み重ねていき,習得した動作をとおして李老師の厳しい判定を受けるのみ。そのつもりで励みたいと,今日の稽古はいつもにもましてとてもありがたいものでした。

 李自力老師は,上の「一動無有不動」ということばの説明と同時に,このことばの正反対が「一静無有不静」です,と教えてくださいました。ひとたび静止したら,からだのあらゆる部分がすべてぴたりと静止し,静止していないものはなにもない,そういう世界です,と。さて,この世界をどのように受け止めたらいいのでしょう。わたしの脳裏には妙なものがちらついています。それは卓越した忍者が自分のからだを隠す最後の手段,隠遁の術に通底するものがあるな,というものです。同じ武術の極意の一つと考えると,これは矛盾することはありません。

 自然界とみずからのからだとを同調させる,あるいは共鳴・共振させる,という東洋的な伝統的な思想からすれば,なんの矛盾もありません。この先の稽古が待ち受けているものが,なんとなく透けてみえてきたように思います。

 これらの問題については,これから,とくと,考えてみたいと思います。

 以上,今日の稽古の感想アラカルト。

新連載「撃!スポーツ批評」をスタートさせました。第一回は「サッカー熱狂症候群」。

 労働組合の全国機関誌『ひろばユニオン』(発行所・労働者学習センター,編集人・背黒文宏)の8月号から,わたしの連載「撃!スポーツ批評」が掲載されることになりました。期間は6カ月と,とても短いのですが,折角いただいたチャンスですので,テーマを精選して,精一杯,頑張ってみようと思っています。


 なにより嬉しかったのは,編集人の背黒さんがわたしのブログを読んで,この人に依頼しようと考えたというお話でした。しかも,じつは,著名なスポーツ・ライターのT氏に目星をつけていたのだそうですが,どうもいまひとつ思考の波長が合わないので,迷っていたそうです。そうしていい書き手はいないかとリサーチしていて,わたしのブログに出会ったとのことでした。なんともはや,ありがたいことです。たかがブログ,されどブログ。一生懸命,大まじめに書いてきてよかった,と安堵の胸をなでおろしています。

 その背黒さんが,会いたいということで鷺沼の事務所を尋ねてくださいました。わたしも最初のうちは,背黒さんがどんなことを期待しておられるのかわからないまま,疑心暗鬼でした。なにせ,労働組合の機関誌だと聞いていましたので,それなりの主張があるはず。でも,そんなことをあまり気にしていてもはじまらない,と腹をくくってわたしはわたしの希望をさきに提案させていただきました。その提案を背黒さんはこころよく引き受けてくださり,わたしもじつはそのようなことをお願いしようと思っていました,とのこと。

 その提案とは,「スポーツ批評」というスタンスで書く,というもの。「スポーツ評論」ではなく「スポーツ批評」というスタンスで。この両者の違いについては,今福さんの理論を援用させていただいて,そろそろ「スポーツ批評」という領域を確立させる必要がある,と力説。しっかりとした「スポーツ批評」が登場しないと「スポーツ文化」は堕落し,疲弊し,衰退していく,と。ここのところはとても大事なところですので,きちんと書いておくべきかと思いますが,スペース的に無理ですので,また,機会を改めたいと思います。

 というようなわけで,背黒さんとは初対面にもかかわらず,意気投合しました。そして,第一回目はW杯が終わったあとの余韻に合わせて「サッカー」をとりあげることになりました。それが,以下のような原稿となって,掲載されました。とてもいい誌面構成になっていて,わたしとしては大満足。問題は「批評」がどこまで思考が伸びていて,どこまで読者に届くか,というところ。これについては数回の連載後に,それなりの反響がでてくるのではないか,と期待しています。

 以下は,掲載誌の誌面です。ご笑覧いただければ幸いです。



 

2014年7月29日火曜日

Facebook の可能性に開眼?日本の主要メディアが無視する情報が満載。

 つい最近になって,ようやくFacebook の威力に気づきました。最初はこの仕組みがどんなものなのかも知らないまま,なんとなく開設してみました。そして,受け身のままで放置していましたら,いつのまにか出来上がってきた友人から,いろいろの情報が入ってくるようになりました。が,それらのどの情報もわたしの興味をひくようなものはほとんどありませんでした。ですから,そのままにしてありました。

 ところが,最近になって,西谷修さんのFacebook で取り上げている情報がきわめて刺激的であることを知り,友人になっていただき,それらの情報がわたしのFacebook に自動的に流れるようにしてもらいました。これがきっかけになって,これまでとはガラリと違った友人関係がつぎつぎに生まれました。そして,気づいたことはこの新しい友人たちの張りめぐらせている情報収拾ネットワークの広さと問題意識のレベルの高さでした。

 そこから流れてくる情報は,まさにインターナショナルでした。ですから,日本のメディアのほとんどが無視するような情報も,つぎつぎに入ってきます。そして,それらの情報も確かな裏づけのあるものが多く,量・質ともに秀逸なものばかりでした。そうか,この人たちは,こうやって世界を見極める視座を確保しているのだ,と納得。

 お蔭さまでこの人たちとリンクすることによって,わたしの視野は大いに広がりました。そして,世界認識のレベルも上がりました。その代わりたいへんです。一つの情報(たとえば,ガザをめぐる日々新たな情況の変化,など)を追いかけるだけで,膨大な時間を消費してしまいます。しかも,重大事である以上,わたしとしても無視するわけにはいきません。これに類する情報がほかにも山ほどあるのです。

 わたしがいま追っている新国立競技場問題や2020東京五輪などにしても,じつに多くの情報が流れています。たとえば,新国立競技場問題でいえば,名だたる建築家をはじめ,その関係者たちや,さまざまな市民団体もふくめて,じつに丹念に情報を分析して,問題の所在を明らかにしてくれています。2020東京五輪に関しても同じです。これらの問題に関しては知れば知るほど,にわかには信じられないほどのおかしなことがいっぱい起きています。それを主たるメディアはほとんど無視しています。なぜなら,すでに恐るべき言論統制がなされているからです。

 こうして,Facebook をとおして,日本の主要メディアが無視する情報に触れるにつけ,日本のジャーナリズムがいかに堕落してしまったことか,そして,いかに権力によって管理された,歪んだ情報のなかでわたしたちは日々の生活を生かされているのか,ということが次第に明らかになってきます。そのことに気づけは気づくほど,空恐ろしくなってきます。

 少し感度のいい若者たちが,新聞・テレビから離れ,ネット情報に関心を示すのは当然のことだ,ということもわかってきます。駄目なのは,新聞は朝日,テレビはNHK,それを信じて疑わない,マンネリ化した生活を惰性のまま生きる「知識人」と呼ばれる「ニセモノ」の大人たちです。しかも,この人たちが御用学者として,こんにちの主要メディアで大活躍している,というのが実態です。そして,悪の再生産に励んでいます。その影では,いわゆる「研究助成金」なる名目の,公にはできない意味不明のカネが動いています(お前ももらえるから宗旨がえをしろ,テレビにも出られるぞ,と勧めてくれる元友人がいまもいます)。

 いささか脱線してしまいましたが,結論を申せば,国内を流れている主要メディアの情報とネット上を流れている情報との両面から,つまり複眼的な視座に立って世の中を捉え直すことが,いまの時代を生きるわたしたちには必要不可欠である,ということです。そんなことを,恥ずかしながら,つい最近になって気づいたという次第です。

 ついでに書いておけば,わたしのFacebook とこのブログとを両方チェックしていただけますと,いま,わたしが何に関心をもって生きているのかという概要がみえてくるのではないか,と思います。そして,わたしのFacebookにもリンクを張っていただけると幸いです。重要な情報は可能なかぎり拡散させ,それらの情報をできるだけ多くの人と共有しながら,現代という時代をいかに生きるかを考え,行動していきたいと願っています。

 こんごともよろしくお願いいたします。

2014年7月28日月曜日

抗ガン剤治療のための3回目の診断を受けてきました。まずまずというところか。

 7月28日(月)午前9時。お世話になっている病院へ,抗ガン剤治療のための3回目の診断を受けてきました。今回はいつもにも増してとても丁寧な応対をしてくださり,なにごとか,とちょっとだけ心配になりましたが,それも杞憂であることがわかり,安心しました。

 いつものように,まずは採血。そして,血液検査の結果を待つ。その間に,問診表をわたされ,この一カ月の間の体調についての問いに「あり,なし」の二項択一の応答をし,とくに不都合を感じていることについて記入する欄がありました。「あり」と答えたのは,下痢が2回,味覚の減退,の二つのみ。特記事項への記入は,味覚がもどらないことの不都合,不快を書いておきました。

 すると,間もなく,抗ガン剤の選択を担当している薬剤師のO先生が面談をしてくださるとのこと。診察室とは別の面談室で,看護師も立ち会いの上で,O先生と面談。副作用が少しきつくでているようですが,もう少し頑張ってほしい,とのこと。いまやっている抗ガン剤治療はもっとも軽いレベルのものなので,これ以下のものはありません。そして,少なくとも一年はつづけないと効果は期待できないので,なんとかなりませんか。どうしても不快感があって無理だというのであれば,主治医のN先生と相談してください。という具合に,やんわりと激励されてしまいました。

 わたしとしては食べるものに味がないのは,以前の食欲旺盛だったころには考えられないことで,これはどういうことなのか驚いているという程度のことであって,抗ガン剤治療を一時中断する,というようなことまでは考えていません,と応答。O先生も安心した様子で,では,もうしばらくいまのレベルの治療をつづけながら,様子をみることにしましょう,ということで一件落着。

 で,ここでちょっとだけO先生にチョッカイをだす。顔は細面の若くてイケメンの男性。それにしては二の腕が太い。よくみると上半身のガタイもしっかりしていらっしゃる。そこで,空手でもやってらっしゃいますか,と。O先生は意表をつかれたかのように驚き,顔は真っ赤。立ち会っていた中年の女性看護師は,なぜわかるの?という不思議そうな顔。O先生は「剣道を少しだけ・・・」「なぜ,わかるんですか?」と。じつは,わたしは・・・・ということで少しだけ自己紹介。すると,「また,いつかお話を聞かせてください」とO先生。抗ガン剤を飲まなくてよくなったら,一献傾けながら・・・・と提案。楽しみにしています,とO先生。

 それから30分ほど待って,ようやく主治医のN先生の診断。先に済ませたO先生との面談は全部伝わっていたようで,いきなり先生の方から切り出す。そうですか,味覚がもどりませんか。これは考えようによっては薬が効いている証拠でもあります,とつれない。それよりも,免疫力が予想よりも下がっていないので,こちらの方が安心材料です,と褒めてくれたつもりらしい。それとマーカーによるチェックもしていますが,こちらも大丈夫。ただ,一部の血液成分の回復が遅れているようなので,こちらの動向を注目していきたい,とのこと。全体的な判断としては,いまのこのレベルの治療をもうしばらくつづけながら様子をみるのがいいと思います。次回は,もう一度,血液検査をして,ついでにCTをとって胃腸のその後の様子を確認したいと思います。術後6カ月になるので,どんな納まり方をしているか確認しておきたいので・・・とのこと。すべて了解しました,ありがとうございました,で診断は終わり。あとは,軽いジョークの応酬。今日は早めに切り上げ。

 全体的な印象としては,まずまず良好というところかな,というものでした。薬剤師のO先生の説明と主治医のN先生の説明には若干の温度差があり,O先生の方が楽観的,N先生は慎重派。まあ,今回はお二人の先生のお話が聞けたという点で,わたしの判断材料が複眼的になりました。これは得がたい収穫だったと思います。

 かくして,第三クールも第二クールと同じ抗ガン剤を2週間飲んで,2週間休息ということになりました。8月1日から2週間抗ガン剤の飲用。ここでの副作用が少ないことを祈るのみ。まあ,ほかのことに熱中していればなんとか紛れる程度のことですので,あまり過剰な心配はしないことに。それよりも生きがいの感じられる密度の濃い時間を過ごすことに全力をあげて専念すること。これがなによりの妙薬と心得よ,とわが身に言い聞かせています。

 ということで,以上,ご報告まで。

豪栄道,おめでとう!この相撲で横綱に!気になった日馬富士の右足首。

 豪栄道が後半に入って見違えるような相撲をみせた。立ち合いに一本芯が入り,当たり負けしなくなった。相手の圧力を止めてしまえば,あとは豪栄道の相撲だ。理詰めに相手の弱点を攻めて自分の得意の型に持ち込む。ここに豪栄道の天賦の才がある。からだは小さいが,これをまた武器にする才ももつ。さて,来場所は大関になって,自分の相撲に自信をつけ,いまの相撲がもうワンランク冴えてくることを期待したい。そうなれば,横綱の道がみえてくる。あとは,みずからを律する力(精神面)を磨くことだろう。それも豪栄道には可能だ。そういう能力ももつ。心技体のバランスのとれた力士の誕生だ。楽しみだ。

 琴奨菊が蘇った。大関に上がってきたころの相撲・がぶり寄りの復活である。角番を迎え,開き直ったというべきか,吹っ切れたというべきか,それとも初心にもどったというべきか。自分の本来の相撲が戻ってきた。痛めていた大胸筋もほぼ完治したのだろう。からだの不安も消えたようだ。そうなれば,大関に上がってきたときの相撲を取り戻すしかない。今場所の琴奨菊はいい経験となったことだろう。そのおまけつきの優勝争いに千秋楽まで持ち込んだ。これで自信をつけたことだろう。来場所からの琴奨菊の活躍を期待したい。

 相撲というものは面白いもので,こころの置き所がぴたりと定まると,相撲が一変する。そして,ひとつ勝つと一気に勢いがでてくる。そして,勝ちつづけると,さらに力があがってくる。しかし,15日間,同じ気持ちを保つことは至難の技だ。嘉風が出だし好調だったのに,中盤でくずれて,終盤にまた復調した。とりわけ,序盤に当たった日馬富士との目の醒めるような相撲が,わたしの脳裏に焼きついている。勝ち負けを度外視して,ああいう相撲をとる力士が好きだ。自分の持てる力を出し切ること,これが容易ではないのだ。だから,日馬富士を破ったこの一番は,恐らくかれの相撲人生のなかでのひとつの大きなエポックとなるだろう。来場所を期待したい。

 気がかりだったのは日馬富士の右足首の状態である。日替わりメニューのように,右足を使う相撲と,左足一本でとる相撲とが,目まぐるしく変わった。前半戦がとくに顕著だったが,後半戦でも左足一本で相撲をとる姿が目についた。とりわけ,琴奨菊との一番。右足で踏ん張って反撃にでる場面があったが,すぐに右足を浮かせてかばい,左足一本で抵抗したが,難なく寄り切られてしまった。そうかと思えば,鋭い立ち合いから一気に相手を押し込んで寄り切ってしまう相撲もある。しかし,右足首をかばうあまり,得意の左からの上手投げを繰り出すことができない日もあった。千秋楽の白鵬戦がそうだった。相手を押し込んでいるのに途中でやめてしまう。しかも,白鵬に左上手を与えないで右四つに組み止めた。いつもの日馬富士ならば,右から攻めておいて左上手投げを繰り出す場面なのに,右足首をかばってか動かない。わずかに左からの出し投げを打ったが,右からの圧力がかかっていないので半回転しただけで止まってしまった。それでも白鵬が右半身となる苦しい展開なのに,日馬富士はなにも仕掛けようとはしない。右足首をかばってか,じっと待つだけ。やがて,白鵬が左上手をつかむと,先場所と同じように上手投げ(下手ひねりとの合わせ技)で下した。日馬富士の転がり方まで,先場所とそっくりそのままだった。一瞬,「おやっ?」とわたしの脳裏に走るものがあった。そして,なるほど,と納得してしまった。相撲とはこういうものなのだ,と。詳しいことは書かない方がいいと思うので,やめておく。

 鶴竜は平常心にこだわりすぎ。横綱に駆け上がったときのような闘志が必要。白鵬戦でも充分に相手を攻めているのに,闘志の差で,最後は負けてしまった。来場所こそ闘志をもう少し全面に押し出して,相手を圧倒してほしい。それだけの力はもう充分についている。胸の筋肉もついてきた。もっと力強い,激しい相撲を期待したい。そうなったら手がつけられないほどの名横綱になれる,とわたしは予想している。

 情けなかったのは稀勢の里。強いのか,弱いのか,わけがわからない。たぶん,自分でもそう思っているのではないか,と思う。実際のところは知らないが,土俵態度から透けてみえてくるものは「蚤の心臓」の持ち主ではないか,ということ。かれこそ,勝負を度外視して,淡々と自分の相撲をとりきることに徹したら,相手はいやがるだろうに,と思う。結論を言えば,立ち合いが甘い。立ち合いで先手をとって自分充分の左四つに組み止めること。それがないので,相手に先手をとられ,上体を起こされてしまうと,意外にもろい。でもまあ,こういう力士もいてもいいのかな,とも思う。万年大関として。ときおり見せる力強い相撲。横綱をも圧倒してしまうような。それでいて下位の力士にころりと負けてしまうような。

