2015年1月10日土曜日

『鬼の研究』(馬場あき子,ちくま文庫)を再読。

 歌人として知られる馬場あき子の名著といわれている『鬼の研究』を久しぶりで読み返してみました。読み手の問題意識によって,名著というものはいろいろの顔をみせます。わたしが初めてこの本に出会ったのは,もう,25年も前のことです。この当時は,「そうか,鬼という視点があったか」という啓蒙的な受け止め方でしかありませんでした。が,今回は,はっきりと<出雲>を意識して読み始めましたので,見えてくるものがまるで違いました。

 その結果の一つが,昨日のブログで書きましたように,菅原道真が「天神さま」に祀られるようになった経緯でした。これまでも朧げな知識としてはもっていましたが,これほど詳しく知ったのは初めてでした。しかも,出典まで明らかにされていましたので,これから,さらに触手をのばしていこうかと考えています。

 この『鬼の研究』はもうずいぶん前に刊行された古いものですが,にもかかわらずその鮮度は落ちていません。もちろん,時代的な制約があったことは仕方がありません。たとえば,このテクストの初版がでたのは,1971年6月30日,三一書房からでした。この時代に古代史の「闇」に触れることはタブーでした。とりわけ,天皇制の問題に触れることは,古代史研究者の間では憚られていました。「鬼」の研究とは,権力によって排除され,しいたげられた階層の人びとの実態を明らかにすることにあるわけですので,ある意味でアンタッチャブルな領域に踏み込む作業でした。しかし,馬場あき子は,歌人という立場をうまく活かし,古代史研究者が忌避したがる領域にするりと入り込み,歌人ならではの文献渉猟のはてに,その間隙を縫うようにしてテーマの「鬼」に迫っていきます。しかも,迫力満点です。

 
まず,真っ先に印象に残ったのは,各章の扉に配した古い能面でした。第一章 鬼の誕生,の扉には「般若」の面が,1ページ全面を使って大きく紹介されています。かなり古い面だと思われますが,なかなかいい面ではないか,と素人ながらも感じます。この面の解説がないのが残念。ふと気がつけば,この本の表紙カバーも能舞台で舞う鬼の写真です。この写真だけはクレジットが書いてありました。吉越立雄「石橋」。

 馬場あき子によれば,「鬼」的なるもののすべての要素は「般若」の面に凝縮している,ということになります。つまり,美しい女性の面として知られる「小面」は「般若」と表裏一体のもので,小面の裏にはひそかに般若が棲んでいる,というわけです。「小面から般若まで」ということばがありますように,ひとりの女性の内面は,折に触れ,さまざまな顔となって表出してきます。

 とりわけ,能楽が盛んになった中世にあっては,女性の立ち位置や生きざまは,こんにちとはまるで違います。幾多の艱難辛苦に耐えながらも,これ以上は我慢できないという限界に達し,堪忍袋の緒が切れるということも,しばしばあったようです。そういう怨念がいっぱい詰まった極限が「般若」ではないか,と馬場あき子は推理していきます。その説き方がまた素晴らしい。

 
わたしが注目したのは,第三章 王朝の暗黒部に生きた鬼。1.鬼として生きた盗賊の理由。この中に,「童子を名のる大江山の鬼」「二つの大江山と酒呑童子」「山拠の生活をもった人びと」「王朝暗黒社会の不可解性」とつづく一連の考察が収められています。そして,3.雷電と鬼,のところに「菅公の御霊としての雷電」という小見出しがあり,ここに昨日書いたブログのネタがふんだんに盛り込まれています。

 第五章 極限を生きた中世の鬼。これが最終章になるわけですが,ここでは徹底して能面の世界を論じています。そして,圧巻です。目次だけ紹介しておきますと,以下のとおりです。
 1.中世破滅型の典型としての般若,
 2.空無の凄絶をもった美──「黒塚」考
 3.白練(しろねり)般若
 4.一言主の愁訴と棄民山姥

 巻末には,谷川健一の解説がついています。

 とりあえず,名著のご紹介まで。
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