2014年9月6日土曜日

今福龍太×中川五郎,トーク・イベントを堪能。硬直化したアカデミズムを批判。

 この夏,沖縄に久しぶりにでかけ,戻ってきた日(8月26日)の翌々日(28日)に,今福さんから直々にトーク・イベントがあるので,ぜひに,とお誘いがありました。ので,喜び勇んででかけてきました。今福さんの仕掛けたトーク・イベントなので,どんな場所で,どんな展開になるのかなぁ,と楽しみでした。

 案内によりますと,場所:art & eat (馬喰町)とあります。「art & eat」 ?  韻を踏んでいて,口当たりがとてもいい。しかし,アートと食べることとがどうシンクロするのかなぁ,とまずは想像力をかき立てられました。行ってみて,その謎が解けました。 


 この写真をご覧いただければ,いくらか納得できるのではないかと思います。つまり,アート・ギャラリーとキッチンの組み合わせになっていて,壁面にアートを展示し,かつ,食べ物を提供するレストランでもある,という次第です。写真の右側は入口で,その壁面に張ってあるイベントのポスターの前で談笑する今福さん(帽子をかぶっている)と中川さん。そして,その右側では食べ物を準備している女性とその奥がキッチン。手前の椅子が,今日のトークを聞く人のための椅子。


 壁面に飾ってある写真を眺める来場者。左奥に今福さん。こうして,トーク・イベントがはじまる前には,アート(今回は今福さんと中川さんの撮影した写真)を鑑賞します。今福さんも中川さんも来場者と一緒に,展示を見ながら談笑して,楽しんでおられます。アートを実作者とお話しながら一緒に鑑賞できるというのも,いいアイディアだと思いました。鑑賞する側からすれば,まことに贅沢の極みというところです。

 日時:8月28日(木)18:00~20:00
 対談者:今福龍太×中川五郎


 こうして,時間前のアートの鑑賞を楽しみ,いよいよトーク・イベントの開始です。

 ドリンク付きなので,わたしはビールを飲みながらの拝聴。中川さんは赤ワイン,今福さんのドリンクは不明(色からすると,ビールに見えますが・・・)。つまり,アルコール付きのトーク・イベントです。もちろん,ソフト・ドリンクも用意されています。でも,奄美の焼酎も日本酒もウィスキーもオーダーできるようになっています。みなさん,それぞれにお好みのドリンクを片手に,トークを拝聴という,なんともなごやかな雰囲気でした。

 トークは,お二人の出会いから始まって,中川さんの作品(小説)をめぐる裁判の話(ワイセツ問題で,約10年闘争),今福さんのメキシコ放浪時代の話,80年代の終わりころに帰国し,フリーのライターをしていたときに安原顕さんに拾われた話,そのころ,中川さんは詩の翻訳者として登場する話,その翻訳された詩がポルノグラフィー的な描写が多くとても惹かれた話,翻訳は原作者との共感,共鳴,共振が基本,だから翻訳しているとポルノグラフィーの世界に入りこんでしまって,気づくと自分も同じことを体験してしまった話,など。

 ここでの話の骨子は,裁判所で語られることばは,日常語とはまったく無縁な,抽象的なことばでしかないこと,だから,ワイセツの定義もわけがわからない,つまり,死語にも等しいことばが,あるいは,そういうことばだけが支配している世界であること,そこには「愛」を語る力はどこにも見当たらないこと,したがって,愛とワイセツの区別もできないこと,だから,裁判所は「愛」を裁くことはできないこと,ということは生身の人間を裁くことはほとんど不可能ではないか,などが語られ,硬直化してしまったことばの無意味性の問題が熱く語られました。

 ここで,2003年のアリゾナのバンドの演奏(もちろん,録音されたもの)を聞き,つぎの話題に入っていきました。こでは,インストゥルメンタルな音楽の話となり,音の出てくる源泉に強く惹かれることの意味について考え,あるいは,歌詞があってもことばになっていない音楽・・・ひたすら単語が羅列されるだけの歌詞・・・注書きのようなもので,しかも危ない注の連続・・・このことの意味についてかなり突っ込んだ議論がなされました。

 そこから,写真の話に転じて,ある写真家の撮った写真とまったく同じ場所から,同じアングルで,30年後に撮るという試みについて,そのことの意味について考える話へと入っていきます。今福さんにはレヴィ・ストロースの写真を手がかりに,その30年後に,レヴィ・ストロースとまったく同じアングルから写真を撮る,という経験があります(著書のなかに登場します)。そのとき,何気なく「そこに座る」。しかし,それは「そこに座らされる」ことではないか,このことの意味を考えてみる。すると,それは「生きる」ということと同義ではないか,ということに至りつく,と。そこには「聖なる力」とでも名づけるしかない,ある「力」が働いているのでは・・・と。

 という具合にまだまだ面白い話がつづくのですが,ここでは割愛。


 そのあとで,中川さんの演奏(もとはシンガー・ソング・ライターとしても活躍したことがある)が入りました。ギターの演奏もじつに繊細で,歌も声に伸びがあって,どこかほっとさせてくれる響きがありました。この音楽に触れたところで,ああ,中川さんの書かれた本を読んでみようという気にさせられました。なぜなら,このとき,初めて,頭ではなく,からだがそれを求めていると感じたからです。これも不思議な体験でした。

 この歌のあと,今福さんが,最後のまとめのようなお話をされました。
 それは以下のとおりです。

 ひとことで言えば,「殻を破る」ということ。その骨子は,ファーブルの実証的な研究とダーウィンの進化論との違いはなにかというお話であった,と言っていいでしょう。ファーブルの『昆虫記』は,徹底的に観察をつづけ,一つひとつ,じつにきめ細かに分析をしながら因果関係を明らかにした,まさにアカデミックな実証的研究であった。にもかかわらず,アカデミズムからは排除されてしまい,単なる物語作家として位置づけられてしまった。他方,ダーウィンの進化論は,短期間の観察をとおして,それを抽象的な議論のまな板に乗せ,整理しただけの話にすぎない。にもかかわらず,ダーウィン的世界がアカデミズムには歓迎され,それがアカデミズムの主流をなすに至った。しかし,ファーブルに言わせれば,ダーウィンは「ちゃんと物を見ていない」,外観のみだ,と批判している。こんにちのアカデミズムはダーウィン的世界に陥ってしまっていて,現実からは,つまり生き物のほんとうの世界からは無縁なものになってしまった。一刻も早く,ファーブルの研究がアカデミズムとして評価されるときがくることを祈っている。これから求められているのは,まさに,ファーブル的学問である,と。すなわち,アカデミズムの「殻を破る」ことを希求する,と。

 この日のトーク・イベントを締めくくることばとして,これ以上のものはない,と深く感動してしまいました。この話を聞きながら,今福さんの処女作ともいうべき作品『荒野のロマネスク』を思い浮かべていました。このことは,わたしが長年にわたって疑問に思っていたことでもあったからです。生身のからだを生きる人間にとって「スポーツとはなにか」を語ること,これを実現しようとすれば,ひょっとしたら詩のような形態になるかもしれない,でもそれがもっとも本質を明らかにする方法であるかもしれない。真実を語ることは,硬直化したことばには不可能だと,ずっと考えてきました。その意味で,このトーク・イベントを聞かせていただいてよかった,と久しぶりに至福のときを過ごせたことに感謝。

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