 高安,妙義龍,などの活躍も目立った。来場所につながる相撲を取り切っていた。それに引き換え,大型力士がふがいなかった。稽古の問題なのか,こころの置き所の問題なのか,なぜか闘志が感じられなかった。それに比べると豪風の活躍は際立っていた。小型力士なのにベテランぶりを発揮して,土俵を湧かせた。

 以下は省略。そろそろ日馬富士の両足首が完治して,横綱に駆け上がってきたときのような,しびれるほどの「冴え」た相撲をみてみたい。今場所も何番かはあったが,あれでは瞬発芸の域をでない。もう少し攻防を見せた上で瞬時に繰り出されるアーティスティックな相撲を。スピードに乗った美しい相撲を。そういう相撲が見られれば,勝ち負けなどはどうでもいい,とわたしは考えている。相撲を鑑賞するということはそういうことではないのか,と。

 とりあえず,千秋楽の,あくまでもドグマティックな感想まで。

2014年7月27日日曜日

東京五輪施設巡りツアー(新建築家技術者集団主催)に参加してきました。

 結論から書いておきましょう。

 2020年の東京五輪計画はなにからなにまで,まことに杜撰そのものだ,ということです。

 まずは,開催期間の設定。2020年7月24日(金)~8月9日(日)。この期間が,日本では猛暑のつづく期間であることは,だれでも承知しています。それを身をもって体験してもらおう,というので今回の企画もその期間中である7月26日(土)に設定されました。予想どおり東京も猛暑に襲われました。みごとに企画が的中でした。ペットボトル2本を飲み干してもまだ足りませんでした。それも移動中は涼しいバスのなかであったにもかかわらず・・・・です。

 この期間について,東京五輪招致委員会は,例のIOC総会で,夏休みに入り行楽のシーズンのはじまる絶好の季節である,と嘯いたのです。この猛暑のなかでプレイする選手たちもさることながら,応援にかけつける外国の観光客も,そして,もちろん日本国民も(チケットが売れ残ると小中学生に動員がかかる)たいへんなことになること間違いなしです。1964年の東京五輪のときは,きちんとした判断が機能していて,10月10日という一年でもっとも晴れの多い特異日を開会式にもってきました。そして,文字通りのスポーツの季節のはじまり。

 しかも,7月末から8月はじめにかけては台風がやってくる確率がもっとも高い時期でもあります。こんなことは日本人の常識です。ですから,新国立競技場には「屋根」が不可欠ということになったのかもしれません。あの「屋根」は不要です。このことは,また,いつかしっかりと書いてみたいと思います。

 第二点は,東京ベイゾーンに東京五輪のための施設を集中的に新築する,という計画です。このこともざっくりと書いておきますが,結論からいえば,東京都の財政的課題の解消が最優先されている,ということです。ことの発端は,夢の島開発計画を石原知事が荒川修作に依頼したときからはじまります。最初,この二人は意気投合して,いっさいの構想を荒川修作に一任しました。荒川は喜んで,かなり情熱を傾けて,とても面白いアイディアの計画を10年かけて完成させました。しかし,石原知事はこの計画では金が儲からないという理由で,拒否してしまいました。荒川は怒って,東京都内で何回も講演をし,石原都知事を徹底的に批判しました。そのうちの一回をわたしは傍聴しています。ですから,荒川修作の計画のあらましは承知しています。また,関係の本もでていますので,そこでも確認しています。

 そこから方向転換をはかった石原知事は,東京都の保有する東京ベイゾーンの土地を売りに出しました。しかし,買い手がつきません。なぜなら,東京湾の埋め立てに従事したゼネコンは,その土地がどういうものかを熟知していたからです。最初の埋め立ては,都内からでてくる生ゴミをそのまま海に放り出して山をなし,その上に土をかぶせただけの土地です。ですから,しばしば有毒ガスが噴出したり,ときには火がついて燃え続けたりしました。しかし,いまではすっかり緑地化が進み,その影すら見えません。しかし,ゼネコンは動きません。

 そこへ東京五輪の招致が決まりました。これらの空き地に五輪用の競技施設を新築すれば,最大の難題が解消する,というわけです。あるいは,順序が逆で,これらの難題を解消するために五輪を招致することに全力を傾けた,ということの方が実態に近いと思います。

 こうして,晴海埠頭に予定されている選手村を中心にして,半径8㎞以内に,コンパクトに会場を集中させた東京五輪,というキャッチフレーズが生みだされます。しかし,その実態や背景を知るにつけ,世にも恐ろしい悪巧みが満載である,ということがわかってきます。

 たとえば,その選手村。晴海埠頭に隣接する一等地が,いまも空き地になっています。その理由は繰り返しません。しかも,この土地は,東京都の条例により,マンションのような人が住む建物は建てられないところです。いわゆる港湾地区は防潮堤の外側に位置するため,人間の居住以外の目的の建造物しか許されていません。そこに,五輪の選手村をつくる,というのです。明らかに,現状では都条例違反です。そのうち,例外措置をとることになるのでしょうが,それにしても「異常」というか,考えることが「狂気」に近いと言うほかはありません。

晴海埠頭のタワーの上から選手村予定地を見下ろす
この写真の左側に野球場が2面。その先は海です。
言ってみれば海抜0m地区です。

 こんなことをIOCが知ったら,あるいは,世界のトップ・アスリートが知ったら,どういうことになるのでしょうか。しかし,いずれは知られることになるのは必定です。五輪出場を辞退する選手もでてくることでしょう。北京大会のときにその前例がありました。しかし,事態は北京以上に深刻な問題です。大きな地震がくれば,まっさきに津波にさらされる場所です(晴海埠頭の隣ですから)。それに有毒ガスの噴出,地盤の液状化が追い打ちをかけてきます。

 東京都民が住むこともできない場所に,五輪の選手村をつくる,というのです。もはや,国際社会に向ける顔もありません。


 今回は,たった二つの話題で終わりにしますが,おいおい詳しい問題点などを書いてみたいと考えています。

 今回の企画は,新建築家技術者集団が主催したもので,わたしはネット上でこの情報を知り,大急ぎで申し込みをしました。すでに,40名の定員をオーバーしていましたが,特別の便宜をはかってくださって,参加可となりました。朝9時に千駄ヶ谷駅前集合。そこから霞ケ丘国立競技場周辺を歩いて見学(問題のポイントでは,適切な解説つき,これが素晴らしかった)。そのあと,絵画館前の駐車場からバスにのり,ツアーの開始。

 コースは駒沢オリンピック公園⇒大井スポーツ公園(昼食)⇒海の森・若洲経由⇒葛西臨海公園⇒夢の島公園⇒辰巳国際水泳場⇒晴海埠頭(選手村)⇒新橋駅・解散(打ち上げ)。

 今回のツアーでは,わたしの知らなかった情報がいっぱい得られ,とてもいい勉強になりました。こんごも追加の調査を加えた上で,東京五輪とはなにか,を考えていきたいと思います。

 以上,とりあえずのご報告まで。

2014年7月26日土曜日

三四郎池の正式名称は「育徳園心字池」。かつては加賀藩上屋敷の名園としてその名を馳せる。

 何年ぶりだろうか。東大の構内にある三四郎池を尋ねたのは。

 最初に尋ねたのは夏目漱石の小説『三四郎』を読んだときだ。まだ,学部の学生だったころのこと。その当時は,茗荷谷にある学生寮・三河郷友会に住んでいたので,本郷までひとりで歩いて行った。そのときの三四郎池は,周囲の木もそんなに繁茂していることもなく,池を取り巻いている周囲の高台から池全体を一望できたと記憶している。こじんまりとした清楚な感じの池だった。特別に手入れがしてあるというよりは,自然のまま放置されているような状態だった。1960年ころの話である。

 二度目に尋ねたのは,「文学にみるスポーツ」という雑誌連載を必死になって書いていたころのことである。1980年ころと記憶する。わたしが40歳を少しすぎたころだ。いつか『三四郎』を取り上げようと思っていたので,奈良から上京した折に,この池を一周してじっくりと観察した。このときも,まだ周囲の木はそれほど大きくもなく,池の全体がよく見えた。漱石の小説『三四郎』によれば,この池のすぐ近くの広場が運動場になっていて,そこで運動会が開催された,とある。だから,運動場がどこにあったのか必死になって探してみたが,それらしき広場はどこにもなく,すでに大きな建物が立ち並んでいた。

 こんどが三度目である。7月21日(月)に開催された美学会の国際シンポジウムが終わって,まだ日が高かったので,思い立って三四郎池に向かった。が,場所が思い出せない。前回から数えてみたら,もう35年も経過している。安田講堂の近くだったという記憶を頼りに,まずは安田講堂をめざす。意外にも,すっぽりとブルー・シートに覆われていていま修復工事の真っ最中。その前に立って周囲を見渡してみたら,正面右手にこんもりとした森がみえる。あれだな,という直感を信じてそこをめざす。まぎれもなく三四郎池だった。


 正面入口から入ってみて驚いた。周囲の樹木が繁茂していて池に覆い被さっているではないか。池の奥の方は見えない。周回道路を左にとってぐるりと廻ってみる。しかし,途中,池はほとんどみえない。ちょうど正面入口の反対側にきたところに池を鑑賞できるスペースとベンチがあった。そこから眺めてみても,池の一部が見えるだけである。


 この池はほとんどなんの手入れもされないまま放置されていたのか,と見受けられる。でも,ベンチなどは,むかしはなかったので,あとから設置したものらしい。しかし,池の周囲に繁茂する樹木は自然のままにまかせてあったようだ。とにかく,むかしはみえた池の全体像がまったくつかめない。部分を眺めて,これが三四郎池だったのか,とやや不満。

 でもベンチに座ってしばらくぼんやりと池を眺めてみる。そして,漱石の小説『三四郎』のいくつかのシーンを思い浮かべてみる。寺田寅彦をモデルとした物理学者が登場し,10分の1秒を計測することのできる時計を開発して,猛烈なスピードで走る「背の高い男」の記録をとっていたなぁ,その記録はのちに世界新記録であることを認証してもらうために,東大総長のサイン入りで証明書を作成し,アメリカのなんとかというスポーツ団体に送ったよなぁ,この「背の高い男」が日本の最初のオリンピック選手となり,スウェーデンのストックホルム大会に出場したんだよなぁ,その帰路にイギリスに滞在して大活躍をし,一躍有名となり,この男の名前をもらった競馬馬が大活躍したんだよなぁ,さらにこの馬はロシアに売られていって種牡馬として多くの子孫を残したんだよなァ,ところでこの「背の高い男」の本名はなんだったっけなぁ,たしか後に外交官として活躍した人物だったよなぁ,とかそんなことをつぎつぎに思い起こしながら,ひとときの至福の時を過ごした。

 ああ,やはりここにやってきてよかった,としみじみ思う。

 池を一周してもとの正面入口にくる。さきほどは見過ごしてしまったが,そのすぐ脇のところにきれいに磨かれた新しい御影石の碑が立っている。そこには,むかしの加賀藩上屋敷の育徳園という名の心字池であることが彫り込まれている。


 また,この碑の反対側には立て看板があって,この池にまつわる由来が書いてある。なるほど,なるほどと納得。


 たぶん,こんどが三四郎池の見納めだろうなぁ,という思いがちらりと脳裏をかすめていく。つぎにくることがあるとしたら,どういうタイミングの時なのだろうと想像してみても,もはや具体的なイメージは浮かんでこない。こうして,いよいよ「幕引き」の時が近づいてくるのだろうなぁ,と妙に実感をともなってくる。

 そうか,こうなったら「投企の時間」をそれとなく念頭に置いて,少しでも悔いのない濃密な時間をおくるべく,最後の精進をしなくては・・・・とそんなことをしみじみと思う。漱石の三四郎君は,若さゆえの「投企の時間」に思い悩んだ。人間が生きるということは,そういうことなんだ,と自分自身に言い聞かせてみる。少しだけ気持が晴れてきた。

 ひょっとしたら,意外にも,四度目の三四郎池訪問は,ただ,ここにきてベンチに座ることだけを目的にして・・・ということになるのかもしれない。なんとなくそんな予感がする。この鬱蒼と繁った樹木に包まれた三四郎池が,そんな風にわたしを誘惑しているようにも思う。

 さて,このさきどんな人生の展開が待っているのだろうか。漱石のように「則天去私」というわけにはいかないけれど・・・・・。まあ,それに似たような心構えだけはもちたいものである。

2014年7月25日金曜日

NHK籾井会長に辞職勧告が出されていることを知ってますか?と友人のKさんから。

 昨日(24日)のブログに,珍しく多くの友人から直接メールで感想が寄せられました。その中のひとつに「NHK籾井会長に辞職勧告が出されているのを知ってますか」というものがありました。いつもお世話になっている友人のKさんからです。わたしは知らなかったものですから,あわててネットで検索をかけてみました。ありました。7月18日付けの毎日新聞と朝日新聞の二社が,この情報を伝えていました。

 それらによりますと,以下のとおりです。
 NHKの退職者有志の人たち172名が連名で,籾井会長の辞職勧告を,任免権をもつNHKの経営委員会(浜田健一郎委員長)宛に提出した,ということです。籾井会長が応じない場合には罷免するよう求めている,とも。申しいれ者は元ディレクターで作家の小中陽太郎,フリーアナウンサーの山根基世さんら,計172名。7月末までに,全国のNHK退職者に呼びかけて1000名の署名を集める予定だという。

 「政府が『右』と言うものを『左』と言うわけにはいかない」という会長就任時の発言は,大きく報じられましたのでわたしたちも知るところとなりました。その後,謝罪会見やら,居直りやらがあって,世間を騒がせたこともみんなよく知っているところです。退職者有志の人たちはこの籾井会長の発言を問題視し,その姿勢がいまも改まっていない,と指摘。その姿勢は,NHKの使命である「政治的中立」に違反している,と辞職勧告書のなかで批判しているそうです。

 7月18日に辞職勧告書が提出されたとすれば,ちょうど一週間が経過。その間,水面下でいろいろの駆け引きが展開されていたのだろうなぁ,とこれわわたしの推測。問題の鍵を握っているのは,政府自民党。安倍首相の肝入りで就任した籾井会長。そんなにかんたんにおいそれとは引き下がるわけにはいかないでしょう。とりわけ,菅義偉官房長官は「クローズアップ現代」に出演したときの経緯もあり,相当の圧力をかけてくるのは必定。さて,間抜けのロボット・籾井会長が,どのような記者会見をするか,これはみものでしょう。

 苦慮を迫られるのは任免権をもつ経営委員会。このメンバーがどういう人で構成されているのか,ちょっと調べてみると面白いかもしれません。もちろん,この委員会にも政府自民党の息がかかっていることは想像に難くありません。しかし,仮に,1000人もの元NHK職員の署名を突きつけられたとしたら,問題はかんたんではありません。それにつづいてNHKの労働組合がどのような態度表明をするか,ここは一大決心をしてほしいと願うばかりです。仕上げは,市民団体が立ち上がり,援護射撃をすることでしょう。もうすでに,その準備も水面下で進んでいるのではないか,と密かに期待しています。

 もう一度,NHKが息を吹き返すか,ここは正念場です。
 まずは,小中陽太郎さん,山根基世さんらの踏ん張りに期待し,こころからのエールを送りたいと思います。

 以上,昨日のブログの捕捉まで。

2014年7月24日木曜日

NHK の凋落ぶりがこのところ目にあまる。もはや,その使命は終わったか。

 NHKの凋落ぶりがこのところ目を覆うばかりだ。日を追ってジャーナリズム精神を喪失し,無反省に堕落していく。政権党にここまで迎合しなくてはならないのか,と情けなくなる。やはり,受信料を払うのはやめよう。いまや,国家を没落させるための片棒を担いでいる「駕籠かき」と同じだ。そのまた片棒を担がされるのはごめんだ。それにしても,情けない。

 きっと,NHKのなかには優れたジャーナリズムの精神を身につけた立派な人たちもたくさんいらっしゃるに違いない。なのに,その人たちの口封じが徹底し,窓際に追いやられているのだろう。その顕著な例を昨夜(23日)のテレビでみてしまった。腹が立って腹が立って,許しがたい,と久しぶりにテレビに向かって吼えてしまった。

 その番組は,NHKとしては定番となっている「歴史秘話ヒストリア」。今回は「びわ湖と日本人驚きの秘話を徹底解明」▽湖畔に極楽浄土&幻の都?!偉人達の夢と信念」というもの。この番組表をみたときに,わたしのなかにある予感が走った。「ナヌウッ?なにをどこまで掘り下げるのかなぁ」「古代のびわ湖は謎だらけだからなぁ」という期待が一気にふくらんだ。

 しかし,この一話に関しては,ほとんどなんのコンセプトもない,単なる知識の断片の寄せ集め。それもきわめて低俗な,お粗末な内容。「内容がないよう!」などと駄洒落を言っている場合ではない。中学生向けの番組だとしてもお粗末。視聴者をバカにしている。

