2014年12月2日火曜日

日展・書道展をみてきました。日展は改革されたのか。

 世の中,誹謗中傷やウソが飛び交い,しかも,政治の世界で,うんざりすることばかり。でも,そうはいってもこれからの日本の行方を決定づける,きわめて重大な選挙。ぐちをこぼしているだけでは済まされません。憲法を無視し,福島・フクイチ,沖縄・辺野古に蓋をしたまま,国民の自由な言論活動を封じ込め(特定秘密保護法),民主主義に背を向け,ひたすら戦争に向かってまっしぐら・・・・としか思えない現政権党の暴挙に有効な歯止めをかけなくてはなりません。そのためにのみ,こんどの選挙は意味をもつ・・・と覚悟を決めています。

 そんな暗い気分のままではやってかれませんので,ここは一息入れて,と気分転換をはかることにしました。日曜日の午後,国立新美術館で開催中の日展を見にでかけました。お目当ては書道展。

 そのポイントは,日展審査の裏側の小細工が暴かれて,さまざまな改良がなされた結果,それがどのように作品選定に反映されたのか,を確認すること。ことしがそういう意味での日展,再出発の第一年目。

 結論。書道に関しては,全体的にやや元気がでてきたかに見受けられました。とはいえ,以前よりも厳正な審査がなされたとも思えませんでした。なぜなら,ことしもまた玉石混淆の作品がずらりと並べられていたからです。つまり,ピンからキリまでの幅が広すぎる,というのがわたしの印象でした。しかも,はっとするような「力」のある作品は一点もありませんでした。

 巻紙に書かれたかな文字以外は,みんな大作ばかり。その大作のなかには力作もありましたが,「へたうま」に凝りすぎた駄作も少なくありませんでした。こちらは見るに耐えかねる駄作,しかも会場の緊張感を一気にぶちこわしてしまいます。もちろん,そのような「へたうま」を良しとする流派もあるわげで,一概に否定することはできません。

 「いいちこ」のラベルの文字を書いた榊莫山さんのような「へたうま」はその典型でしょう。しかし,この莫山さんは小学校6年生のときに,楷書で文部大臣賞を受賞している,楷書の名手です。それは一部のスキもない,切れるような文字です。そういう楷書がしっかりとからだに叩き込まれたのちに,いろいろと進化をとげ,最終的に行き着いた世界,それが莫山さんの「へたうま」です。ですから,莫山さんの「へたうま」の文字には一部のスキもありません。それでいて,これ以上に自由闊達に躍り上がることはできない,そのぎりぎりの世界から生まれてくる「へたうま」です。それを修行半ばの書家が真似をすると,とんでもない大火傷をするという次第です。

 もともとが,数えきれないほどの流派書道が乱立するなかで,それらを均してしまって作品の優劣の審査をするということ事態が,所詮,不可能なことなのです。それを無理矢理やろうとする,これぞ近代の「合理主義」の驕り以外のなにものでもありません。科学的合理主義という考え方は一定の条件付きで正しいのであって,それを普遍化して良しとすると,そこには大きな落とし穴があるということです。アートの世界に多数決は通用しないのと同じです。

 ですから,これまでの日展の審査では仕方がないので,流派別に入選作品の数を分配して,その中での優劣を競わせるという,苦肉の策が生まれたというわけです。しかも,家元的なしきたりもあります。美の力点のおきどころも違います。スポーツの世界のように,たとえば,100mを走って1000分の1秒まで計測して(人間の目では判定できない世界),優劣の判定をする世界とはまるで違います(これはこれでまた狂気の世界だとわたしは考えています。人間の目に見えない差を判別して優劣を競うことの意味がどこにあるのか,と)。

 書道展を面白くなくしているのは,審査員の先生を喜ばせるような作品ばかりが提出される,という一点にあるとわたしは考えています。つまり,先生のご機嫌を伺うばかりに,没個性的な作品に陥ってしまう,というわけです。わたしは,書は一人一派である,と考えています。たとえば,いくら真似て書いても良寛さんの書にはなりません。王羲之の書にもなりません。弘法大師の書にもなりません。つまり,書にはその人の,その時点での,すべてがトータルになって表出する,そういうものだと考えているからです。

 このように考えたとき,日展の書道展のつまらなさが,そこはかとなくわかってきます。もっと書家のからだから,抑え込んでも,隠そうとしても,するりと表出してくる,そういう文字に出会いたいと考えています。つまり,計算も打算もない,理性がはたらく以前に,立ち現れてくる文字に突き動かされるようにしてつぎの筆が走る,そうして生まれる書のもつ「力」に触れてみたい,これがわたしの願望であり,期待であり,夢であり,快感です。

 わたしの友人である能面アーディストの柏木裕美さんは,能面を打つときに,頭ではなにも考えていませんと言い,「わたしの目が考え,手が動く」のです,と言っています。この世界にわたしは深く感動し,そして,こころの底から共感します。

 言ってしまえば,西田幾多郎が『善の研究』のなかで述べている「純粋経験」の世界であり,のちに主張することになる「行為的直観」の世界に通底する境地から生まれてくる書,これがわたしの書の理想です。ちなみに,西田幾多郎の書は,これまた天下一品です。深い味わいのある素晴らしい書です。

 このさきの話は,また,いずれ。

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