2015年7月6日月曜日

スポーツの歴史を叙述するということについて。東ドイツを事例として(船井廣則)。

 1990年,東西ドイツが統合(Reichsgruendung )されたのち,東ドイツのスポーツの歴史をどのように叙述すべきか,という論争がつづいている。断るまでもなく,第二次大戦後,ドイツは東西の二つの国家として分断された。西ドイツは西側の資本主義や自由主義を標榜する国家と足並みを揃えて,戦後の再建に立ち上がる。一方,東ドイツはソ連を宗主国とする国家としてスタートを切る。つまり,マルキシズム(あるいは,史的唯物論)を旗印にした国家づくりである。言ってしまえば,イデオロギーを最優先する考え方が,あらゆる分野にわたって浸透していった。

 当然のことながら,東ドイツのスポーツは,ソ連を手本にした振興策が展開する。そして,スポーツ史を叙述する場合にもマルキシズムのもとでの理想的な共産主義社会建設をめざすことが大前提となった。だから,いかに厳密に史的唯物論の指標に立つ叙述がなされているかどうかが,評価の対象となった。他方,西ドイツはこれまでどおりの資本主義社会を前提とする自由競争の原理を是とするスポーツ史の叙述が展開された。そして,それぞれの国家がお互いに切磋琢磨して,スポーツ競技の世界でも,スポーツ史叙述の分野でも,激しい議論が展開されてきた。

 この両国が統合されて一つの国家となった(1990年)。当然のことながら,さまざまな分野で軋轢が生ずることになった。その一つが,スポーツ史の分野での「叙述」をめぐる論争である。つまり,史的唯物論をいかに超克して,ドイツ・スポーツ史を叙述するか,という問題である。

 この重い問題をテーマにして,船井廣則さんが定年退職を機に,長年の研究成果のエキスを注ぎ込む気合の入った研究発表をした。(日時:6月27日(土)午後2時より。場所:神戸市外国語大学。主催:「ISC・21」6月神戸例会)。補足をしておけば,2年前のスポーツ史学会大会シンポジウム(東洋大学)のシンポジストとしても登壇し,同じ問題を取りあつかった詳細な問題提起をしている。さらに,それをもとにした論考を『スポートロジイ』第3号にも寄稿している。今回は,この論考についての合評会という形式をとったものである。

 詳しいことは,当日の船井さんの発表抄録にゆずることにして,ここでは,その核心部分と,そこから派生してくる重大な諸問題について触れておきたいとおもう。それはわたしたちスポーツ史研究に携わっている者全員が背負わされた十字架のようなものでもある。

 核心部分とは,史的唯物論というイデオロギーはもとより,政治性や社会性にいたるまで,すべて排除して,スポーツを純粋なる「文化」として叙述すべきだ,という主張に対して,それはあまりにもやりすぎだろうという立場の論争である。旧東西ドイツの当事者にとっては大問題であることは間違いないのだが,遠く日本という立場から考えてみると,不思議な議論をいまも大まじめにやっているんだなぁ,と感心してしまう。しかも,「文化」という概念をそんな風に用いてしまっていいものかどうかももあやしいのに・・・。

 とはいえ,この問題は他山の火事ではすまされない。つまり,東西ドイツ統合という「大事件」が引き起こした必然の結果でもあるということを重視すれば,これと同様の,あるいは,もっと大きな問題が,わたしたちにも迫ってきているからである。しかも,それがたいした論争にもならないことの方が大問題かもしれない。

 たとえば,「9・11」という大事件が起きた。これはそれまでの世界秩序を根底からひっくり返すほどの,世界史のターニング・ポイントともなるべき大事件であった。つまり,それ以前と以後とでは,世界というものを考える認識の大前提を大きく揺るがすことになった。歴史家はいちはやくこの問題に対応すべきなのに,黙して語ろうとはしなかった。管見ながら,西谷修さんがいちはやく『世界史の臨界』(岩波書店)を投じて,歴史家たちの反論を待ったが,やはり沈黙のままだった。

 この西谷さんの問題提起を受けて,わたしたちの「ISC・21」月例研究会では,しばしば議論を積み重ね,それぞれの研究テーマに則して,再度,スポーツ史とどのように取組み,いかに叙述すべきかを模索してきている。たとえば,「グローバリゼーション」という世界的趨勢がスポーツ(文化)にいかなる変容を余儀なくしつつあるのか,については何年にもわたって,いまもなお継続して取り組んでいる。

 もう一つの問題は,「3・11」という未曾有の事態に対して,わたしたちのスポーツ史叙述はこれまでどおりでいいのか,という議論である。すでに,わたしたちは遠い未来にあるべきはずであった「破局」を迎えてしまった,という認識に立つJ.P.デュピュイの警告の書『ツナミの小形而上学』(嶋崎正樹訳,岩波書店,2011)を手にしている。その他にも,『経済の未来──世界をその幻惑から解くために』(森元庸介訳,以文社,2013年),『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』(西谷修,森元庸介,渡名喜庸哲訳,2014年)がある。そして,それらの訳者のひとりである西谷修さんもJ.P. デュピュイに鋭く反応して,この「破局」をいかにして「先送り」するか,その手立てについて多くの論考を明らかにしている。

 東西ドイツ統合によるイデオロギー論争とは違って,「9・11」も「3・11」もそのよってきたる原因を考えると,気の遠くなるような深刻な問題を内包している。それというのも,ざっくり言ってしまえば,資本主義経済やそれを支える自由競争の原理そのものがすでに「破綻」をきたしているにもかかわらず,それを隠蔽し,現体制を維持しようとする,いわば,国際社会を支配する主要国(G7,など)が居座っているからである。その結果,貧富の格差はますます拡大し,「3・11」のようなどうにもならない「破局」を迎えているにもかかわらず,旧態依然たる秩序体制を維持しようとやっきになっている。

 この問題は,あえて指摘しておけば,近代スポーツ競技の論理とまったく同根であり,その事象そのものが二重写しになっている。スポーツは善なるものだという神話を信じて疑わない人が圧倒的多数であって,このことに気づいて警鐘を鳴らす人はまだ希少である。しかし,近代スポーツ競技がすでに「臨界点」に達していることはだれの眼にも明らがだ。にもかかわらず,その発想から離脱し,移動し,新たな地平に立ち向かおうとする主張もまだまだ希少である。

 当然のことながら,スポーツ史研究の分野でも,真っ正面からこの問題を論ずる者は現れていない。わたしたちの「ISC・21」の研究会は,その希少な事例の一つなのだ。

 このような連関のなかに位置づくものとして,わたしは船井廣則さんのこの間のプレゼンテーションを受け止めている。だから,その意味できわめてセンセーショナルな問題提起だったのだ。そして,わたし自身に突きつけられた宿題も大きくて重い。が,それを避けてとおるわけにはいかないのだ。これを契機にして,これからも折あるごとに,この問題は議論していきたいとおもう。

 本来ならば,東京五輪2020を目前に控えて,こうした議論が熱く語られるべきだと考えているが,そうはならない。そこに,日本国の大きな病根が宿っている,とわたしは考えている。が,この問題はまた別のテーマを立てて論ずることにしよう。

 ということで,今日のところはここまで。

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