 取り上げられた話題を順にあげておくと以下のとおり。

 日本最大のパワースポット・竹生島(ちくぶじま),と冒頭でぶち上げ,これは?と期待を膨らませる。しかし,である。竹生島についての,単なる故事来歴を並べるだけで,なんの説得力もない。映像としての迫力もない。この程度なら,パワースポットのすごいところはほかにいくつもある。それらに比べたら平凡そのもの。じつは,全国に竹生島由来の神社があちこちに散在していることをわたしは知っている。そして,竹生島由来の民俗芸能も伝承されている。しかも,それらはみんな山奥の僻地に限られる。言ってみれば「隠れ里」。なぜか?この謎ときでもしてくれるのかと期待したのだが,一切,無視。それもそのはず,権力に抵抗した痕跡が残されていて,その「怨念」が秘められたパワーとなっているはずだ。だが,そのことに触れるわけにはいかない,とディレクターは判断したのであろう。だから,パワースポットのなんたるかは,なにも伝わってはこない。

 つづいて,なんの脈絡もなくいきなり,こんどは最澄さんをとりあげる。大津生まれで,延暦寺のもととなる一乗止観院を建てた,と。そこの御本尊は薬師如来。以後,蒲生寺にも薬師如来を祀る。びわ湖周辺に薬師如来を祀る寺が45カ所ある,と。薬師如来は東の浄土をおさめる仏さまで,ここにその信仰の拠点があった証拠だ,と。たったそれだけ。

 こんどはまた,なんの脈絡もなく,いきなりこの地に伝わる白髭縁起を紹介。これはびわ湖の神さまで,そのもとは猿田彦の神である,と。猿田彦の神は道案内の神さまとしてよく知られている,とたったそれだけ。

 と思っていたら,こんどは中大兄の皇子の話。大和から大津に都を移すときに大和の民衆の反対運動があったとか,近江大津宮を造営して都を移したがその跡地が見つからず,昭和45年の発掘で発見されたとか,そこにはオンドルの設備があったとか,ここで天智天皇を名乗ったとか,ここは高句麗との交易の拠点であったとか,最後には壬申の乱で,天武天皇に滅ぼされたとか,そんなありきたりな事実を列挙するのみ。なにが歴史秘話なのか,と腹が立ってくる。このあたりのことも,井上靖の小説にはもっともっと詳しく描かれていて,多くの人たちが熟知していることだ。それらを超え出てこそ「歴史秘話」ではないのか。

 最後は,これまた唐突に,松尾芭蕉の話。芭蕉はいたくこの地を気に入って,晩年の数年を過ごした,と。そのときに,びわ湖についてこんな俳句を残しているとか・・・・あとはどうでもいい芭蕉の話ばかり。つまり,みんな知っていることばかり。視聴者をバカにしているのか,と思ったらここでこの番組は終わり。

 つまり,この番組に一貫性がなにもないのである。びわ湖が日本最大のパワースポットだ,という断定をだれがしたのか,わたしは初耳だ。しかも,その理由・根拠はなにか,ということはなにも触れていない。そして,そのあとにつづく話題はいったいなんのためなのか,つまり,びわ湖にまつわるこんな話がありますということを列挙しただけの話。ならば継体天皇にまつわる話もすべきではなかったのか。びわ湖周辺を拠点にして,朝鮮半島との交易で財をなし,権力を握る地盤を固めたところという有力な説もある。しかし,この話も詳しく展開すると,現政権にとってきわめて都合の悪いところに行き着いてしまう。だから,外したに違いない,とわたしは推測する。

 こんななんの意味もない,つまり,視聴者になにごとかを考えさせる材料がなにもない,単なる与太話をなんの意図もなく集めてきて,そのまま番組にして,それを垂れ流して平気でいられるNHKの制作部の幹部の人たちは,いったい,なにを考えているのか。びわ湖の古代は,ほじればほじるほど朝鮮半島との関係が露呈してくるはず。そのことも充分承知の上で,そういう危ない話はそうっと避けてとおって,どうでもいい話を列挙して「歴史秘話」だという。こんなことは秘話でもなんでもない。時間の無駄だ。

 しばらく前までは,少なくとも第二次アベ政権が誕生する前までは,かなりヘビーな番組があった。つまり,政治の問題も含めて,徹底的に分析をし,どこにどのような問題があるのかを提示し,視聴者に感動を与え,しかも,じっくりと考えさせる番組がいくつもあった。それらが一斉に姿を消してしまった。少なくとも,国民の多くが,もっとも信頼して見ているであろうNHK第一ではそうだ。だから,困ったことなのだ。

 NHKはもはやその本来の使命を終えてしまった。残念ながら,そう言わざるをえない。
 悔しかったら,イスラエルが侵攻したパレスチナのガザ地区で起きていることを,つまり,イスラエルによる武器もなにも持たないパレスチナの一般市民を対象にした,極悪非道の「人殺し」の現実を,しかも,日々その死者が増え続けている現実を,毎日,ニュース番組のトップ情報として伝えてみるがいい。そして,そのイスラエルに武器を輸出しようとしているアベ君の非常識を批判してみるがいい。それでこそ,国民のための有料放送としての資格が担保されるというものだ。

 こうして,日本国の「破局」(カタストロフィ)のときが,ますます近づいてくる。
 かくなる上は,ジャン=ピエール・デュピュイの本(たとえば『聖なるものの刻印』『ツナミの小形而上学』など)をよく読んで,「破局」を遠ざける方途を考え,実行していく以外にはなさそうだ。まことに重い課題がわたしたちに覆い被さってきている。



 

サッカーW杯,今福龍太さんの意見に賛成。

 いつも同じことを感じてきましたが,オリンピックにしろ,サッカーW杯にしろ,台風一過。嵐のような熱狂がまるで嘘のように,ケロリとして日常にもどり,いつもの生活をはじめています。やっと睡眠不足から解放されてやれやれとでも言うかのように。

 それに便乗したメディアも同罪です。サッカーW杯の熱狂を煽り立て,まるで日本が優勝候補の一角をになっているかのような幻想を撒き散らしました。本田選手の口から「優勝」のことばがでたとき,わたしはすっかり興ざめしていました。なにを勘違いしているのか,と。世界ランキング45位の日本チームが,と。しかし,メディアは喜んで,この本田選手のことばを言挙げして,さらに熱狂を煽り立てました。単なる「金儲け」のために。

 このサッカーW杯開催期間中には,政府自民党がますます独裁化に向かって「暴走」をつづけているというのに,そして,世界でも大きなできごとが続発しているというのに,それらには「蓋」をしたままメディアもまたサッカーW杯の熱狂に浸りこんでいました。こうして,メディアと国民が一体となって,ますます「無思考」となり,従順な民となる,まさに政権党の思うツボ。

 サッカーW杯の報道もひどいものでした。わたしはニュースでしかサッカーW杯をみていませんが,それだけに報道の内容のお粗末さが際立ってみえてきました。そこには,サッカーを「批評」する精神はゼロ(0)。ただ,ひたすら勝ち負けだけに焦点を当てた「評論」ばかり,その勝ち負けにどの選手がどのように貢献したか,ということばかりが垂れ流しにされていました。しかも,決定的なシーンはどのテレビ局も同じものの繰り返し。ただ,そこだけがクローズアップされ,サッカーのもつ本質を考えようという姿勢は微塵もありませんでした。

 その点,朝日新聞と読売新聞に掲載された今福龍太氏のコラム記事は,その批評性という意味で際立っていました。まず,最初に登場したのが,日本が予選リーグで敗退した直後のものです。その記事が以下のものです。


 サッカーに限らず,近代スポーツ競技における「勝利至上主義」がいかなる役割をはたしてきたか,はいまさら取り立てて言うまでもないことではありますが,あえて言わせてもらいます。それはこんにちの産業経済社会の「優勝劣敗主義」という考え方を正当化し,合理化する上で,ほかのどの文化よりも大きな貢献をしたのが,サッカーを筆頭とする近代スポーツ競技です。

 このことを今福さんは,もうずっと以前から危惧し,サッカー批評を展開してこられました。その金字塔ともいうべき名著が『ブラジルのホモ・ルーデンス』──サッカー批評原論(月曜社,2008年刊)です。この本を読んだ人からすれば,上の朝日新聞の記事の背景には,今福さんの透徹した深い思想・哲学があっての発言であることが,痛いほど伝わってくることでしょう。そして,勝利至上主義という考え方が,いかにサッカーの本質から逸脱しているかがわかってくることでしょう。その詳細については割愛させていただきます(もし,興味のある方は上記の著書のほかに,『近代スポーツのミッションは終わったか』,西谷修,今福龍太,稲垣正浩共著,平凡社刊を参照してください)。

 今福さんはサッカーW杯が終わったときに,こんどは読売新聞社の求めに応じて短いコメントを寄せています。それが以下のものです。


 ここにも今福さんの持論が展開されています。ここではスペースの関係で,きわめて圧縮したかたちで,ブラジルの「偶然性の原理」とドイツの「合理性の原理」の問題が論じられています。そして,「合理性」を追求する流れが世界を支配することになりそうだ,と危惧していらっしゃいます。なぜなら,そのさきに透けてみえてくるものは,選手としての人間性はどこかに追いやられ,勝利のためにのみ貢献する単なるサイボーグ(ロボット,道具)と化してしまう,そのことを恐れるからです。「偶然性」は人生そのものです。ブラジルの人たちは,サッカーを「人生」そのものの映し鏡だとみていて,瞬間瞬間に表出する選手たちの機知に富んだ,美しいプレイに一喜一憂しているのです。これこそがサッカーの本質なのだ,と今福さんは仰います。

 もし,そういうブラジル型のサッカーがドイツ型のサッカーに押しつぶされていくとしたら,それこそが「世界の危機」だと断言されています。こうしたロジックの詳細を知りたい方は,以下のサイトでご確認ください。 「ブラジルサッカー惨敗にみる世界の危機」というテーマで今福さんを挟んで2人の論者と議論を展開しています。

http://www. videonews.com/

 長くなってしまいましたので,今日のブログはこの辺でおわりとさせていただきます。ビデオニュースの内容については,また,機会をあらためて書いてみたいと思っています。

2014年7月23日水曜日

ちかごろ上空がやたらとうるさい。オスプレイ飛行訓練のための地ならしか。

 じつは,しばらく前から上空の騒音がうるさいと感じていました。しかし,その頻度はまだ許容範囲でした。ときおり,耳を引き裂くような轟音の飛行機が,低空で通りすぎていきます。それは,なにごとか緊急事態でも起きたのかと心配になるほどのものです。

 ヘリコプターは,時折,なにか事件がおきると上空を何機も飛来することがあります。これは音でわかります。火事か,大きな交通事故か,といった類のものがほとんどです。しかし,ヘリコプターではない飛行機が低空で通過するのです。民間の旅客機は,よほどのことがないかぎり高度1万メートル前後の高さで飛んでいますので,その音はほとんど聞こえません。が,最近,飛んでいる飛行機は低空飛行です。

 これは自衛隊の飛行機なのだろうか,それともアメリカ軍の軍用機なのだろうか。わたしには区別がつきません。が,いずれにしても,とにかく驚くべき轟音です。びっくりして音のする方を追ってみますが,その姿を見かけたことはほとんどありません。なぜなら,雲が低く垂れ込めた日に飛来することが多いからです。どうやら,雲に隠れるようにして低空飛行の訓練をしているように思えてなりません。

 そこで気になるのはオスプレイです。このところ全国展開の様相をみせ,沖縄や岩国だけではなく,とうとう関西を超えて関東への飛来し,ついには北海道にまで達しています。わたしの住んでいるところは厚木基地や横田基地に近いので,これからオスプレイが飛行訓練をする可能性はきわめて高いと思われます。だとすれば,一般市民の間に,いまのうちに轟音に対する免疫をつくっておく必要がある,とオスプレイの飛行訓練を計画している関係者が考えたとしてもおかしくはありません。その延長線上での,最近の轟音なのかなぁ,と勘繰ったりしています。

 つい最近,以下のようなFB情報に出会い,大きな衝撃を受けています。

 蓮見唯香 @YUIKA322 2014/07/17 16:05
 オスプレイ原価5億円を,アメリカは15億円で買い,イスラエルは30億円で買った。それを日本は100億円で買うそうです!!17機で1700億円!!冗談じゃない・・・・。いますぐ増税しないと国家破綻すると言ってる国がよくもまぁ金あるな!?日本はアメリカの下ろし放題のATMだ。

 原価5億円のオスプレイを日本は100億円で購入するとか,これはいったいどういうことなのか,と唖然としてしまいます。これはどうみても政治的な取引であって,尋常の商行為ではありえません。このこと事態が異常というか,いやいやもはや狂気としかいいようがありません。こんなことが平然と行われようとしている,というのです。

 加えて,17機ものオスプレイを購入すれば,あちこちで飛行訓練をすることになるのは必定でしょう。当然のことながら,厚木や横田にも常時やってくるでしょう。すると,この辺りは多摩川があって,低空飛行訓練には最適です。そして,この川を遡っていけばすぐに奥多摩に至ります。多摩丘陵や丹沢山塊もすぐ近くに位置します。入り組んだ山岳地帯の飛行訓練にも適しています。困ったことに条件が整いすぎています。

 ですから,日毎に頻度が高くなってくる上空の騒音(轟音)が気がかりでなりません。この轟音が,いつの日にか,近い将来,オスプレイの轟音にとって代わるのでは・・・・と。

 もちろん,こんなことがあってはならないし,ならせてもいけない,と考えています。が,いまの政府の狂気は,こんなことはあって当たり前のようにして,ことを推し進めようとしています。なにせ,戦争がしたくて仕方のない政権のリーダーが,その気満々なのですから・・・。しかも,アメリカとの密約をとおして・・・。

 やはり,この政権は一刻も早く退陣してもらわなくてはなりません。そうなるべく,われわれみんなが力を合わせなくてはなりません。もっと町にでて,行動を起こしましょう。国会周辺にもでかけましょう。一人でもいい,二人でもいい,でかけましょう。毎日,なんらかの抗議集会が開かれています。集会がなかったら,大きな声で「アベシン,ヤメロッ!」と吼えてきましょう。あるいは,機動隊員はかならずいますので,その人たちに話しかけてみましょう。道でも聞くふりをして,「アンタタチハナニヲシテルノ?」と。応答してくれたら,そこから踏み込んだ話をしてみると,時折,「わたしも同感です」という隊員に出会うことがあります。

 最大の決め手は,何回も書いていますが,10月の福島県知事選挙,11月の沖縄県知事選挙になるでしょう。ここをなんとか闘い抜いて政権党の候補を敗北に追い込むこと,ここがポイントとなるでしょう。そのほかにも,公明党が集団的自衛権のおよぶ範囲の違いに目覚め,自民党との対決姿勢を強め,最終的には自民党からの離脱を決意するよう,われわれの方から働きかけることも重要だと思っています。いずれにしても,政権党を退陣に追い込む手立てをつぎつぎに考えていくことが必要でしょう。

 そんなことを,ちかごろの上空の轟音が響きわたるたびに考えさせられています。

2014年7月22日火曜日

いま,ガザで起きていることはイスラエルによる人殺しだ。日本もそれに加担している加害国だ。

 いま,パレスチナのガザ地区で起きていることは,イスラエルによる無差別殺人だ。空爆だけでは飽き足らなくなり,ついに地上軍を送り込んだ。そして,目の前に現れるパレスチナ人は,老人も子どもも女性も,一切の区別なしに皆殺しにしている。ジェノサイドそのものだ。死亡者の数も日毎に増えており,とどまるところを知らない。

 この事実を日本の主流メディアはほとんど報道しない。もし,取り上げたとしても,とってつけたようなほんのわずかな情報でしかない。だから,多くの日本人は「なにか,また,あの辺で揉めているらしい」くらいの認識しかない。この人道上,許せないイスラエルの行動を,もっと批判的に取り上げ,論評すべきなのに・・・・。なぜ,日本の主流メディアはこの問題を積極的に取り上げようとはしないのか。

 それはアメリカに対する「自発的隷従」か。いやいや,日本政府による強烈なプレッシャーがかかっているからだ,というべきだろう。

 なぜなら,アメリカがイスラエルを支援し,大量の武器も供与しているからだ。つまり,日本は,そのアメリカの属国に成り下がっているので(日米安保条約は名ばかりで,その実態は属国),アメリカのいうとおりに行動するしかないのだ。ということは,日本もまたパレスチナ人虐殺に加担しているということだ。

 日本のジャーナリズムがまともに機能すれば,この事実をとりあげ,論評しなくてはならなくなる。日本政府はそのことを熟知しているので,先手を打って,メディアにプレッシャーをかけつづけているのだ。NHKを筆頭に,政府による言論統制が日毎に強化されている。その事実は,NHKのニュース番組をみていれば明々白々だ。政府にとって都合のわるい情報はほとんど流さない。もし,流したとしてもほんのわずかだけ。あとは,別の情報でそれに蓋をしてしまう。いな,むしろ,政府の異常な行動を,さも正当な行動であるかのごとく擁護している。

 その典型的な事例のひとつが,集団的自衛権の行使・容認の話題だ。NHKが流す情報は,そのほとんどが安倍首相の発言だ。首相はこう言った,こう言っている,ということの繰り返しだ。そして,耳にタコができるほど聞く「国民の命と安全を守るために」を繰り返す。戦争ができる国にすることが,なぜ,「国民の命と安全を守る」ことになるのか。ますます,国民の命が犠牲にされ,安全を脅かされる国になるというのに。本気で「国民の命と安全を守る」のであれば,現行の個別的自衛権だけで充分だ。

