2015年4月20日月曜日

東京五輪2020批評・その1.東京五輪はだれのためのものか。国民無視の実態。

 東京五輪2020の招致運動からこんにちまで,国民の意思はほとんど無視されたまま,どこかの密室で着々と推し進められている。当該担当部局に議事録の開示を求めても,3カ月も6カ月も待たされた上に,開示される議事録は真っ黒に塗りつぶされたものがほとんどだ。読んでもなんの役にも立たない代物ばかりである。それでも議事録を開示している,としらを切る。

 東京五輪2020の招致・開催の主体は東京都である。しかし,その東京都が五輪招致のために作成した開催要領がどのような議論を経て作成されたのか,わたしたちは知るすべをもたない。詳しいことはだれも応答してくれないからだ。すべては密室でことが運ばれたということだ。それでも開催要領をよくよく分析すれば,だれが,なにを,企んで作成されたものであるかは,一目瞭然である。

 たとえば,東京湾岸を中心に「5キロ圏内」ですべての競技を行う,いわゆる「コンパクトなオリンピック」というキャッチ・フレーズの陰に隠された本音は,まるで子どもじみた理屈である。ごくかいつまんで書いておけば以下のとおりである。

 東京都が東京湾にゴミを棄てて埋め立てた土地が,大量に空き地のままになっている。だれも買い手がいないからだ。つまり,使えない土地なのだ。だから,その表面に芝を植え,植樹をして緑地公園にし,部分的にスポーツ施設をセットして,都民に解放されている。しかし,コストの上で採算がとれない。そこで飛び出した名案(迷案・明暗)が,オリンピックを招致して,全部,スポーツ関連施設にしてしまおう,というわけだ。それを「東京湾副都心計画」と銘打って,選手村やマンションも建造して,終わったら民間に払い下げればいい,と考えた。この案が都議会をとおして承認され,晴れて日の目をみた。この仕掛け人は石原慎太郎である。日本はこの案を引っさげてIOC総会に乗り込んだ。

 当時のIOCの考え方としては,経費のかからない,こじんまりとした大会の運営をよしとする機運が高まっていたので,この提案は高評価を受けた。そして,その他の手も使って,みごとに五輪招致を勝ち取った。フクシマは「under control 」という首相の名セリフのもとに,あからさまな嘘をつき,投票権をもつ委員たちを誑かした。その結果の五輪招致である。

 なぜか,最初から,五輪招致のための動機が不純である。政治家の弄びものの匂いがふんぷんとしている。

 のみならず,いよいよ五輪施設の建造にとりかかろうとしたら,建築資材費と人件費が急騰して,準備されていた「5000億円」ではとても賄いきれないということが判明した。当然である。東日本の復興,フクシマの応急処置,集中豪雨などによる災害,などが重なってあっという間に土木・建築費の高騰となった。こんなことは建築家の間では早くから指摘されていたことだった。それが現実となっただけの話である。このために,五輪が大きな壁にぶち当たっただけではなく,東日本の復興も,フクシマも,災害地の復興も,なにもかもが頓挫することになった。

 その典型的な例のひとつが,国立競技場を取り壊し,新国立競技場を建造するという計画である。このことについては,このブログでも何回もとりあげてきているので割愛する。が,その後のこと,つまり,現在進行形の話は少しだけ触れておこう。多くの専門家集団や市民団体がJSC(日本スポーツ振興センター)の計画に反対し,改善案まで提示したが,それらのすべてが無視されたまま,とうとう解体工事がはじまってしまった。まるで,沖縄の辺野古新基地建設と同じ手口だ。一切,聞く耳をもたない一方的な強行突破である。

 このことが,じつに象徴的にこんにちの国家権力の姿を浮き彫りにしている。すべてが万事,このやり方がまかりとおる不思議な国家に成り果ててしまった。いまや,言論の自由もままならず,新聞・テレビの報道までもが「放送法」などを無視して,政府自民党が公然とプレッシャーをかけてくる時代である。民主主義の憤死。

 ところが,五輪施設づくりに関しては,IOCから新しいアジェンダが発表され,開催都市の意向を最優先するということになった。そのとたんに,招致運動のときのキャッチ・フレーズであった「5キロ圏内」での五輪開催という原案はどこかに吹っ飛んでしまった。いまでは,広域開催に向けてせっせと裏工作がなされている。遠く愛知県まで開催地候補に名乗りを挙げるにいたっている。しかし,この段階にいたっても,計画・立案はすべて「密室」審議のままである。

 東京都民の意思は,議会が代行するとはいえ,ほとんど無視されたままである。少なくとも,都議会議員のなかに,オリンピックとはなにか,オリンピック・ムーブメントとはなにか,これまでの歴史過程でなにが問題となってきたのか,などについてきちんと判断できる議員がなんにんいるだろうか。心もとないかぎりである。言ってみればオリンピック・ムーブメントについては素人集団だ。だから,ここには,少なくとも専門家の意見を求める諮問委員会を設定し,議論すべきなのに,それすら十分に機能しているとはおもえない。

 この状態はいまもつづいている。少しずつ専門家と称する委員がいろいろの組織に追加されてはいるが,わたしの知るかぎりでは,みんな元オリンピック選手ばかりだ。少なくとも,オリンピックを「批評」できる専門家はひとりも加わってはいない。なぜ,加えないのか。加わってくれては困るからだ。都合の悪い人間は加えない。いまは,とくに,この傾向は顕著だ。

 長野の冬季オリンピックのころには,わたしのような人間でも,文部科学省の諮問委員会の委員として招聘され,何回かは意見を陳述する機会もあった。そして,多少なりとも,その意見は取り入れられた。あのころまでは,まだ,民意を尊重する姿勢が生きていた。いまや,皆無だ。政府が立ち上げるどの委員会もすべて「仲良しクラブ」のメンバーばかりだ。これではもはやなんの意味もない。ただ,形式と手続だけ整えれば,すべて合理化される,という詭弁にすぎない。それがまかり通っている。

 現段階での東京五輪2020の最大の問題点は,国民無視のまま突っ走っていく,権力の思いのままのまことに都合のいい道具と化してしまっていることだ。こんなことで東京五輪2020が国民のためになるとはとても考えられない。いったい,だれのための東京五輪2020なのか,根源的な問いを,いまからでもいい,発しなくてはならない。

 体育・スポーツ関連学会は無言のまま「自発的隷従」を貫こうとしているかにみえる。それを見過ごしているわれわれにも責任は重い。いまこそ,声を挙げるべきときではないのか。

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