2014年10月10日金曜日

「未来(あした)をつかもう」・・・・これって何の標語かわかりますか。

 正直に告白しておきます。恥ずかしながら,こう問いかけるわたし自身がこの標語を知りませんでした。わたしのアンテナが低すぎたのかもしれません。もう,みなさんは承知の上で,わたしひとりが知らなかったことだとしたら,お許しください。

 「未来(あした)をつかもう」・・・・じっと時間をかけて眺めてみました。わたしにはこの標語の意味するところが理解できなかったからです。まずは,「未来」って「あした」のことなのだ,と首を傾げる。「あした」といえば,「きょう」のつぎの日だ。ということは,「いま」と同じだ。「いま」やらねばならないことは,たとえば,「きょう,あした」のうちにやらねばならないことと同義です。なーんだ,「きょう」をつかもう,と言ってるんだ。つまり,「未来」=「きょう」となるからです。

 だとしたら,けだし「名言」というべきか。

 もっとも,「あした」にはもっと長いスパンのさきのことを意味することもあります。アスナロの木のように「あしたこそ」「あしたこそ」と願いつづけても,それは永遠に実現不可能な場合もあります。「あした」の含意はきわめて微妙です。

 「未来」だけなら,これはもう遠いさきのこと,という意味で明々白々です。「あした」「きょう」の問題とは無関係です。未来は永遠に未来でありつづけるからこそ,夢も希望も託すことができますし,破局(カタストロフィ)を設定することも可能です。

 その「未来」をそのまま「未来をつかもう」と読むとすると,これまた,まことに不思議な意味になってきます。なにゆえに,遠いさきにあるべきはずの「未来」を,「いま」に引きつけて「つかもう」とするのか。論理矛盾です。たぶん,この標語を考えた人は「夢や希望をつかもう」という意味で「未来」という漢字に「あした」とふりがなをつけたのだろうと思います。しかし,意地悪く読むと,未来のいつか,どこかに待ち受けているかもしれなけい「破局」をつかもう,ということにもなってしまいます。

 だとしたら,わたしたちは,すでに「破局」はつかんでしまっています。その意味では「未来(あした)」は,しっかりと「いま,ここに」ある,と断言することができます。そのことを西谷修さんは2冊の本をとおして訴えています(『アフター・フクシマ・クロニクル』『破局のプリズム──再生のヴィジョンのために』,いずれも2014年刊,ぷねうま舎)。

 「未来」はずっと向こうにあるからこそ「未来」であって,その「未来」が「いま,ここに」来てしまったこと,そのことが「破局」(カタストロフィ)の意味だ,と西谷さんは指摘しています。ですから,わたしたちは,いま,「破局を生きている」と認識し,その「破局」をいかにして回避し,再生のためのヴィジョンをわがものとすべきか,と西谷さんは説きます。

 このイメージが,わたしの頭には鮮明にありましたので,この標語「未来(あした)をつかもう」を眼にしたとき,一瞬,目眩がしてしまいました。夢も希望も破局もみんないっしょくたにして「つかもう」とは,いったい,どういうことなのだろうか,と。そうして,しばらく考えた結果,そうか,「未来(あした)をつかもう」とは,「再生のヴィジョンをつかもう」と言っているのだ,というところにたどりつきました。すると,この標語はじつに立派な理念にささえられた,素晴らしい標語だ,ということになります。しかも,そこにこそ一縷の「夢と希望」を託すことが可能である,とも。

 はたして,そうなのでしょうか。

 ここで種明かしをしておきましょう。なにを隠そう,「未来(あした)をつかもう」は「東京五輪2020」の標語/スローガンです。

 ですから,わたしはびっくり仰天してしまった,というわけです。

 さて,みなさんはこの標語をどのように受け止められるのでしょうか。

 「東京五輪2020」は,このスローガンからして,意味不明な迷路にはまり込んでしまっているようです。ですから,これまでの準備をみているかぎり,はちゃめちゃです。

 それはそうでしょう。福島県民12万人もの人びとが,いまも,家・土地を追われて避難生活を余儀なくされている「非常事態」にあるという厳然たる事実を,あの手この手で隠蔽・抑圧・排除しようと必死になっているのですから。にもかかわらず,「亡霊」(J.デリダ)は予期せざるところに突如として噴出し,顔をみせるからです。

 「未来(あした)をつかもう」は,期せずして,顔をみせた「亡霊」だ,と言っていいでしょう。わたしにはそんな風にみえて仕方がありません。もし,そうだとしたら,すべて納得です。東京五輪2020は,この「亡霊」にとりつかれたまま,あっちへヨロヨロ,こっちへヨロヨロとさまよい続けるしか道はないのです。つまり,「たたり」が取っついてしまっているのですから。しかも,みずからの意思で,その「亡霊」を呼び寄せ,なおかつそれをスローガンにしてしまったのですから・・・・。

 呪われし「東京五輪2020」は,これからさき,どのような道程をたどることになるのでしょうか。まったく予測がつきません。ひょっとしたら,ついには「東京五輪2020」返上,というような事態にいたりつくのではないか,とそんな予感もしまです。その根拠もはっきりしています。最後の決め手は「フクシマ」。つづいて「財政破綻」。さらには「市民運動」。

 10月10日の,わたしの「妄想」まで。「悪夢」で終わってくれることを祈りつつ。

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