 イスラエルが,パレスチナではなく,別の国と戦闘状態に入れば,日本は自衛隊という名の「軍隊」を送り込むことは必定だ。なぜなら,イスラエルが脅かされるということは日本もまた脅かされることになるからだ。そのときには,日米同盟が機能して,率先して日本軍はイスラエル支援に走ることになるだろう。

 なお,断っておけば,パレスチナには空軍も海軍も陸軍ももたない,非戦闘国家であるということだ。だから,ゲリラ的に抵抗の姿勢を示すしか方法はないのだ。言ってみれば,徒手空拳国家パレスチナを相手に,アメリカの武器供与を支えにイスラエルは一方的に,やりたい放題の「人殺し」を行っているのだ。

 かつて,ドイツ・ヒトラーに苦しめられたアウシュヴィッツなどの「暴力」以上の,とんでもない「暴力」が,いま,みずからの手で実行に移されているのだ。しかも,何年にもわたって。こんなことがいつまでも許されるはずはないのに。それを止めようとはしないアメリカという国が,なにを考えているかも,透けてみえてくる。つまり,アメリカは世界最大のテロリスト国家である,ということだ。アフガニスタン,イラク,などへの介入はそのなによりの証拠だ。そして,その介入の後始末もしないで,面倒になればその責任を放棄する。

 日本はそういう国家の手先の駒のひとつに,率先してなろうとしているのだ。それが集団的自衛権の行使・容認の裏事情なのだ。

 日本の主流メディアは蓋をしようとしている「ガザ」の問題は,日々,インターネット上に氾濫している。外国の主流メディアの情報も,インターネットをとおして確認することもできる。危ない情報もあるが,信頼に足る情報も慎重に探せば,いくらでも見つかる。また,日本のメディアが無視する日本を代表するような識者の見解も,インターネットをとおして読むことができる。

 そうした信頼に足る情報については,わたしのFBでも毎日シェアして公開しているので,参照していただきたい。ここでは語れなかった「生情報」が満載である。

 日本のメディアと世界のメディアの間にある,ジャーナリズムのもつ批評精神のこのあまりにも大きな格差を知るだけでも,大いに勉強になる。井の中の蛙にならないよう,視野を広くもつこと,これこそがいまの日本人には求められているのだ。

 つい興奮してしまって,話があちこちに飛んでしまったが,意とするところをおくみ取りいただければ幸いである。

 最後にひとこと。日本もまたパレスチナ人虐殺に加担している。だからといってなにもできない。が,少なくとも,パレスチナ人を悼むこころを。

国際シンポジウム「都市と建築の美学──新国立競技場問題を契機に」(主催・美学会)を傍聴してきました。

 表題のシンポジウムがあるということを20日の橋本一径さんのFBで知りました。新国立競技場問題を美学会がとりあげ,国際シンポジウムをやるということに,わたしはある種の衝撃を受けました。美学会が,どのようなアングルからこの問題をとりあげ,議論しようとしているのか,いまひとつピンとこなかっただけではなく,その美学会までもがこの問題をとりあげ,その問題の所在を明らかにしようとしているという事実に,少なからぬショックを受けました。

 なぜなら,わたしの所属しているスポーツ史学会の理事会が,この問題についてどのような関心を示しているか,そして,どのように対応しようとしているか,という議論がなされているのだろうか,と。少なくとも,現段階ではそのような議論があったとは聞いていないからです。もちろん,わたし自身もスポーツ史学会理事会に対してなんの働きかけもしてこなかったことに,いささか後ろめたさを感じないわけにはいきませんが・・・・。

 ならば,いまからでも遅くはないではないか,と。美学会がとりあげてくれているのに,スポーツ史学会がなにもしないでいていいのだろうか,と。

 そんなことを考えながら,会場の東京大学文学部法文二号館一番大教室に押っ取り刀で駆けつけました。目玉は槙文彦さんの基調講演「都市から建築を,建築から都市を考える」と司会の岡田温司さんの議論の裁き方,と狙いを定めていました。そして,美学という視点から新国立競技場問題がどのように分析されるのか,3人のシンポジストにも期待してでかけました。



 予想どおり,槙文彦さんのお話はみごとでした。建築家の立場から,きわめて冷静に,わかりやすく問題の所在を明らかにされ(これまでに書かれた論文で承知していましたが,それにもましてみごと),原案を一度,ご破算にして,仕切り直しをすべきだ,と提言されました。そして,最後に,この原案で建て替えがなされるとすれば,これは「日本の悲劇」である,と。そして,同時にこれは「外国の喜劇」である,と。

 槙文彦さんのお話の内容を,いま,ここで書くにはスペースが足りませんので,また,機会を改めて書くことにします。問題の根幹だけ書いておきますと,コンペの募集要項からしてまことに「雑」であったこと,加えて審議過程もいい加減,その意味では最優秀賞に選ばれたザハさんは被害者だ,ということ。そして,この責任をとる人を特定できない(みんな責任逃れをして,おれではない,と他者になすりつける体質・体制に大きな問題がある)こと。これはこんにち展開されている政治の手法とそっくり同じだ,とも。

 司会の岡田温司さんとは久しぶりの対面。数年前に神戸大学で開催された日本記号論学会でお会いして以来のことです。そのときの学会のテーマは「判定の記号論」。で,裁判,宗教,スポーツの三つのセクションのうちの,岡田さんは宗教のセクション(「最後の審判」)で,わたしはスポーツのセクション(「スポーツの判定」)で問題提起をし,議論をさせていただきました。そのときの岡田さんの機関銃を撃ちまくるような,猛烈なスピードでまくし立てる語りが強烈な印象として残っていました。そして,その後の数年の間に,どれだけの著作を世に問うたことか,その驚異的なご活躍に驚きもし,畏敬の念をいだきもし,別格の注目をしてきました。

 そんなご縁もあって,岡田さんの司会者としての裁きぶりを期待していました。記号論学会のときには,派手なシャツに真っ赤なパンツ,そして,しゃんとした姿勢と溌剌とした歩き方をなさっていました。が,この数年の間の時間が岡田さんに大きな変化をもたらしたようで,わたしにはまるで別人にみえました。個性的な頭髪とくりくりとした目は以前のままでしたが,髭をつけ(これがシルバー),黒ぶちの眼鏡をかけ,おしゃれなスーツ姿で身を固め,相変わらず格好よさが目立ちましたが,なんと背中が丸くなっていて,話し方も物静か,いささか意表を突かれた思いでした。つまり,ごくふつうの学者さんになりきっていらっしゃる,と。

 ですから,槙さんの素晴らしい基調講演につづいて登壇したシンポジストたちの,こんな言い方をするとまことに失礼ではありますが,あまりに凡庸な話の内容とそれにつけた司会者としてのコメントもありきたり。なかには,わたしとしては許しがたい発言をされたシンポジストもいらっしゃいました。もちろん,じっとがまんして耳を傾けましたが。結論だけ述べておけば,「美学」の視点がどこにも見当たらない,ひたすら,自分の専門領域の,狭い砦のなかに立て籠もった立ち位置からの発言ばかりでした。しかも,これらのシンポジストのなかには美学の専門家はひとりもいらっしゃらない,という不思議な構成になっていました。

 わたしは大いに失望。ただ,槙文彦さんのお話をうかがうことができたことだけが大いなる収穫でした。このお話だけを,別途,このブログで紹介したいと思います。とりあえず,今日のところは,ざっくばらんなわたしの傍聴印象記ということでお許しください。

2014年7月21日月曜日

J-P・デュピュイによるサッカーW杯ブラジル大会についてのコメント(森元庸介・談)。

 19日の「ISC・21」7月東京例会・第二部の最後のところで,ちょっと意表をつく面白い話題が展開しました。それはJ-P・デュピュイの人柄についての話題でした。そのきっかけをつくったのは,西谷さんと高校時代からの友人であるFさんでした。

 Fさんは,西谷さんのお話を聞いて,J-P・デュピュイについての疑問の多くは氷解したので,とてもありがたかった,と述べた上で,J-P・デュピュイとはどんなお人柄なのか,それを知りたいと注文を出しました。わたしとしては,あっ,そうか,と納得はしましたが,いささか意表を突かれた思いでした。つまり,とてもいい問いだ,という意味です。それを受けて西谷さんは,とてもフランクで,偉ぶるところがなく,気さくに話ができる人で,わたしとしては多くの点でシンパシイを感ずる,とてもいい人だと思っています,と応答。そして,フランスには大御所と呼ばれている著名な学者がたくさんいますが,そのほとんどの人たちがそれなりに偉ぶった態度をとっているが,J-P・デュピュイはそれらの人たちとはまったく違う種類の,ごく普通の人間です,と。しかも,ざっくばらんです。ですから,むかしからの顔なじみであるかのように,初対面から親しげに会話のできる人です,と。しかし,こと研究に関してはとても繊細な一種独特の感覚をもっていて,きわめて厳格な真理の探求者です,と応答。

 つづけて,訳者のお一人である渡名喜庸哲さんは,J-P・デュピュイさんが日本に来られたときに,行動を共にしたときのお話をしてくださいました。たとえば,大きなトランクを持ちましょうというと,いや,大丈夫だ,と言って自分で運んでいたこと,寿司が大好きで,それもスーパーで売っている寿司を「とても美味しい」と言って喜んで食べていたこと,というエピソードを語ってくださいました。

 最後に,同じ訳者のお一人である森元さんが,ちょっと話題からずれるかもしれませんが,と前置きして,つぎのような話題を提供してくださいました。それは,デュピュイがフランスの新聞「ル・モンド」に書いたサッカーW杯ブラジル大会に関する記事の話でした。デュピュイの奥さんはブラジルの人ですので,フランスとブラジルの間をしばしば往来していて,ブラジルのサッカーについても熟知しているのだそうです。ですから,フランスのメディアや知識人たちが,ブラジル人はW杯に金を使うよりも教育や医療に金をまわせ,という主張が根強くあると物知り顔でいうが,そんなプロパガンダに乗せられている愚かさを「ちゃんちゃら可笑しい」と痛烈に批判している,と。ブラジル人にとってのサッカーはフランス人のような趣味的な娯楽といったレベルの問題ではなく,サッカーは日々の生活を活性化させる生きがいなのだ,そのことが少しもわかっていない,と。さらに,ブラジルは治安が悪く,殺人事件も多い,とメディアが報じているが,これも大きな間違いだ,という。そして,殺人事件のほとんどは名誉や愛情のもつれから起きているのであって,それはむしろ称賛すべきことだ,と書いている,とのことです。しかも,こんな悪しきプロパガンダがさも当然であるかのごとく出回っていること自体が問題だ,とも。こんなところにも,デュピュイの面目躍如たるものがみてとれる,と森元さんは仰る。

 そういえば,日本のメディアも識者も同じようなプロパガンダを垂れ流しています。ですから,わたしも恥ずかしながら,ブラジルは治安が悪く,W杯開催よりも教育・医療に金を使うべきだ,という情報を信じていました。ですから,森元さんのお話をうかがって,びっくりでした。これからはもっと慎重であらねば・・・と深く反省させられました。

 これらのお話は,デュピュイ理解のためには,とても重要なお話だと思いました。これで,デュピュイという人物がテクストから受ける謹厳実直な学者さんという印象と同時に,日常生活のレベルではとても身近に感じられる,親しささえが感じられるようになりました。その意味で,Fさんの問いはクリーン・ヒットだった,と感謝しています。

 こんなことを知った上で,もう一度,テクストを読んでみたら,また,違った発見があるのではないかと楽しみになってきました。

 以上,もうひとつのJ-P・デュピュイの顔についてのご報告まで。

2014年7月20日日曜日

「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」。西谷修講演に感動の涙。

 昨日(19日),かねてから準備を進めてきました「ISC・21」7月東京例会を予定どおり開催。感動のうちに無事,終了しました。とりわけ,第二部に用意しましたプログラム「J-P・デュピュイ『聖なるものの刻印』をどう読むか」(西谷修)は予想をはるかに超える感動的な内容でした。わたしは思わず涙が出そうになってしまいました。

 それは長い間,わたしのなかにふつふつと沸き上がっていた大きな疑問が一気に解消されたからです。それは,なぜ,西洋の哲学は,人間存在の様態について半分しか思考の対象にしてこなかったのか,という疑問です。つまり,ヘーゲルに代表されるように人間の「精神現象」にのみ光を当てることに熱心で,なぜ,その光の影の部分に相当する人間の「動物性(=生殖を営む生き物)」をめぐる問題系を排除してきたのか,という疑問です。

 もう少しだけ踏み込んでおきますと,わたし自身の思想遍歴がその背景にはあります。わたしを思想・哲学の領域に導いてくださったのは西谷修さんでした。西谷さんが若いころから取り組んでこられたフランス現代思想の翻訳(レヴィナス,バタイユ,ナンシー,など)や著作(たとえば『不死のワンダーランド』など)にぐいぐいと引きつけられ,夢中になって読み耽りました。とりわけ,西谷さんの多くのお仕事のなかでは,バタイユの思想・哲学がわたしにはもっとも親近感を覚えるものでした。

 そして,ひととおりバタイユの著作に没頭して読みふけった時代がありました。なかでも,もっとも衝撃的だったのは小説『眼球たん』でした。そこには理性によるコントロールから解き放たれた人間の自由奔放な「生」(「性」も)が剥き出しに描き出されていたからです。そして,なぜ,バタイユはこのような小説を,まだ若いときに書いたのだろうか,と考えました。

 そして,当然のごとく『エロチシズム』や『エロチシズムの歴史』といった著作を,丹念に読むことになりました。そうして徐々に,なぜ,バタイユが『眼球たん』を書いたのか,その理由がみえてきました。そして,さらには,『有用性の限界 呪われた部分』で,その根拠となる思想的背景がみえてきました。最終的に,わたしなりに納得したのは『宗教の理論』でした。つまり,動物性の世界から人間性の世界へと<横滑り>して,徐々に,人間としての生き方を模索していく,その過程で人間は「宗教的なるもの」を思い描き,みずからを納得させる文化装置を考案していきます。そして,その過程で,動物性は徐々に封じこめられ,エロスの世界は次第に秘め事へと移行していきます。この流れがそのまま哲学にも引き継がれ,西洋形而上学となってこんにちに至る,というのがわたしの理解であったわけです。

 ですから,これでは片手落ちではないか,と。人間の存在様態について,存在論も認識論も,その半分しか思考の対象にしてこなかったのはなぜなのか,と。

 このわたしの長年の疑問に,西谷さんはデュピュイ読解をとおして,もののみごとに応答してくださいました。それも,この講演の最後のクライマックスをなす,もっとも重要な結論として,西谷さんは声高らかに宣言されたのです。それがこのブログの見出しに書いたことがらです。もう一度,繰り返します。すなわち,「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」,と。そして,その理由について,西洋形而上学を俎上に乗せ,わかりやすく丁寧に説明をしてくださいました。

 その典型が,ヘーゲルの哲学である,と。ヘーゲルの哲学は合理性の哲学(内在の哲学)であり,それ以外のものはすべて闇のなかに封じ込めてしまったのだ,と。このヘーゲル哲学が近代合理主義を正当化し,のみならず科学的合理性こそが唯一絶対に正しいのだとする神話を生みだしたのだ,と。したがって,「人間は生殖によって継起する生き物だ」という認識が,科学的合理性からはすっぽりと抜け落ちてしまい,盲目のまま暴走している,この盲目的暴走がこんにちの悲劇や破局を生みだしているのだ,と。

 こうして,西谷さんのお話が,最後の佳境に入ったとき,わたしはバタイユのことを思い浮かべ,涙があふれそうになったという次第です。その理由は,ヘーゲル哲学の限界をいちはやく予見したバタイユは,徹底的にヘーゲル哲学を研究し,分析し,その限界を見極めた上で,ヘーゲル的「知」(絶対知)に対して,その対極に位置する「非-知」という概念を立ち上げ,そこからすべての議論を開始します。かくしてバタイユの一連の著作集(無神学大全・未完)が誕生するというわけです。『宗教の理論』はその集大成ともいうべき作品だと,わたしは考えています。

 そうか,バタイユの思想・哲学のほんとうの評価は,まだまだこれからさきのことだ,と直感したこと,そして,これまで苦労してバタイユと格闘してきたことが無意味ではなかった,と知った瞬間です。わたしが涙しそうになったのは。

 7月19日は,わたしの生涯にとって,大事なメモリアル・デーとなりました。
 その意味で,西谷さんには感謝の気持でいっぱいです。ありがとうございました。

 これで,もやもやが吹っ切れて,いよいよ「スポーツ批評」の世界に一歩踏み出すことができる,と確信しました。あとは実行あるのみです。

 西谷さんはこの講演のなかで,生涯現役を宣言されました。その西谷さんは,わたしに対してはそろそろ「幕引き」のことを考えなくてはいけない,と迫っています。いえいえ,わたしもまた生涯現役を貫きたいと念じている者の一人です。もうしばらくの間,見守っていてくださるようお願いします。ということも含めて,いやはや大変な一日となりました。ありがたいことです。これでまた一皮剥けて,別人に生まれ変わったような気分です。

