2014年10月1日水曜日

「美術する身体」展。ピカソ,マディス,ウォーホル,など。名古屋ボストン美術館で。Gestaltungを考える。

 「美術する身体」・・・このテーマに惹かれて,名古屋・金山へ。27日の犬山例会を主宰してくださった船井廣則さんの情報提供を受けて,翌日(28日),栄の「これからの写真」展(愛知県美術館)をみたあと,金山に足を伸ばしてみました。栄から地下鉄で四つ目が金山。

 金山の駅を降りて,地上に出てきてびっくり。むかしは(いまから60年前の話)名鉄とJRの駅が別々にあったし,駅名も名鉄は「金山橋」でした。そして,金山橋の駅は路面にあったと記憶しています。ところがどっこい,これまた立派なモダンな駅舎となり,駅名も「金山総合駅」とあります。名鉄とJRがひとつ駅舎にまとめられ,とても便利になっていました。

 その駅前に,名古屋ボストン美術館がありました。栄の愛知県美術館もびっくりするほどの立派な建築でしたが,ここもまた素晴らしい建築でした。名古屋はすごいエネルギーに満ちている,そんな印象をもちました。

 さて,問題の「美術する身体」展。こちらはなかなかの充実ぶりで満足。

 
 
  この展覧会で考えていたことは,ただ一点。それは,27日の犬山例会で議論になった Gestaltung ということについてです。すなわち,「美術する身体」の Gestaltung とはなにか。それが手にとるように,わたしの眼には見えてきました。とてもありがたいことでした。

この展覧会に展示された作品は1940年代から現代まで。とくに,第二次世界大戦以後,ピカソやマティス,ウォーホルなどといった画家たちが,人間の「身体」をどのように捉え,描こうとしてきたのか,ということがメイン・テーマとなっています。ですから,各作家たちが「身体」を創造する意図,託す思いのようなものが,それぞれの作家の生きた時代や国・地域によってさまざまに表出している,その現物と向き合うことができる,というわけです。各作家たちは,それまでの「美術する身体」描写を批判的に乗り越えようと必死で考え,みずからの手法を編み出します。そして,それぞれの思いを籠めて「美術する身体」の理想を探求していることが手にとるようにわかってきます。これこそが,「美術する身体」の Gestaltung そのものではないか,と考えた次第です。

そこには,人間の運動の Gestaltung とはなにか,ということを考える上での大きなヒントがある,と。つまり,Bewegungsgestaltung とはなにか。人間の運動にはさまざまな階層があります。たとえば,Uebung/Training とBewegung/Movement との間には大きな違いがあります。修練やトレーニングはある目的があって,その目的に対して合目的的に組織された運動のことを意味します。しかし,そこで組織される前の「運動」(Bewegung/Movement )は,純粋な意味での人間の運動そのものを意味します。となりますと,人間がからだを動かす,あるいは,人間のからだが動く,とはどういうことなのか,という根源的な問いが発生してきます。その問いに応答するものが,すなわち,Gestaltung ではないか,というわけです。

この仮説が正しいとすれば,Bewegungsgestaltung という課題は,きわめて哲学的な問いに応答しなければならなくなります。1920/30年代にあっては,この要求に応答する哲学となれば,それは「生の哲学」(Lebensphilosophie )ということになるでしょう。となると,忽然と立ち現れるのが,たとえば,ニーチェの哲学,ということになります。ならば,ニーチェ的な発想による Bewegungsgestaltung とはどのようなものなのか,と思考を伸ばしていけば,おのずからなるひとつの解がみえてきます。

 このように考えてきますと,では,こんにちのわたしたちにとっての Bewegungsgestaltung はどのようなものなのか,ということもみえてきます。「美術する身体」の Gestaltung が作家の力量を反映するように,Bewegungsgestaltung もまた,それを模索する体操指導者によって異なってきます。となると,ドイツ体操( Deutsche Gymnastik )の改革運動のなかで探求された Bewegungsgestaltung は,ひとつの「イズム」となっていく方向と,各個人のレベルの探求に委ねられる方向とに分裂していくことになります。と同時に,ゴールのない理想の探求であり,永遠の哲学的なテーマである,ということになります。すなわち,Bewegung/Movement なるものの,もうひとつの顔がそこに現れてくることになります。すなわち,体操運動と思想・哲学運動の二つの顔がある,と。

 こんなところにたどりつくことができたという意味で,「美術する身体」展は,わたしにとってはまことに有意義なものとなりました。これを手掛かりにして,さらに思考を深めていきたいという意欲までおみやげとして頂戴することになりました。ありがたきかな,美術展。

 
 
 

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