2014年10月18日土曜日

前後に移動するときの脚の運び方は歩行運動と同じです。その1。李自力老師語録・その53.

 太極拳の稽古をはじめた初期のころに李老師が言われたこのことばの意味が,いまごろになって少しわかってきたように思います。これまでは,ああ,そうなんだ,という程度の理解でした。つまり,ことばの上での理解であって,からだの芯にまで浸透したものにはなっていませんでした。ということはなにもわかってはいなかった,というわけです。

 「前後に移動するときの脚の運び方は,ふつうの歩行運動と同じです」。このなんの変哲もないことばが,じつはとてつもなく奥の深い意味内容をもっているとは・・・・。太極拳は,どうやら,簡単な動作ほど奥が深いのではないか,と最近になって考えるようになりました。

 たとえば,太極拳の最初の動作=チーシ(起勢)。体重を右脚に乗せて左脚を持ち上げ,肩幅分だけ左側に移動させ,左足の爪先から徐々に体重を移しながら,左右バランスよく均等に体重を支え立つ。そのとき,右足の裏側から大地の気を吸い上げ,股関節を通過させて,左足に送り込むのです,と李老師はこともなげに仰います。

 外見上の動作だけなら,だれにでもできるチーシ(起勢)。しかし,このチーシという動作は,たとえば,全日本選手権に登場してくる選手たちをみていても,みんな個々別々で,個性そのものが表出するものだ,ということがわかります。言ってしまえば,みんなバラバラです。ひとりとして同じ動作になることはありません。しかも,その美しさを感じさせる選手はごく稀にしかいません。

 ところが,李老師が,大きな大会の最終プログラムで,時折,見せてくださる表演でのチーシはとても美しいのです。それはうっとりするほどの美しさです。どこか次元が違います。

 このことに初めて気づいたのは,何年か前に,渋谷公会堂で行われた「中国代表団」による表演のときでした。この中に,李老師も加わって表演をしてくださいました。みなさん,中国を代表する一流の人たちばかりです。なのに,李老師のチーシだけが異次元のものにみえたのです。そして,そのなによりの証拠は,ほかの先生方の表演のときにはどことなくざわついた雰囲気が会場に漂っていたのですが,李老師がステージに登場し,直立不動の姿勢をとった瞬間から,会場は水を打ったように静まり返ってしまいます。そして,音楽が流れ,チーシの動作に入ります。その瞬間,なにか,身もこころも奪い取られてしまうような感覚が全身に広がり,李老師の世界に魅入ってしまうことになります。

 それは,もはや,超一流の芸術作品というべきでしょう。

 以後,わたしは,まずは姿勢を糺して「立つ」こと,そして,納得のいく「チーシ」の動作ができるようになること,このふたつを特別に意識してこころがけることにしています。が,いまだに道半ばにも達していません。なぜなら,心境の深まりが伴わないからです。太極拳をする「こころ」が,まだ,身についていないからです。

 ことほど左様に,太極拳は,かんたんな動作ほど奥が深く,その奥の深さを表演することなど,まだまだ,遠いさきのことだ,といまごろになってようやくわかってきたという次第です。

 ですから,「ふつうの歩行運動」をしなさい,と何回も言われてもその真の意味はわかっていません。それらしき動作はだれにもできます。だって,みんなごくふつうに,日常的に歩いているのですから。なのに,太極拳のときの前後への移動となると,もはや,「ふつうの歩行運動」ではなくなってしまいます。脚が途中で止まってしまったり,脚の動きがギクシャクしてしまい,ふつうに歩いているときとは明らかに違います。ここが不思議です。

 ですから,最近になって,ふつうに道路を歩きながら,「歩行運動」とはどういうことなのだろうか,と考えるようになりました。すると,「アッ」と気づくことがありました。

 この話は長くなりそうですので,このブログのつづきとして,次回にまとめてみたいと思います。
 ということで,今日のところはここまで。

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