 これでますます元気になっていくぞ,と気分をよくしています。そうなることを願いつつ・・・,今日のブログを閉じたいと思います。

2014年7月17日木曜日

「遊びごころ」をもちなさい。李自力語録・その48。

 このところ,毎回のように,李老師から,「肩の力を抜きなさい」「重心は高くてもいい」「安定させなさい」「顔に笑みを浮かべなさい」「気持を楽にしなさい」「ゆったりと動きなさい」と指摘されています。今日は,これらに加えて「遊びごころを持ちなさい」と言われました。

 これらはみんなわたしのからだのことを気遣ってのことであると承知してきましたが,どうもそれだけではなさそうだ,ということが今日の稽古でわかってきました。李老師はどうやらわたしたちの技量をもうワンランク上のレベルに引き上げようとされているのでは・・・・と感じられたからです。なぜなら,「遊びごころ」を持つということは,基本をしっかりと身につけた上で,相当に動作が仕上がってこなくてはできない芸当だからです。

 以前にも書きましたが,わたしは若いころに体操競技をやっていましたので,いまもその時の身体感覚が残っています。しかし,この身体感覚は,太極拳をするときの身体感覚とはまったく正反対のものです。つまり,片時も力を抜くことなく,つねに,からだのすみずみにまで神経をゆきわたらせ,美しい身体の「線」を描き出すことに専念します。ところが,太極拳では必要最小限の力だけを残して,あとは可能なかぎり力を抜きなさい,と毎回,繰り返し教えられています。

 にもかかわらず,いまだにそれがうまくできません。自分では力を抜いているつもりなのですが,どうも,そうではないようです。まだまだ足りないということのようです。もっと抜け,と李老師は仰る。そして,とうとう「遊びごころ」をもちなさい,と指示されることになってしまいました。このことの意味は,意識を別のところに向けることによって,結果的に本来の目的を達成する,ということにあります。つまり,運動課題(Bewegungsaufgabe)の提示です。

 運動課題の提示は,どうしてもからだの力みが抜けないと指導者が見極めたときに,それとはまったく関係がないと思われるような課題,すなわち「遊びごころ」という課題を提示することです。たとえば,音楽に合わせて鼻唄でも歌いながら,太極拳の動作をしなさい,と。すると,意識が音楽の流れに乗るだけではなく,気持も楽になってきます。その楽になった気分に合わせて気の向くままに鼻唄でも歌いなさい,というわけです。すると,気づけばからだの力が抜けている,ということを最終目的とするものです。

 まあ,一種のフェイントのようなものでもあります。自分自身を暗示にかけているようなものでもあります。しかし,これは意外に効果があるということは,体操競技でも体験していますので,よくわかります。残るわたしの課題は,太極拳の稽古にそれをアレンジすることです。

 こうなったら,しばらくの間は,「遊びごころ」「遊びごころ」と念仏のように唱えながら,意識をそちらに向けて稽古に励んでみたいと思います。さてはて,このさきにどのような太極拳の境地が待ち受けているのでしょうか。李老師のあのゆったりとした悠然たる動作に,少しでも近づくことができることを信じて,稽古に励みたいと思います。目標がひとつ,はっきりとしてきました。

2014年7月15日火曜日

抗ガン剤治療のセカンド・クール(2週間)が昨日(14日)で終わりました。さてはて・・・・。

 抗ガン剤治療のセカンド・クール(2週間)が昨日(14日)で終わりました。このあとは月末まで休息期間となり,8月1日からサード・クール(2週間)がはじまることになっています。

 今回は錠剤(TS-1)を朝晩2回,食後に2錠ずつ飲む,それを2週間というメニューでした。第一回めのときの3週間の錠剤+第2週目の入院・抗ガン剤の点滴注入というメニューにくらべれば,かなり楽にやりすごすことができました。それでも第2週目に入ると,さまざまな副作用が表れました。

 わたしの場合には,外胚葉系にダメージがでているように思います。もっとも,これは素人の自己判断でしかありませんが・・・。一つは,消化器系のはたらきが低下すること。二つには,顔がまだらに黒っぽくなること。三つには,手のひら,手の甲から異様な匂いを発すること,四つには,錠剤を飲んで30分後くらいから眠くなること,五つには,味覚がマヒしてきて食欲がなくなること,など。つまり,粘膜や皮膚に集中してダメージがきているように思います。

 まあ,この程度の副作用で済んでいるのはラッキーな方ではないか,と自分に言い聞かせています。そして,とにかく眠くなってきたら素直に横になる,を心がけています。それでも第2週目に入ると相当にからだに負担がかかっているのか,体重はみごとに落ちていきます。といっても,1㎏程度の減少ですから休息期間に入れば,また,徐々に増えていくものと楽しみにしています。新しく,100g単位で計測のできる体重計を購入して,毎日の微妙な体重の変化をチェックしながら一喜一憂しています。

 太極拳の稽古をした日(週に1回)は,からだの調子がとてもいいので,このメニューを加えてみようと考えてはいるのですが,やはり,ひとり稽古というのは甘えがでてしまってつづきません。が,まあ,軽いメニューでいいから,と自分に言い聞かせ,適当に気の抜けたような稽古を思い立ったときにやることにしています。それでも,なんとなくからだの調子はよくなるような気がします。太極拳はやり方次第で,こころとからだのバランスをとりもどし,ことばにならない不思議な「力」が蘇ってくるように思います。あとは,わたしの心がけ次第。

 セカンド・クールで一番のダメージは味覚のマヒだったように思います。徐々に味覚が鈍麻し,昨日あたりはなにを食べても「おいしい」とは感じません。ただ,義務感で食べているだけ。味がしないものを食べることのむなしさ・・・これは意外にきびしいものがあります。これさえなかったら,つまり,以前のようになにを食べても「おいしい」と感じられたら,このレベルの抗ガン剤治療は乗り切れると思っています。そして,無理して食べると(食欲もなくなっていますので,どれだけ食べても満腹感をそれほどに感じない),ついつい食べ過ぎになり,一過性の下痢を誘発してしまいます。

 なんとか休息期間中に味覚が回復して,おいしく食事ができるようになることを祈るばかりです。ちなみに,今朝の体重は52.4㎏でした。これを53.5㎏以上まで,月末までにとりもどして,8月からのサード・クールに臨みたいと考えています。

 今日から錠剤から解放され,気分も晴れやかです。これから週末に予定されています研究会の準備に専念したいと思います。昨日までにたまっていた原稿(短いものばかりですが)もなんとか書き上げて送信しましたので,しばらくは解放されて,ジャン=ピエール・デュピュイの著作に専念したいと思います。

 以上,セカンド・クール完了のご報告まで。

2014年7月14日月曜日

自公の暴走路線に歯止め。滋賀県民のみなさんの良識にこころからの敬意とエールを。

 憲法を無視して閣議決定でことを運ぼうとする,こんな目茶苦茶な政権をいつまでも放置しておくわけにはいきません。しかも,戦争ごっこがしたくてたまらない坊っちゃまが宰相ですから困ったものです。アメリカ国内では飛行することすら禁止されているオスプレイを大量に購入するというのですから,もはや,御名御璽です。ここはわれわれの「民意」を行動で示すしかありません。その行動のうち,もっとも効果的なのは選挙行動であることは衆知のとおりです。

 その選挙行動で,朗報が飛び込んできました。滋賀県知事選挙。自公推薦候補が敗退。卒原発をかかげた嘉田由紀子前知事の指名を受けて,民主党を離脱し無所属で立候補した三日月大造氏がみごと当選をはたしました。この三日月氏を選んだ滋賀県民のみなさんの賢明な選択にこころからの敬意とエールをおくりたいと思います。そして,ありがとう!と。

 このあとには,10月の福島県知事選挙と11月の沖縄県知事選挙が待ち受けています。まさに,天下分け目の「決戦」です。この二つの選挙結果いかんによっては,日本のこんごの命運が決まってしまいます。そして,来年の国政選挙へと,重大な影響を及ぼすことになっていくでしょう。その先鞭をつけたのが,この滋賀県知事選挙でした。

 こまかなことはさておいて,自公路線の「盲目」としかいいようのない「暴走」にだれが歯止めをかけるか,手の打ちようもなく途方に暮れながらも,機会をみつけては国会前や首相官邸前のデモに参加してきましたが,その無力感は覆いようもありませんでした。どんなに多くの国民が国会周辺だけではなく,全国各地で安倍政権への異を唱える集会を開催していても,マスメディアのほとんどが無視してしまいます。ですから,ふつうに暮らしている日本国民の多くはその事実を知ることすらできません。そうして政権の暴走はとどまるどころか加速さえしています。

 そこへ,この滋賀県知事選挙の結果が大きく報じられることになりました。この報道のもつ意味は計り知れないものがあります。これまで,なんとなく変だなぁと思っていた国民の多くが(いわゆる浮動票層),やはりそうか,と気づいてくれることが期待されるからです。その意味でも,このたびの滋賀県民の良識あるみなさんの賢明な選択が,どれほど価値のあるものであったか,わたしはひとり感涙にむせんでいます。そして,繰り返しますが,こころからの敬意とエールを送ります。

 さて,つぎは10月の福島県知事選挙です。一部の噂では,小泉進一郎氏が自民党を離脱して,脱原発をかかげて立候補するのでは・・・という声があるようです。いろいろ問題はありますが,なにはともあれ,脱原発を貫き,現政権の「違憲」行為に一矢報いる決意があるのであれば,これはこれでまた面白いとわたしは考えています。まあ,この話はもう少し,慎重にことの推移を見届けてからということにしましょう。そして,ここでも滋賀県知事選挙につづいて,福島県民のみなさんの良識に期待したいと思います。

 そのあとにつづく11月の沖縄県知事選挙。こちらもすでに,自民党沖縄県連が二つに割れて,それぞれに候補を立てることになりそうだ,という情報が流れています。自民党本部もまた仲井真氏の再選・立候補に難色を示しているといいます。さらには,沖縄にはいま,これまでとは違った新たな主張をかかげる「オール沖縄」のような潮流が起きていると聞きます。この人たちの動向もまた,きわめて重要だと受け止めています。8月には沖縄にでかける用事もありますので,少し,現地の情報も集めてきたいと思っています。

 さて,いずれにしましても,このたびの滋賀県知事選挙の結果が,お先真っ暗だった日本の未来にいくばくかの希望の灯をともしてくれました。この灯を大切に引き継いで,しっかりとした選挙行動で「民意」を明らかにし,お坊っちゃまの「腹痛」再発の早やからんことを祈るばかりです。

 最後にもう一度,滋賀県民のみなさんの良識にこころからの敬意とエールを送ります。そして,ありがとう,と。

2014年7月13日日曜日

『生きるためのサッカー』(ネルソン松原著,サウダージ・ブックス,2014年6月刊)を読む。

 『生きるためのサッカー』──ブラジル,札幌,神戸,転がるボールを追いかけて,というタイトルからも明らかなように,著者・ネルソン松原さんの自伝です。サウダージ・ブックスの浅野卓夫さんから送っていただきました。ありがたい限りです。

 表紙の帯には,「この自伝には心(コラサォン)がある。ブラジルの,ボールの,流転の心が。」──今福龍太(批評家・人類学者)というキャッチ・コピーがあって,これは読まなくては・・・とその気にさせてくれます。この本もまた,ほかの仕事をほったらかしにして読みはじめたら止まりませんでした。一気に最後まで「読まされて」しまいました。

 一人語りの文体が読みやすさを引き出しているようです。奥付をみますと,取材・構成:松本創(ノンフィクションライター),取材・解説:小笠原博毅(スポーツ文化研究者)となっているところをみると,ネルソン松原さんの語りを松本創さんが編集して文章化し,ネルソン松原さんの語りだけでは足りなかった部分を,小笠原博毅さんが解説として加えたように見受けられます。いずれにしても,とても読みやすい自伝になっています。


 とりわけ,ブラジル・サッカーの体現者の語ることばは,わたしにとってはとても新鮮でした。いわゆるサッカー評論家といわれる人たちの語る「ブラジルのサッカー」とは一味も二味も違う,奥行きの深さといいますか,懐の深さというようなものを感じ取ることができました。それはたぶん,ブラジル人日系二世というネルソン松原さんが,日本からブラジルへという父祖のたどった道のりを逆行して,ブラジルから日本へというサッカー「ボール」が仲立ちした旅程にあるのだと思います。なぜなら,国籍はブラジルでありながらも,血筋としては日本人。でも,話すことばはポルトガル語,文化はブラジル,アイデンティティもブラジル人,そして,なによりブラジルのサッカー文化のなかにどっぷりと浸りながら成人。「牛が草を食むように,サッカーは人生そのものだ」と確信してからの,日本への渡航です。

 最初の日本への渡航は,札幌大学の招きによるサッカー留学。それも,ブラジル・サッカーを札幌大学のサッカー部に浸透させるためのサッカー選手として。その間にプレーはもとより,フットサルの指導書の翻訳・紹介もこなし,2年間の契約をまっとうして帰国。それから13年後,ふたたび札幌に。こんどはサッカーの指導者として。日系二世として,ブラジルと日本との文化の違い,生活習慣の違い,ものの見方考え方の違い,人間関係の構築の仕方の違い(人と人との距離感の違い),つかみどころのない意志表示,などなどの壁にぶち当たりながらのブラジル・サッカーの指導。その経験のすべてをとおして,透けてみえてくるブラジル・サッカーの真の姿。

 なるほど,サッカーは社会の映し鏡。ブラジルのサッカーはブラジルという社会が生みだした独特の文化なのだ,と。したがって,日本のサッカーは日本の社会をそのまま反映しているのだ,と。その実態が,ネルソン松原さんの苦労談をとおして,ブラジルはブラジルの,そして日本は日本のサッカーの特質が徐々に浮かび上がってきます。そのプロセスが,わたしにはとてもいい勉強になりました。

 巷間に広がっている,プロパガンダ的なブラジル・サッカーのイメージがいかに薄っぺらなものであり,信実とはほど遠いものだということがよくわかってきます。その意味では,今福龍太さんの名著『ブラジルのホモルーデンス』──サッカー批評原論をよりよく理解するための導入書として,このネルソン松原さんの『生きるためのサッカー』はとても役立つのではないかと思いました。

 ネルソン松原さんが,最初から最後まで一貫して主張していることは,サッカーとは人生そのものなのだ,というものです。つまり,サッカーを単なるスポーツだとは考えていない,ということです。サッカーこそ人間が生きるということの映し鏡である,と。だから,ブラジルのサッカーには科学的合理性を踏まえつつも,それだけでは済まされない「人が生きる」ということはどういうことなのか,という深い問いかけがある,というわけです。したがって,ブラジルのサッカーには勝利至上主義だけでは済まされない,一種独特の美意識がつねにはたらいている,というわけです。

 ブラジルのサッカーに独特の,美しいパスまわしや,超越技法ともいうべきボールコントロールの足技,そして,チャンスとみるや一気呵成にゴールに向かって突進していく「野性」の叫び,これらはサッカーの神さまをピッチに降臨させるための前技にも等しい,全身全霊を籠めた,まさに祈りの儀礼だと言っても過言ではないでしょう。

 断っておきますが,ネルソン松原さんは,こんな理屈はひとことも発していません。しかし,みずから身をもってやってみせる,それを指導を受ける選手たちがどのように受け止めるか,それは選手自身の問題だ,と考えています。その「やってみせる」こと,ことばでは伝えられないものを伝えること,これが指導者の役目である,と。したがって,サッカーは,生活の全て,人間として身につけた能力のトータルの結果だ,とも。

 一見したところ平易な,だれにでも語ることのできそうな,ごくふつうの話が展開しているような錯覚を起こしますが,その端々に含蓄のあることばが散りばめられています。それは,読み手の感受性次第,というわけですが・・・・。

 W杯のセミファイナルで,ブラジルが,ドイツに7-0で大敗したことの意味については,一度,しっかりと考えた上で,このブログに書いてみたいと思っています。そこには,驚くべき思考の地平が待ち構えていることだけは予告しておきたい,と思います。

 とりあえず,ネルソン松原さんのご著書の,わたし流の読解と感想まで。

2014年7月12日土曜日

『猫の音楽』──半音階的幻想曲(ジャン=クロード・レーベンシュテイン著,森元庸介訳,勁草書房,2014年6月刊)を読む。

 さきに片づけなくてはならない仕事が山ほどあるのに,この本の存在が気になり,ちょっとだけ,とついつい手を伸ばしてしまいました。それが間違いでした。読みはじめたら止められません。一気に最後まで読んでしまいました。

 その理由は,もちろん内容の面白さなのですが,それに加えてじつによくこなれた翻訳文のうまさにありました。訳者の森元さんも訳者あとがきで書いていらっしゃいますように,「一方通行的に敬愛してきた著者の文章を日本語に移す機会を長く夢見た」ほどに,著者のフランス語の文章に惚れ込み,それを日本語に写しとりたいという衝動に駆り立てられてのお仕事だったと知り,なるほどと納得。ですから,つぎからつぎへと休む暇も与えず,どんどん読まされてしまいました。こんな経験も久しぶりでした。

 ちらりと思い浮かぶのは,渡辺一夫さんの名訳として知られる『ガルガンチュア物語』の一連の訳業です。わざわざ時代を合わせるために,江戸時代の日本人の語りことばを徹底的に研究してから訳業にとりかかったという,その世界では伝説的な逸話です。フランス語の美しさに反応して,それに劣らぬ日本語の美しさを引き出そうという心意気が,森元さんの訳業をとおして心地よく伝わってきます。

 いやー,いい本を読ませてもらいました。その爽やかな印象と同時に,はたと考えさせられるところが随所に織り込まれていて,感動すら覚えました。こんな身近なところにある「猫」という主題をとおして(もっとも,恐るべき博覧強記に支えられてのことではありますが),なんのことはない「人間」とはなにかを考えさせられ,人間にとって「猫」とはなにか,と深い問いを投げかけてきます。


 訳者あとがきのなかから(このあとがきがまた驚くべき名文),印象に残る文章の一端を引いておきたいと思います。

 頑なに猫の音楽を斥けようとするのは,そのうちで仄かに響くわたしたち自身の獣性の唸りを否み,しかし否みきれぬことの徴である。猫は遠ざけられたその果てでわたしたちの内奥を照らす。猫と人間はそうやって反対物の一致を示すのかもしれないが,それこそは,ピュタゴラス派からこのかた西洋の思考に留まりつづけた世界理解の原理,すなわち「協和しない協和」(cocordia  discors)」の表現にほかならず,西洋の音楽もまた,単声から多声へ,そして和声からその先へと自身の拠るパラダイムを移ろわせながら,この原理をさまざまに変奏してきたのだった。とすれば,音楽の正典(カノン)の余白でまさしく調子外れの音符を撒き散らすかに思われた猫たちは,ことのはじまりから,対立なしにありえぬ調和という音楽=世界の核心に〇(立心偏に舌)として据わっていたことにもなるのだろう。(以上,引用,P.111~112.)

