2014年8月6日水曜日

スポーツの問題(たとえば,東京五輪)を考えることは,フクシマ,オキナワ,ガザを考えることと同根です。

 いささか愚痴っぽい話になりますが,このブログでフクシマやオキナワやガザを取り上げますと,とたんにページヴューの数字がダウンしてしまいます。場合によっては,個人的によく知っている友人たちから,スポーツの問題を考えることと,フクシマやオキナワやガザを考えることとは別問題ではないのか,という親切なご指摘をいただくこともあります。そのたびに,わたしはひどく落ち込んでしまいます。

 たしかに,わたしたちの世代でスポーツの世界に飛び込み,長年,その仕事に従事してきた人間は,学生時代に「スポーツと政治・経済は別問題だ」と教えられ,その考え方がしっかりと「刷り込まれ」,それを信じてきた人が多いことは事実です。しかし,わたしのようにスポーツの歴史に興味をもち,それぞれの時代や社会に生きる人びとにとって「スポーツとはなにであったのか」と問い始めた人間には,「スポーツと政治・経済は別問題」という教えそのものが,ある特定のイデオロギーに支えられて登場してきたものだ,ということにかなり早い時期に気づいてしまいます。

 それどころか,スポーツ(とりわけ,近代スポーツ競技)は,それぞれの時代や地域に根づく独特の考え方や風俗習慣をみごとなまでに映し出す「鏡」そのものだったのではないか,と気づきます。すると,では,なぜ,「スポーツと政治・経済は別問題だ」というようなテーゼが正当化され,喧伝されることになるのか,そして,そこで働いている力学はなんなのか,という疑問が湧いてきます。つまり,早い話が,だれのためにこのようなテーゼが提出され,だれが支持してきたのか,ということです。もっと端的に言ってしまえば,だれが得をして,だれが損をすることになったのか,ということです。

 そのようなことを長年にわたって考え,問い続けてきたわたしのような人間にとっては,フクシマやオキナワやガザで起きていることと,スポーツ(たとえば,東京五輪をめぐる諸問題)をめぐって起きていることとは,一直線につながっている,としかいいようがありません。つまり,根っこは一つ,ということ。まさに,それらは現代という時代をもののみごとに反映しており,言ってしまえば,すべて同根異花にすぎません。

 ですから,わたしの意識としては,このブログで書いていることのほとんどは,すべてわたしの根っこの部分にある同じ疑問から発しています。そして,わたしなりの答えを導き出してみようという発想から書かれたものばかりです。テーマはいちじるしく変化しても,わたしの意識のなかでは全部同じ問題にすぎません。

スポーツの世界で起きていることがらを深く洞察すればするほど,フクシマ,オキナワ,ガザ,などで起きていることとは瓜二つにみえてきます。結論的に言っておけば,それらは人間の傲慢さ,驕りからくるものであって,強者による弱者支配,それも有無を言わさぬ強権の発動です。世に言う「体育会」的体質です。

黒いものも「白い」と強者に言われたら,黙ってそれにしたがうしかない世界です。東京は世界一安全な都市です,と言われたら「ハハァーッ」とひれ伏すしかありません。世界一厳しい条件で原発の再稼働をチェックしている,と言われたらこれまた「ハハァーッ」と言ってしたがうしかありません。沖縄の米軍基地問題も,県知事が承諾したからという言質を錦の御旗にかかげて,辺野古周辺の住民にはなんの説明もなしに強行突破をはかろうとしています。ガザにいたっては,もはや,なにをか況んや,です。

新国立競技場の建造に関する手続も,コンペの審査過程も,審査の基準も,そして景観問題も,すべて強者の論理で押し切られようとしています。これほどまでの多くの専門家集団が異議を唱えているにもかかわらず,耳を貸そうとはしません。ただ,黙っておとなしくしているのはスポーツ関連団体のみです。

こんな奇怪しなことが平然として行われているのです。どこもかしこも,奇怪しなことばかりです。それは日本だけではなく,世界中がそうなってしまっています。それが「現代」という時代や社会の特質と言っていいでしょう。大義名分もどこかに吹っ飛んでしまって,目先の利益の追求に汲々としている,とわたしの眼には映ります。憲法まで無視して平気なのですから。あるいは,国連を無視しても平気なのですから。

ジャン=ピエール・デュピュイを引き合いに出すまでもなく「破局」(カタストロフィ)は,「いま,ここに」きてしまっている,と言わざるをえません。それに対して,わたしたちはどのように対処しなくてはならないのか,これが現代世界の喫緊の課題です。しかし,そんなことはどこ吹く風かとばかりに,経済の成長路線をまっしぐらです。アベノミクスがフクシマに蓋をし,経済成長(それも金融経済の数値のみ)に国民の眼を引きつけ,その裏で特定秘密保護法をとおし,集団的自衛権容認を閣議決定のみで押し通そうとしています。

こうしたやり方は,スポーツ界とそっくりです。表面では,健全で,美しいスポーツ神話を演出し,それを全面に押し出して「眼くらまし」をかませておいて,その裏の闇の世界では強者の論理が闊歩しています。

こういう話をはじめますとエンドレスです。また,そのつど,機会をみつけて考えてみたいと思います。今回は,ざっくりと,スポーツ,フクシマ,オキナワ,ガザは一蓮托生であるというわたしの仮説を提示させていただきました。ご叱声を賜れば幸いです。

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