2014年11月11日火曜日

蘇我馬子,蝦夷,入鹿。このネーミングの不思議と乙巳の乱・大化の改新。その謎に迫る。その1.

 雑誌『世界』(12月号)の特集「報道崩壊」を読んでいたら,突如として,『日本書紀』『古事記』のことが脳裏に浮かび,つぎからつぎへと疑問が湧いてきて,とうとう抑えようがない衝動につき動かされてしまいました。その経緯をかんたんに説明しておきますと,以下のようになります。

 以前から,藤原不比等という人物の存在が気がかりになっていました。その根幹にある疑念は「記紀」の編纂のねらいはなにであったのかという点にあります。つまり,日本古代の「正史」を意図的・計画的に改竄・構築し,それを敷衍させなければならなかった理由はなにか,ということです。もっと踏み込んでおけば,どうしても隠蔽・排除しなければならない歴史の真実があったのではないか,というのがわたしの仮説です。

 それは乙巳の乱であり,大化の改新であり,律令制の基礎固めであり,万世一系の天皇制の確立,等々であります。つまり,これらがなにを意味しているのか,という問題に突き当たっていきます。その根底にあるわたしの問題意識は,国譲りにはじまる新しい統治者とオオクニヌシを崇める出雲族との「妥協」(「手打ち」)という名の対立抗争の内実と,その「尾」を断ち切ること,にあるのではないか,というのが第一点。そのためにこそ,歴史の真実とはまったく異なる新たな「歴史物語」(「記紀」)を捏造し,それを「正史」として位置づけること,つまり,歴史の真実を覆い隠すこと,にあるというのが第二点。この二点に集約することができます。

 もう少し踏み込んでおけば,以下のようになります。垂仁天皇によって取り立てられた出雲族のノミノスクネの末裔である菅原道真が,なにゆえに藤原一族によって「冤罪」をかけられ,太宰府に流されることになったのか。つまり,天皇制を確立し,それを護持することでみずからの存在理由を明確にしようとする藤原一族にとって,それ以前から隠然たる勢力を,それも全国ネットで維持している出雲族の存在が邪魔で仕方がなかったのではなかったか。その出雲族抹殺のはじまりが「乙巳の乱」であり,その幕引きが「太宰府流し」ではなかったか。しかし,それだけでは終わりませんでした。むしろ,深い深い怨恨を残すことになったというべきでしょう。

 たとえば,「河童伝承」もその陰の部分の表出であり,いまも隠然たる勢力をもつ神社のネットワーク,そこに深く結びついていると思われる古武術の系譜(弓術,剣術,など),垣内(かいと)や氏子組織,神社の祭祀,など挙げていけは際限がありません。それらの多くは,わたしの仮説では,出雲族の流れをくむものです。「一宮」「二宮」「三宮」といった制度の中核には,「オオクニヌシ」が厳然として存在しています。そのことの意味がどれだけ意識されているかどうかは別にして,そういうシステムがいまも生きているという事実は注目すべきではないか,と考えています。

 こんなことを考えていると,このたびの出雲大社と天皇家との婚姻は,まさに青天の霹靂であり,長い葛藤の歴史に終止符を打つ,象徴的なできごとであった,ということができるでしょう。あるいはまた,表と裏の顔があって,じつは裏ではしっかりとした絆で結ばれていたことの表出にすぎない,ということもできるでしょう。いずれにしても,出雲族と天皇家の,国譲り以来の「和合」がかなった,歴史的事件でした。

 と,話が脱線したところで,この稿はここまでとしたいと思います。本題のテーマに入る前の導入で終わってしまいましたが,この「つづき」は別稿に委ねたいと思います。とりあえず,これにて。

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