 わたしたちが学校教育をとおして学ぶ「音符」(西洋由来の)の連なりが,きわめて機械的に分割された音階にすぎないにもかかわらず,それが唯一,正統派の音楽であるかのように教えられたことの,つまりは西洋流の近代的合理性の「暴力」(明治時代の音楽教育が採用)にさらされたことの理不尽に,いまごろになって気づかされて呆然としてしまいました。一つの音階からつぎの音階の間に存在する「無限に」分割可能な音階があることを,「猫の音楽」が教えてくれるということの,この逆説に震撼させられました。音痴も立派な音楽家なのだ,と。歌唱力を「点数化」すること自体が,近代の科学的合理性のふくみもつ「盲目」性と,まさしく同根なのだ,と。

 最後にもう一度,訳者あとがきから引いておきたいと思います。

 動物と人間のあいだに,ということはまた人間と人間のあいだに本当のところ理解なんてあるだろうか。醒めて,とりわけいまわたしたちの胸に冷たく触れる問いである。(P.110.)

 濃いピンクのカバーに覆われた,一見したところマニアックな本にしか見えないこの『猫の音楽』──半音階的幻想曲という本が,わたしにとってはこれまでに経験したことのない,思いがけない視座からの,まったく新しい知の地平の可能性を開いてくれることになりました。

 訳者の森元庸介さんにこころから感謝したいと思います。
 森元さん,ありがとうございました。

2014年7月11日金曜日

JSCは新国立競技場について充分な検討をしていないと突っ込まれた動画(IWJ作成)が一夜にしてネットから消えた。

 昨日(7月10日), YOUTUBEで偶然見かけた動画を,もう一度,確認しておこうと思って今日(11日)探してみたらどこにも見当たりません。よくあることではありますが,権力側にとって都合の悪い動画はどんどん消されているようです。その頻度もさいきんになってとても高くなっているように思います。噂によれば,政府が業者に委託して,徹底的に削除作業を展開しているとのことです。こんなことがまかり通っているのですから,困った時代になってきました。

 さて,問題の動画。いま記憶しているかぎりでの内容は以下のとおりです。

 IWJ(代表者・岩上安身)が二人の代表質問者を立てて,JSC(日本スポーツ振興センター)の応答者二人に向かって質疑応答を展開した映像です。最初から,IWJからの鋭い質問に対してJSC側はしばしば絶句,それでもなんとか応答しようと必死になっていました。が,最後のとどめはIWJ側からの指摘「8万人収容と8レーンを9レーンにしなければならないという条件も,建築家の伊東豊雄さんが現国立競技場改修によって可能であるという代案を提示し,費用もほぼ半分でできると言っているが,この代案を検討したのか」と突っ込まれたところで,完全に絶句。そこで,IWJ側のもうひとりの質問者が「要するに,初めから当選作のザハ・ハディド案ありき,ですべてのことが運ばれたということですよね」と念を押されて,あわててJSC側の一人が必死になって応答するも,「それはなんの答えにもなっていませんよ。わかっていますか」とやられ,これまた絶句。

 考えてみれば,高さ制限も,ザハ・ハディド案が決まってからあわてて条例改正をした経緯もあります。この段階で,後出しジャンケンのような,わけのわからない選考が行われたな,とわたしは直感していました。コンペのやり方も奇怪しいし,当選した作品の詳しい内容を公開しないのも奇怪しい,本来ならば,当選した作品をあらゆる角度・視点から検討した上で,みんなで意見を出し合い(市民も含めて),修正を加えながら,合意に達したところで成案とするのは,建築界の常識だ,とこのコンペに応募し,みごとに落選したわたしだから言えることだ,とシンポジウムの席で伊東豊雄さんが,やんわりと指摘しています。こちらの動画はいまも流れていますので,ご確認ください。

 まあ,朧げな記憶で書いていますので,記憶違いがあるかもしれません。が,大きな流れはこうであったと思います。

 いずれにしても,JSCがザハ・ハディド案の問題点などについて,しっかりとした検討をした痕跡はどこにもなさそうです。この案をどうやって実行に移すかということにだけ走ってしまい,世間の批判を受けて立つなどという姿勢は最初からなかったかのようです。ですから,いまごろになってあたふたしはじめた,というのが実態のようです。

 7月7日のJSCが初めて開催した説明会を非公開にしたのは,「どんな質問がでてくるか予測がつかないので,非公開にしたと事務サイドで判断したようです」とJSCの理事長・河野一郎氏が,説明会が終わった直後のインタヴューで答えています。つまり,公開の場で,弱点をつかれたら困る,と最初からわかっていたというわけです。その位,いい加減なことしかやってこなかった,ということのなによりの証拠です。

 景観問題などについては,ほとんどなにも検討してこなかったのでしょう,きっと。ですから,森まゆみさんらの市民運動団体には説明会すらしようともしません。これが,日本の民主主義の実態です。その姿は,まるで閣議決定と同じです。

 巨大な競技施設をつくって,世界をあっと言わせたい(安藤忠雄),大きいことはいいことだ,一度に多くの人を喜ばせる施設はいいものだ,あとの維持管理費はなにも考えないで・・・,この発想の仕方はもはや時代遅れだ,と伊東豊雄さん。いまは,建築の世界もつぎの時代に突入しているというのに・・・と伊東さんは嘆いています。

 なにか,こんな経緯を考えていますと,ひとむかし前の,原発を推進していくときの,あとのことはなにも考えないで,それいけワッショイで,巨大な電力を確保できるということだけに目がくらんでしまい,その他のことにはまったくの盲目であった,そのときの論理とまったく同じものがいまも生きている,というそんな気がしてきました。

 いまこそ,「3・11」をしっかりと視野に入れて,その後を生きる人間にとっての国立競技場のあるべき姿を,国民がみんなで智恵を出し合って,合意をえられるところまで議論を積み上げるべきではないでしょうか。それが,間に合わないというのであれば,とりあえずは「改修案」でここは収めるべきではないでしょうか。

 JSCが,ほとんどなにも検討もしないで,こんな大きな事業をやろうとしていることが明らかになった以上,もはや,この計画はストップさせるべきではないでしょうか。わたしは伊東豊雄さんの「改修案」の詳細を知って,この案に賛成です。それで,すべての問題が解決し,しかも費用は半分程度で済まされるというのですから。

2014年7月10日木曜日

新国立競技場問題はいまも「藪の中」。でも,少しずつボロが露呈。東京五輪はだれのためのものか。

 昨日(7月9日)の東京新聞一面トップの記事で,新国立競技場のデザインコンペの審査経過を大きく取り上げていました。そこに躍っていた見出しを拾ってみますと,以下のとおりです。

 3作同点から委員長一任
 「新国立」選考の経緯判明
 安藤忠雄氏 1点を除外
 一部懸念の当選作 即決

 結論から,わたしの感想を言っておきますと,推測どおり委員長の安藤忠雄氏の独壇場。最初から結論ありき,の審査の経緯が浮かび上がっています。審議経過のなかで,当選作(いま,問題になっているザハ・ハディドさんの作品)については一部の委員から懸念の声もあったにもかかわらず,委員長一任を受けて,安藤忠雄氏はその場で「即決」した,と新聞は報じています。



 この記事のリードの文章を引いておきましょう。

 新国立競技場のデザインを決めた2012年の国際コンペの最終選考で,三作品の評価が同点だったにもかかわらず,委員長だった建築家の安藤忠雄さんが一作品を外し,二作品に絞ったことが分かった。本紙が日本スポーツ振興センター(JSC)への情報公開請求で入手した審査委の議事録で判明した。審査委で最終的な判断を一任された安藤さんは,英国在住の建築家ザハ・ハディドさんの作品を選んだ。

 記事をよく読んでみますと,このデザインコンペの委員は建築の専門家10人で構成。しかし,英国の著名建築家リチャード・ロジャースさん,ノーマン・フォスターさんの2人は会議には出席せず,事前説明を受け,2次審査の投票結果だけ提出した,とあります。つまり,最終審査にはこの著名な建築家が欠席したまま,残りの8人(委員長も含めて)で決めたということです。なぜ,この二人の委員が欠席したのか,それは「藪の中」。でも,このことに関して,わたしの中に沸き起こってくる疑念を抑えることはできません。そこには,やはり,なにか特別の「作為」があったのではないか,と。

 しかしまあ,下手な邪推をしてみたところではじまりません。問題は,なぜ,国際コンペの審査過程を約2年間もの長きにわたって,非公開(内緒)にしなければならなかったのか,という一点につきます。これまで,各方面から,審査過程を明らかにしろ,という要望書が提出されてきたにもかかわらず,です。しかも,槙文彦さんをはじめとする建築家集団が,何回も,この当選作の是非についてまじめに議論するためのシンポジウムを開催しています。そして,そこに安藤忠雄氏の出席を求めています。しかし,安藤氏はすべて拒否。公の場には登場せず,この件に関しては一切,発言していません。このかたくなな姿勢も,わたしからすれば不思議で仕方がありません。やはり,後ろめたい気持がはたらいているのでは・・・・・と。

 7月7日に主たる建築家を招集して開催されたJSCによる初めての「説明会」も,なんと「非公開」でした。しかも,招集されたのは建築家のみです。槙文彦さんほか何人かの建築家たちは「非公開」ではなんの意味もない,として欠席しています。

 景観問題を重視する作家の森まゆみさんたち市民団体の要望は,いまも「無視」です。

 ということは,公開で説明できるだけの「根拠」をもって「決定」したのではない,その場の勢いで,ある声の大きい人の意志にしたがった,とよくあるお役所仕事の裏事情が透けてみえてきます。わたしも,かつて,文部科学省や県の教育委員会の小さな会議に駆り出されたことがありますので,その実態は周知しています。たぶん,そのままの体質がいまも継承されているのでしょう。

 しかし,そこで問われることは,東京五輪はだれのためのものなのか,ということです。とりわけ,なんらかの問題が生じた場合には,多くの関係者を集め,徹底した「公開」の討論を積み上げ,国民の多くを納得させることが第一です。なにせ,国民の税金を主たる原資として行われる国民的事業なのですから。

 JSCは,基本方針は変えない,と豪語しています。が,どこかで疚しさを感じている様子。あと一息です。世論の強い反発にあえいでいる,とわたしには見えてきます。まもなく,現国立競技場の解体工事がはじまることになっています。が,それまでにクリアしなくてはならない問題が,JSCには山積みです。解体業者の選定(すでに,一回,失敗しています),組織委員会と東京都との確執も露呈しつつあります。そして,なによりも資材不足,労働力不足,そして急騰する費用の問題が待ち構えています。

 いまや,東京五輪招致運動に浮かれていた時代とは,まったく異なる厳しい情況が(フクイチを筆頭に),日に日に増大しています。いまからでも遅くはありません。東京五輪のための新規競技場施設の規模縮小を視野に入れて,もう一度,原点に立ち返る「勇気」が,いま,なによりも求められているのではないでしょうか。

2014年7月8日火曜日

いただいた「蹴鞠」の手拭いを事務所に飾りました。ちょっといい感じ。

 しばらく前にいただいた「蹴鞠」の手拭いを,事務所の一角に飾ってみました。隣の能面「延命冠者」さんとさりげなくいい具合にシンクロ。とても気に入ってます。


 これまで長い間,柿の実の熟した手拭いを上野の国立博物館のミュージアム・ショップでみつけ,飾ってありました。これも奈良の法隆寺の「柿食えば・・・・」を思い出させる雰囲気があって,とても気に入っていました。ですが,やはり長い間,同じものを眺めていますと,少しずつ平凡な感じになっていました。



 面白いもので,たった一点,壁面を飾る手拭いひとつで,事務所の雰囲気が「パッ」と一変してしまいました。これぞアートの力とでもいうのでしょうか。

 この二つのアート作品を眺めていましたら,妄想が妄想を生んで,とてつもなく面白い空想の世界を遊ぶことができるようになってきました。一つは蹴鞠にまつわる逸話。もう一つは能の世界のいまとむかし。あるいは,能楽が足利義満に見出される「前」と「後」の「投企の時間」(J=P.デュピュイ)。

 最初に蹴鞠にまつわる逸話。よく知られるように「大化の改新」は中大兄皇子と中臣鎌足とが,談山神社で蹴鞠をしながら談合し,そこからはじまったという逸話。その談合の内実は,蘇我入鹿をだまし討ちにすること,そこからはじまってつぎは・・・,という具合に連鎖していきます。が,この話はここでは割愛。そして,その後がこれまた大問題。

 中大兄皇子はのちの天智天皇。そして,天智は自分の子を宿した女性を中臣鎌足に下賜し,生まれた子どもが藤原不比等。天智と鎌足は蘇我一族を全滅させ,大化の改新から律令国家へと大きく舵を切った,時の中心人物。そして,天武の時代になって,不比等はそれ以前の歴史の改竄に着手(記紀の編纂・異説あり)。それが「正史」としてみなされ,持統へとバトンタッチされて,日本の国家としての屋台骨を築き,以後の日本の歴史に大きな影響を与えることになります。こうした大和朝廷と藤原一族の結託の話。

 こんなことを考えながら,この蹴鞠の手拭いを眺めて,妄想の世界を楽しんでいます。

 もう一つは能面の延命冠者。つまり,能楽の世界。足利義満によって観阿弥・世阿弥親子が見出され,中央権力の注目を集めるまでの能楽は,猿楽,散楽と呼ばれ地方の神社の祭礼を巡りながら曲芸にも似た演芸をみせて小銭を稼ぐどさ回り芸でした。しかも,名前からも明らかなように,いわゆる世にいう阿弥衆でした。それ以前はもっと身分の低い芸能集団の繰り出す芸にすぎませんでした。

 つまり,義満の「前」と「後」とでは月とスッポンほどの違いがありました。その流れがいまの能楽界を形成しています。その気位の高さは恐るべきものがあります。しかし,その気位の高さばかりを鼻にかけ,芸の研鑽がおろそかにするあまり,一部の名手を除けば芸が荒れてしまい,どこかに破局の音がするとまで噂されています。

 この「前」と「後」の間のあまりの溝の深さが意味するもの・・・・,別の言い方をすれば,破局の「前」と「後」の間の時間,これはJ=P,デュピュイのいうところの「投企の時間」とどのようにかかわってくるのだろうか,などという具合に想像力をたくましくしているところです。

 これからしばらくの間は,楽しみがつきることはなさそうです。
 ときには,こんな話も骨休めに・・・・。これもまた「投企の時間」?

2014年7月7日月曜日

頑張れ! 日弁連! 集団的自衛権の閣議決定が違法行為であることを,もっともっと主張してほしい。

 去る7月4日に立憲デモクラシーの会が主催した講演会「集団的自衛権を問う──立憲主義と安全保障の観点から,の折に受け付けで写真のようなリーフレットをいただきました。横長の上質紙を四つ折りにしてA5サイズになるおしゃれなリーフレットです。裏表にびっしり,似顔絵入りでそれぞれの論者の主張が簡潔に,わかりやすく紹介されています。

作成したのは日本弁護士連合会。







 左側の写真の似顔絵の論者は,右上から時計回りで順に,谷口真由美さん(大阪国際大学准教授・国際人権法・全日本おばちゃん党代表代行),半田滋さん(東京新聞論説兼編集委員・防衛省担当),谷山博史さん(日本国際ボランティアセンターJVC代表理事),阪田雅裕さん(元内閣法制局長官・弁護士),丹羽宇一郎さん(前中国大使・早稲田大学特命教授),浜矩子さん(同志社大学大学院教授・経済学),青井未帆さん(学習院大学教授・憲法),そして,中央が柳澤協二さん(前内閣官房副長官補・安全保障担当)。

 右側の写真は,日本弁護士連合会会長・村越進さんの挨拶文です。下段の文字が小さいので,もう一度,ここに転載しておきましょう。とても大事な指摘をしていますので。

憲法前文と第9条を規定している
平和的生存権の保障と恒久平和主義は,憲法の基本原理です。
これまで,政府はこうした基本原理に基づき,
憲法は集団的自衛権の行使を禁止していると表明してきました。
これは,国会における長年の審議の中で積み重ねられ,
歴代内閣で確立されてきた政府見解です。
時の政府が,閣議決定でこの見解を変更(解釈改憲)し,
集団的自衛権の行使を容認することは,
政府を憲法による制約の下に置くとする立憲主義に違反し,
許されるものではありません。
私たちは,政府が閣議決定でその見解を変更することによって,
集団的自衛権の行使を容認することに強く反対します。

 以上です。

 これを読めば明らかなように,「憲法は集団的自衛権の行使を禁止している」と歴代内閣が踏襲してきた見解を,根底からくつがえす決定が安倍政権の閣議決定です。つまり,憲法を放り投げて(立憲主義を無視して),時の政権の閣議決定で,なんでも決めることができる,という前例をつくることになります。この暴挙は,いわば,国家としての骨格をないがしろにする180度の方向転換である,としかいいようがありません。言ってみれば,日本の歴史に残る大汚点を,いま残そうとしているのです。

 わたしとしては,戦争の危機だとか,限定的容認だとか,そんな議論にうつつをぬかしているときではない,大事なのは,憲法を守るのか,この平和憲法を無視する政権を容認するのか,という議論だ,とこころの底から考えています。

 その意味で,法の見張り番であり,国民の権利の弁護者・擁護者たる日本弁護士連合会が,もっともっと前面にでて,このリーフレットに書かれていることを広く国民に周知徹底させるべく,より一層の奮闘を願っている次第です。

 ですから,このリーフレットが作成され,配布されていることを知り,少しだけホッとしました。そして,もっともっと前にでてきてほしい,と願っています。

 真の「立憲デモクラシー」の精神が,この日本で育ち,確立される日がくるまで,わたしたちも頑張らなくてはなりません。そのスタート地点が,いま,です。これから秋の立法化までの間に,それを阻止する運動を展開する以外にないのですから。一人ひとりの力は微力ではあっても,それが一つにまとまれば大きな力を発揮します。蟻の一穴,というように。最後まで諦めないで,この主張をしていきたいと思っています。

 どうぞ,よろしく。

2014年7月6日日曜日

第31回・全日本武術太極拳選手権大会,第3日目の競技をみてきました。感動。そして課題も。

 第一日目と第二日目は先約があって残念ながら見送り。第三日目の今日(6日),朝一のプログラムから最終の第一コートの自選難度競技まで,たっぷりと太極拳を堪能させていただきました。しかも,午前中はスタンドから,午後は本部席からの見学でした。なんと贅沢なことと,申し訳なく思っています。もちろん,村岡会長先生や石原先生にもご挨拶をして。

 驚いたことに,村岡会長先生がわたしの病気のことをご存じで,「その後,いかがですか」と声をかけられ,いささか慌ててしまいました。が,事実をありのままにお話させていただきましたら,「じつは,わたしも・・・」ということで,これまた二度目のびっくり。同病相憐れむではありませんが「お互いに気をつけて養生につとめましょう」と励まし合った次第です。

 いま,書いてしまってから,個人情報にかかわることなのでちょっとまずいかなぁ,と反省。でも,それ以上にこんな会話が村岡会長先生とできたという自慢話をしたくて仕方のないわたしの欲望抑えがたく・・・・。お許しください。

 さて,本題へ。
 ことしは,4月に行われた全日本武術太極拳競技大会(本部研修センター)も見学させていただきましたので,比較的短いインターバルで,自選難度競技のトップ・レベルの選手たちの表演を見させていただきました。こんなわずかな期間なのに,選手たちの好不調というものはきちんと結果となって現れるものだということがよくわかりました。きちんと調整をしてきた選手はそれなりの結果がでてくるものだ,と。

 ここに改めて実名を挙げて語るまでもないかと思いますが,同行した太極拳の兄弟弟子のNさんと面白い会話をしましたので,ご紹介させていただこうと思います。それは,自選難度競技部門の太極拳女子の内田愛選手(旧姓・宮岡)と佐藤直子選手の,毎年,繰り返される息詰まるほどの僅差の競り合いです。それはほんとうにレベルの高い競り合いで,毎回,楽しみにしている次第です。

 今回は,お二人ともみごとな表演で,ほとんど「ノーミス」でした。これは甲乙つけがたし,とわたしはみていました。が,結果は,0.07の差で佐藤直子選手が制しました。勝負の世界はきびしいとはいえ,この差はいったいなにを意味しているのだろうか,と考えてしまいました。そうしたら,隣に座っていたNさんが,ぽつりと「可哀相に。両方,優勝にしたらいいのに」と。そして,「無理に分ける必要なんてないのに」と。ああ,わたしと同じことをNさんは考えていたんだ,とある意味で感動してしまいました。

 なぜか,といいますと以下のとおりです。
 この「0.07」の差の意味を明確に説明できる根拠はどこにもない,ということです。つまり,採点競技の宿命ともいうべき数字のマジックでしかない,ということです。

 それは,ちょうど,スピード・スケート競技での計測と同じです。ここでは「1000分の1秒」まで計測し,優劣の判定をしておいて,その結果を「100分の1秒」の単位で発表します。場合によっては,発表されたタイムは同タイムなのに一位と二位が区別されるということが起こります。が,その区別の根拠は1000分の1秒単位で裏付けることができます。つまり,科学的合理性の力です。しかし,この「差」も,はたして意味があるのか,という問題がでてきます。なぜなら,人間の目にはその違いはまったく見えない世界の話だから,ということです。

 太極拳の表演での「0.07」の差は,目でみたかぎりでは確認のしようがないはずです。つまり,どちらが上手だったか,という根拠にはなりえない,ということです。ただ,「新国際競技ルール」にもとづく採点の集計の結果が「0.07」という数字となって表れただけの話です。

 もう少しだけ踏み込んでおきますと,A組審判に5点,B組審判に3点,C組審判に2点が配分され,それぞれの審判がその配点の範囲内で,各3人の審判が採点し,それを集計して3等分したものが各組の点数となり,それを集計したものが選手の点数となります(精確にはもっと複雑な構造になっています)。

 ということは,各組の優劣は判定できても,全体を見渡しての優劣の判定はできない,ということになります。つまり,自選難度競技以外の採点方法では可能な,全体のできばえの優劣を見極めた上での点数の割り出し方ができない,ということです。となると,極端な場合には,全体のできばえは明らかに違うのに,A組,B組,C組から割り出された点数を集計したら逆の結果がでてくる,ということもありえます。

 もちろん,その逆に,主観を排除して,徹底的に客観性を追求した「新国際競技ルール」のメリットもあります。しかし,このルールでは,武術としての完成度,つまり,到達している精神性のレベルを客観的に数量化することは不可能です。ここに,ヨーロッパ的合理性を追求するあまりに,武術が形骸化していく,という避けて通ることのできない隘路が待ち受けています。これは,太極拳にかぎらず,柔道も含めて,国際化にともなう,一種の必然といっていいだろうと思います。

 合理性,とりわけ,科学的合理性は一見したところきわめて説得力に富んでいます。しかし,そこには秘められた落とし穴がある,ということも忘れてはなりません。武術のできばえを科学的合理性だけで優劣を判定することの,とんでもない勘違いが大通りを闊歩しているのではないか,とこれはまあ,わたしのきわめて個人的な感想です。

 しかし,同行のNさんも同じようなことを感じ,考えている,しかも,わたしよりももっと深いところにまでその思考の触手は伸びているだろうことは間違いありません。この問題は,すぐれて今日的な「普遍」の問題に通ずる大問題でもあります。そして,そういう大問題が太極拳の「新国際競技ルール」の世界にもみごとに浸透している,ということです。いつか,Nさんとこの問題について考える機会が得られれば,と思っています。

 この内田愛選手と佐藤直子選手の表演は,NHKのBS1で,7月13日(日)12:00~12:50に放映されることになるだろう,と思っています。もう一度,録画でもして,しっかりといろいろの観点から分析しながら,問題の所在を見極めてみたいと思っています。

2014年7月5日土曜日

立憲デモクラシーの会主催の講演会,充実した内容で感動しました。

 昨日(7月4日),学習院大学で開催された「立憲デモクラシーの会」主催の講演会に行ってきました。開催案内には「集団的自衛権を問う──立憲主義と安全保障の観点から」とありましたので,相当に厳しい糾弾がおこなわれるのではないか,と予想してでかけました。ところが,なんとも冷静な,そして深い洞察にもとづく,根源的な「問い」を突きつけられ,「想定外」の感動をおぼえました。参加してよかった,としみじみ思いました。

 プログラムを挙げておきましょう。

 「集団的自衛権を問う──立憲主義と安全保障の観点から」
 第1部
 
  基調講演:三谷太一郎(日本学士院会員・東京大学名誉教授・政治史)
         なぜ日本に立憲主義が導入されたのか・その歴史的起源についての考察
  コメント:加藤陽子(東京大学教授・歴史学)
  司会:山口二郎(法政大学・政治学)
 第2部
  講演:前田哲男(軍事評論家)
     <万物流転>にねじ伏せられた<万古不易>
  コメント:木村草太(首都大学東京准教授・憲法学)
  司会:中野光一(上智大学・政治学)

 冒頭で,この会の代表のひとり山口二郎さんが「安倍内閣の解釈改憲への抗議声明」を読み上げました。これも,大きな声を張るわけでもなく,むしろ,小さな声で控えめに読み上げられました。その内容は三つの柱でまとめられていました。
 A 暴走する政府は民主政治を破壊する
 B 集団的自衛権行使は違憲であり,安全保障にも寄与しない
 C 政府解釈による自衛権の拡大は立憲主義を破壊する
 ここに全文を写し取りたいところですが,割愛させていただきます。たぶん,立憲デモクラシーのホームページにアップされていると思いますので,チェックしてみてください。

 つづいて第1部に入りました。この三谷太一郎先生の基調講演が素晴らしいものでした。まるで,大学の講義を聴いているような,一つひとつ懇切丁寧な解説があって,とても説得力のある内容でした。配布されたレジュメの「はじめに」のところだけ,引用しておきましょう。

 はじめに
 日本における「立憲主義」を二つの側面から考える
  1)権力分立制
  2)議会制
 したがって問題は第一に日本になぜ権力分立制が導入されたのか,第二に日本になぜ議会制が成立したのか,日本における「立憲主義」は何を歴史的母胎として生まれたのか。第三に権力分立制および議会制の下でなぜ複数政党制が成立したのか。要するに日本においては「立憲主義」および複数政党制がなぜ必要であったのか。

 こういうお話は学生時代に聴いておきたかった,と悔やまれるほどの素晴らしいものでした。ひとことだけ,わたしの理解を書いておけば,権力分立制も議会制もその萌芽は徳川幕府に求めることができる,その伝統を明治政府が引き継ぎ,紆余曲折をへながらも,かろうじて立憲デモクラシーの考え方や制度を練り上げてきた,したがって,立憲デモクラシーの理念はいわば国民的財産なのだ,ということです。

 この基調講演に対して,加藤陽子さんがつけたコメントがまた抜群でした。時間があればもっと詳細な展開があったのでしょうが,残念。

 つづけて第2部に。
 軍事評論家の前田哲男さんのお話も,とても魅力的な内容でした。とくに,わたしには軍事評論という世界のことは無知に等しかったので,その内容がとても新鮮に感じられました。しかし,残念なことに時間が押していて,後半は一気に概説をして終わってしまいました。

 この講演に,若き憲法学者の木村草太さんがコメント。こちらも時間があればもっと面白い話の展開になったろうに・・・と惜しまれました。

 まあ,いずれにしても,これだけのプログラムに対して,たった2時間はあまりにも短すぎ。それでも,終了したのは午後8時30分をまわっていました。もっとも,時間が足りなかったなぁ,と惜しまれるくらいがちょうどいいのかも知れません。夕食前でしたが,空腹どころか満腹感(頭の中)でいっぱいでした。

 いま,振り返ってみますと,とりわけ,三谷太一郎先生のお話はわたしにとっては強烈なインパクトを与えました。いつか,時間をみつけて三谷先生のご著書を読ませていただこうと思いました。徳川時代があんなに長くつづいた背景には,ご公儀の権力の分立と合議制が大きな意味をもっていたのか,と気づかされたからです。

 いまもその余韻に酔い痴れています。
 たぶん,IWJで映像が流されると思いますので,もう一度,聴いてみたいと楽しみにしています。

 以上,つたないわたしの感想とご報告まで。

2014年7月4日金曜日

新国立競技場説明会,「非公開」に建築家反発。安藤忠雄さん,どうしちゃったの?

 今朝(7月4日)の東京新聞一面トップに大きな見出しが躍っていました。

 新国立声明会 非公開に
 建築家ら「密室」辞退相次ぐ

 リードの文章を引いておきましょう。

 2020年東京五輪の主会場となる国立競技場の建て替え問題で,事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)が「批判に対応する」として開く説明会の対象を建築団体などに限定し,非公開にする方針であることが分かった。開催は7日の予定だが,参加要請を受けた建築家から「密室での議論は受け入れられない」と反発する声が上がっている。

 お役所仕事はよほど「密室」がお好きなようです。いやいや,すべてを「密室」で済ませたいようです。しかし,今回は多くの建築家や建築団体をはじめ,市民や市民団体が声を挙げ,何回ものシンポジュウムを「公開」で重ねてきました。その圧力に屈したかたちで,ようやく「説明会」なるものを開催する運びとなりました。が,それも特定の建築家と建築関係5団体に限定して「説明会」を行う,しかも,「非公開」というわけです。

 しかも,この問題に大きな関心を寄せている市民や市民団体はオフリミットです。しかも,マスコミの取材もオフリミットです。ですから,当然のことながら,わたしのような人間も完全に排除されているということです。このことはなにを意味しているのか。民主主義の否定です。

 第一に,事業主体であるJSCという組織そのものが文部科学省の下部組織です。つまり,JSCの人間は,すべて文部科学省のお気に入りの人間だけで構成されています。もっと言っておけば,文部科学省の天下り団体でもあります。ですから,文部科学省の意向がそのまま反映される,そういう団体です。文部官僚の体質がそのまま引き継がれているといっていいでしょう。ですから,かれらの感覚からすれば「密室」なのは当たり前のことです。

 しかし,ことは,まったく別次元の話です。

 新国立競技場という,2020年の東京五輪の中心となる会場が,どのようにして設計・デザインのコンペが行われ,どのような経緯で選定されたのか,建築経費や維持費はどうなのか,それになにより「景観」問題をどのように考えてきたのか,という問題はすべからく国民のすべてに向けて「公開」で説明すべき問題です。それを拒否し,「きたんのない意見交換のために非公開で行うことにした」(JSC新国立競技場設置本部の高崎義孝運営調整課長)とのことです。

 「きたんのない意見交換」こそ,公開ですべきことではないでしょうか。国民の財産の問題です。それを国民が知りたくても知ることのできない「密室」で決めてしまおうという算段です。

 もっと,はっきり書いておきましょう。今回の「主犯」は安藤忠雄さん,あなたです。あなたは建築家相手ならなんとかなる,しかも「密室」なら(つまり,脅しもかけられるという意味も含めて),とお考えのようですが,そんな甘いものではありません。おそらくは「時間切れ」で押し切るつもりなのでしょうが,そうはいきません。

 現国立競技場の改修で切り抜けるという選択肢も残されているのです。

 問題は,国民の財産を決めるにあたって,なぜ,国民の意見を集約して,あるいは,国民を説得して,国民の納得のいく方法をとらないのか,そこにあります。民主主義とはそういうものではないですか。それを,なぜ,忌避するのでしょうか。

 ここまでくると,だれかが得をする仕組みがどこかに隠されているのでは・・・・と勘繰りたくなってきます。

 なにか雲行きが怪しくなってきた・・・・というのがわたしの直感です。いまからでも遅くはありません。多くの国民が納得のいく手続を経て,つぎの「国立競技場」のあるべき姿を模索してもらいたいものだと思います。

 とりあえず,今日のところはここまで。

 

2014年7月3日木曜日

集団的自衛権の閣議決定。憲法を無視したアベ政権の暴挙。この違法行為をこそ糾弾すべし。

 7月1日(火)の閣議決定を受けて,2日(水),3日(木)と連日,新聞・テレビが「集団的自衛権」の行使・容認をめぐる報道を大々的に展開しています。しかし,その展開のさせ方に一つだけ気がかりなことがあります。それは,いずれも集団的自衛権と「戦争」との関係に議論が偏っている,ということです。国民の意識を引きつけるには,東アジアの危機的情況に訴えて,集団的自衛権の是非を問うという手法がもっとも手っとり早いと考えてのことなのでしょう。しかし,これは逆に言えば,みごとなまでの世論誘導・操作装置にもなっている,ということです。つまり,やっぱり集団的自衛権の行使を容認しておかないと,戦争に備えられないよなぁ,という方向への無意識に訴える誘導装置として機能する,ということです。

 これは完全なる問題のすり替えではないか。

 集団的自衛権行使・容認の閣議決定がもつもっとも重要な問題は,ときの政権の一存で,憲法を無視した違法行為,この一点にある,とわたしは考えています。憲法を無視して,閣議決定をし,法案にして議会に提出し,多数決で押し切る,というこの手法こそが大問題なのだ,と。こんなことがまかり通るとなれば,もはや,日本国は国家としての体裁を失い,国際社会からも「孤立」してしまいます。憲法を無視する国家など,だれが信用しますか。

 長年にわたってこつこつと積み重ねてきた平和国家日本としての大きな「財産」を一気に失うことになります。

 日本は,ポツダム宣言受諾(無条件降伏をしたという事実をもっと重く受け止めるべきです)後のアメリカによる統治のもとで,二度と戦争をしない国家として憲法第9条を旗印に,戦争を放棄することを世界に向けて宣言した国家です。そして,世界が日本のこの決断を熱烈歓迎しました。なぜなら,日本がふたたび軍備をして戦争をする国家になることを,世界中の国家が恐れていたからです。なにせ,ハラキリ,トッコウタイといった命をなげうって突撃してくる軍隊など,ヨーロッパ先進国では考えられないことだったのですから。

 その「野蛮な」国家が,戦争放棄を謳った憲法を旗印にして,こんどは「平和国家」の樹立をめざして,大戦後の復興に立ち上がったのです。しかも,世界が驚くほどの成果を挙げました。このことに世界はふたたび驚きました。そして,日本はあくまでも「平和国家」を標榜し,専守防衛を貫くことを世界に向けて示しつづけてきました。この国家としての姿勢が,国際社会では高く評価され,大きな信頼をえることに成功しました。

 にもかかわらず,アベ政権は,中東戦争のときに日本は「カネだけ出して,人を出さない」と国際社会からきびしく批判された,この批判を回避するためには「人もだせる」集団的自衛権の行使容認が必要だ,というわけです。しかし,なぜ,こんな根拠のない誹謗中傷に怯えなくてはならないのか,わたしには理解できません。逆に「人をだせない」国家にしたのは,あなたがたではないか。それを熱烈に歓迎したのもあなたがたではないか。しかも,現行の平和憲法をわたしたちは誇りに思っています。だから,平和国家を目指すわが国としては,この憲法を遵守し,「人は出しません」と,堂々と論陣を張ればいいだけの話です。

 しかも,こんな批判を,もはや,いまのアメリカは日本に対してする根拠はどこにもないでしょう。アメリカは日本の集団的自衛権を歓迎しているとメディアは伝えていますが,どのレベルのニュース・ソースに基づいているのか聞いてみたいところです。現に,アメリカと中国はみごとなまでの信頼関係を構築しています。いまも,太平洋ではアメリカ軍と中国軍と日本の自衛隊が共同で演習訓練をやっています。この事実を「ひた隠し」にして,中国が攻めてくる,と恐怖心を煽ることに政府もメディアも熱心です。そして,多くの国民はまたまた騙されてしまいそうになっています。なにせ,嘘を公然と言ってのけることになんの罪悪感ももたない首相のやることですから。

 中国が尖閣諸島の領海侵犯を繰り返していて,一触即発の危機的状態がつづいている,という報道もわたしからみれば立派な「嘘」です。なぜなら,中国は,尖閣諸島の問題は,しばらくの間「棚上げ」にして日本の「実効支配」は認めましょう,という約束を日本とした上で,いつか,この問題について話し合うことのできる時を待ちましょう,というところで納得していたのです。ですから,尖閣諸島を日中で共同開発をしよう,という話まで持ち上がっていました。が,それらの約束を破って,一方的に「わが国固有の領土である」と宣言したのは日本なのです。中国が怒るのは当たり前でしょう。立場を逆にして考えてみれば,よくわかります。ですから,中国は「歴史認識」の問題だと主張し,それを根拠に,ぎりぎりいっぱいのところでの示威行動をつづけている,ただ,それだけの話です。日本が,もう一度,尖閣諸島を「棚上げ」に戻せば,一気に問題は解消します。こういう「事実」も「ひた隠し」にしています。メディアまで一緒になって。

 とにかく,なにがなんでも集団的自衛権行使容認に向けてまっしぐら。それが,とんでもない違法行為であることも無視して。こうした行為に歯止めをかけるはずの内閣法制局のトップまでアベ人事で都合のいい人間にすげ替えてしまっています。ですから,いまや,内閣法制局はあってなきがごときものになってしまっています。

 戦争はいつでも想定外のところからはじまります。ですから,専守防衛だけで充分です。すなわち,現行の単独的自衛権だけで充分です。

 ですから,今回の大問題は,憲法を無視したアベ政権の暴挙にあります。この違法行為をこそ,徹底的に問うべきではないでしょうか。

 明日(4日)の夕刻(午後6時)から,「立憲デモクラシーの会」が今回の集団的自衛権をめぐる問題をとりあげ,学習院大学でシンポジウムを開催します。わたしも出かけて行って,勉強してこようと思っています。詳しくは「立憲デモクラシーの会」で検索してみてください。

 これからがいよいよ正念場です。できる努力はしていきたい。そのためには,しっかりと熟慮を重ねつつ,できるところから行動に移していきたいと思っています。

 以上,現時点での所感まで。

2014年7月2日水曜日

Facebookは活用の仕方次第。素晴らしいニュース・ソースがいっぱい。みずからがメディアになれる世界。

 ずいぶん前にFacebookを開設したものの,その活用の仕方をよく理解しないまま放置していました。そして,時折,どんな記事が載っているのだろうかと覗いてみると,まあ,とてものどかな趣味の世界の話題ばかりが並んでいます。ああ,Facebookとはこういう世界なのか,といささか意気阻喪。これだったら,ブログで頑張ってみずからの思考を深めながら,文章を書いている方が,日々新たな自己と向き合うことができると思い,ブログに専念していました。

 ところが,です。あることがきっかけで,西谷修さんのFacebookを覗いてみました。すると,ここにはわたしの想像していたFacebookとはまるで異なる情報が,いわゆる「シェア」されて紹介されています。さらに開いて内容をしっかり読んでみますと,そこには驚くべき世界が広がっていました。なぜなら,日本の新聞やテレビがけして報道しない(しようとしない/できない?)情報が満載でした。これはいけない,と身を引き締めました。

 たとえば,こうです。この間の新宿での焼身自殺未遂事件について,日本のメディアの大半はスルーしてしまいました。つまり,なかったことにしてしまいました。ですから,この事件の内容をわたしたちはほとんど知ることはできませんでした。しかし,Facebookの世界は違っていました。もちろん,Facebookの世界でもいい加減な情報も流れていました。

 が,少し丁寧にレベルの高いソースをたどっていきますと,そこには驚くべき事実が伝えられていました。たとえば,この事件が海外ではどのように扱われているのかという生の証拠を提示する情報が,つぎつぎに現れました。まず,驚いたのは,焼身自殺未遂の現場の映像がそのまま流れていたことです。つまり,ハンドマイクを片手に集団的自衛権の行使容認に反対する演説をし(この音声はこの映像からは聞き取れませんでしたが),そのあとガソリンを頭からかぶり,ライターを取り出して火を点ける一部始終が映像となって流れています。そして,それを直にみていた周囲からは女性の悲鳴があがっている声も聞き取れます。それから,消防隊が駆けつけ放水をはじめ,消火し,自殺未遂者を担架で運び出すまで,すべて映像としてリアルに流されていました。

 この衝撃的な映像が海外のメディアが重視し,そのまま放映し,この映像をてがかりにして,この焼身自殺未遂がなにを意味しているのかを,詳細に論じ,多くの論議を生んでいるというのです。そして,その背景にあるものが何かを分析して,日本という国家がかかえている深刻な問題を抉りだしている,というのです。

 その実例の一つとして,ドイツの新聞記事が取り上げられていました。そこには,ドイツ語の記事の一部がそのまま転載され,しかも,その日本語訳まで投稿者の好意で付されていました。そして,投稿者は,こういう現実をしっかりと見極めて,日本のメディアがいかにいい加減(いや,意図的・計画的に,政府にとってマイナスとなる情報に蓋をしてしまっている,しかも,そのことに一致団結しているかにみえる)であるか,そして,いかに危険な国家となりはててしまっているのか,という警鐘を鳴らしています。

 つまり,海外のメディアには,立派にジャーナリズムの批評精神が生きています。つまり,精確な情報をありのまま流し,それに対する議論を展開し,みんなでその本質を考えようという姿勢が貫かれています。こういう世界であってはじめて民主主義が意味をもち,国家や政治の姿勢が糺され,浄化されていく,というわけです。ここで重要なことは「自浄能力」です。しかし,いまの日本には,民主主義も,ジャーナリズムの批評精神も,なにもありません。それどころか,政府が先陣を切って,国家の最高法規である憲法をないがしろにしようとしているのですから。少なくとも政府は,日本国憲法の精神を遵守するという枠組みのもとで権力を委託されているのであって,その政府が憲法を「遵守」するどころか,その上に立って解釈改憲(壊憲)を行おうとしているのですから,これは明らかに違法行為です。そのことに政府自民党の圧倒的多数の議員(そこに公明党の議員も加わっている)は,まったく無自覚のまま(あるいは知らぬふりをして)暴走しています。もはや,開いた口がふさがりません。

 というような具合に,Facebookは活用の仕方いかんによっては,日本の政府やNHKがひた隠しにしている「生の情報」を,そっくり手に入れることができます。そして,日々,新たになっていくみずからの思考や,生きる姿勢と向き合い,まことに充実した時間を確保することができます。わたしにとっては,あの青春時代の日々の,驚きの発見の連続であった,はらはらどきどきの日常がふたたび戻ってきたように思います。

 いかに,政・官・財・学・報が五位一体となって,情報をコントロールしようとも,国民がそのままメディアの主体となって情報を発信するインターネットの世界を統御することはできません。いや,すでに,インターネット上を流れている情報も,じつは,権力によって委託業者がつぎつぎに消しにかかっていることは承知しています。現に,数分前まで見ることのできた情報があっという間に消えていることは,よくあることです。でも,それに負けないように,これは,と思われる情報はわたしたちの手でつぎつぎに「シェア」して,思いっきり「拡散」させることです。

 その意味で,Facebookのもつ可能性に,わたしは賭けてみたいと,つい最近になって気づいたという次第です。恥ずかしながら,気づいたときが吉日と考え,あえて告白させていただきました。「知るは一時の恥,知らぬは一生の恥」ともいいますので・・・・。

2014年7月1日火曜日

集団的自衛権閣議決定に反対する首相官邸前抗議集会に行ってきました。

 6月30日(月)18時30分からの,「TOKYO DEMOCRACY CREW-集団的自衛権閣議決定断固反対-超緊急首相官邸前抗議」の呼びかけに応答して,その集会に参加してきました。が,その団体がどこにいるのかさえわからないほどの多くの団体が早くから押しかけていて,それぞれにショート・スピーチを行い,シュプレヒコールを繰り返していました。ので,わたしは道路の反対側の歩道に立って,こちら側からシュプレヒコールをしてきました。

 たぶん,いろいろの団体が集まってくるだろうと予測して,わたしは少し早めの17時には首相官邸前に到着していました。首相官邸側の歩道はすでに人でいっぱいでした。しかも,長蛇の列になっていて,盛んにシュプレヒコールが繰り返されていました。

 まだ時間があるので,別のどこかでなにかやっているのではないかと考え,国会議事堂を一周してみました。すると,生活者ネットワークという団体が,首相官邸から少し離れたところで集会をやっていました。こちらの人数はそれほどでもありませんでしたが,それを取り巻く機動隊の数には驚かされました。びっくり仰天です。下の写真の左側に,驚くほどの機動隊の集団が待機していました。横断歩道をわたる人もふり返るほどです。


 国会議事堂を一周してもどってきましたら,首相官邸前はさらに多くの参加者であふれ返っていました。もはや立錐の余地もないほどでした。反対側の歩道には,いわゆる「無所属」の集団が立っていました。そこにはいくらか余裕がありましたので,そこに入り込んでシュプレヒコールをしていました。が,気がつくと,いつのまにかわたしの後ろにはいろいろの団体の旗がひらめいていました。すぐ近くにあったのは「湘北教組」「浜教組」の二つの旗でした。

 しばらくすると,公明党が執行部一任を決めたというアナウンスがありました。集会は一気に熱気を帯び始め,ショート・スピーチをする人も,ことごとく公明党を「裏切り者」「平和の党の看板が泣く」「腹黒い政党」「計算・打算の党」「権力の甘い汁をすって豹変」というような揶揄で,猛烈な攻撃ぶりでした。これで,7月1日に予定されている閣議決定はほぼ間違いなし,という情況になってしまいました。シュプレヒコールの声もいちだんと大きくなってきました。

 



 しばらくすると,こんな街宣車が登場し,唖然としてしまいました。豊かな資金に支えられた(どこからでているかはお察しのとおり),なんともはや困った人びとです。それにしても,こんな巨大な街宣車をみるのは初めてです。威勢のいい音楽もアジ演説もなく,静かに通りすぎるだけでした。が,2台も同じ巨大な街宣車が並んでとおりすぎていくと,やはり,どこか不気味で,異様な雰囲気にはなりました。



 今回の集会では,ひとりぼっちでしたので,近くに立っている人たちといくらか会話をしてみました。やはり,思いはみんな同じで,戦争に参加することだけはなんとしても回避しなければならないこと,憲法9条を死守すべきこと,解釈改憲を閣議で決めるのは違法行為だということ,立憲デモクラシーを踏みにじる政府のやり方は許せないこと,国家の骨格が根本から崩れてしまうこと,などなど。いずれも即答でかえってきました。


 わたしの立っていたポジションが上のこの写真です。向こう側の右端でスピーチが行われていました。写真はかなり明るく写っていますが,すでに黄昏時でした。


 自転車でアピールする人もかなり多く,車道をゆっくり走りながら,何回も周回していました。いろいろのアイディアが満載で,つい失笑をかうようなのもあり,これはこれで一つの方法なのだなぁ,と感心してしまいました。

 今回の集会で気づいたのは,若者の参加がいつもと違って多かった,ということでした。やはり,わが身にふりかかる戦争が意識されているのだろうと思いました。それも女性の若い人が意外に多かったのが目につきました。なかには親子づれで参加している人もいました。驚いたのは,子どもを3人(小学生と思われる)も引き連れて歩いている家族もありました。沖縄では珍しくない光景ですが,国会前や首相官邸前では珍しい光景でした。こういう家族がこれからは増えてきてくれるのでは・・・と密かに期待をいだきました。

 17時から20時をまわったところで3時間が経過,体調のことも考え,引き上げてきました。いつ終わるとも知れない熱気がいっぱいで後ろ髪を引かれる思いでした。万全の体調なら,集会が終わるのを見届けて・・・というところですが,いまは無理をしてはいけないとみずからに言い聞かせて帰路につきました。

 帰宅して,遅い夕食をしながらNHKのニュースをチェックしていましたが,なんと長崎で集団的自衛権行使容認に反対するデモに200人ほどが集まった,と報じただけであとはなにもなし。全国各地でこのような集会をやっていることはネットをみればわかります。そして,この首相官邸前に集まってきた人の数は,わたしなどには想像もつきませんが,おそらくは述べ人数では何万人に達すると思います。これほどの大きな国民の集会を,しかも首相官邸前の集会をNHKは無視です。もっとも,首相官邸前は毎週金曜日の集会以外にも,このところは連日のように集会がもたれていることはネットで知ることができます。

 とにかく,このところのNHKは完全に政府御用達の放送局になりさがってしまいました。なにが公共放送か。もはや,受信料は払う必要はどこにも見当たりません。恐ろしい時代になったものだ,と身の毛がよだちます。

 こんごも,この集団的自衛権の行使容認の閣議決定というやり方については,さまざまな形態の批判イベントが予定されています。しかし,ほとんどのマスメディアは無視です。が,ネットではだれでも情報を流すことができますので,そこからいろいろの情報をえることができます。アンテナを高く張って,みずからの行動を決めていこうと思います。

 これからますます大きな国民的な運動になっていくと思いますし,また,そうならなければならないとわたしは考えています。もし,そうならなかったら,それこそ日本国の「破局」(カタストロフィ)です。憲法も国会もなにもかも意味をなさなくなってしまいます。すべてはときの政府の閣議決定で終わり。あとは,形骸化した多数決・民主主義によりかかり,すべてを合法化するだけ。

 ここは,なにがなんでも国民であるわれわれがひとふんばりして,「NO!」をつきつけなくてはなりません。そのための正念場がこれからはじまろうとしています。一人ひとり国民みんなが胸に手を当てて熟考し,行動を起こすときだ,とみずからに言い聞かせています。

 長くなってしまいました。が,とりあえず,首相官邸前の集会に参加したご報告まで。