2015年8月23日日曜日

天保14(1843)年の相撲の稽古場風景。

 狭い空間のなかに所狭しとばかりに大勢の力士たちが描かれています。もともと浮世絵ですので,あらゆる情報を一枚の絵のなかにすべて書き込もうと欲張っています。ですから,実際の相撲部屋の稽古場はもう少し広かったと考えていいでしょう。が,それにしても,そんなには広くはなかったことは確かです。なぜなら,当時の木造家屋のなかに確保できる空間には限りがあったからです。

 
かなり大きな寺の庫裡でも,柱のない空間を確保することは容易ではありません。厨房の三和土などは,かなりゆったりとした空間になっていますが,それでも,柱と柱の間はそんなには広くありません。江戸時代に,木造家屋のなかに相撲の稽古用の土俵を設けるとなると,それはそれはたいへんなことだったとおもいます。

 ですから,逆に言えば,この絵は実態にかなり近かったのかもしれません。なぜなら,鉄筋コンクリートのビルのなかに設けられているこんにちの相撲部屋の土俵も,そんなに広いスペースではありません。やはり鉄筋・鉄骨の間隔をそんなに広くとることは建築上,無理があるということではないかとおもいます。ですから,体育館のような特殊な建築でないかぎり,広いスペースを確保することはできない,ということです。したがって,相撲部屋の稽古場は,いまも基本的にはほとんど変わらない,ということです。

 相撲部屋の稽古を見たことのある人ならすぐにわかりますが,こんなに狭いところに大きな力士がよくもまあ大勢集まって稽古をしているなぁ,と驚きます。ですから,交替制で,稽古をすることになります。入門したばかりの新弟子たちは,兄弟子たちが起きてくる前に土俵にでて,自分たちの稽古をします。そして,先輩力士たちが稽古するときには,その世話係となってなにかと面倒をみることになたます。それが,いわゆる「付き人」の役割です。

 その意味で大きな部屋の稽古場はいつも力士たちでいっぱいです。土俵の中は,いつだって二人上がれば,それで独占されることになります。ですから,それ以外の力士たちは土俵の周囲で,鉄砲やら四股やら股割などの稽古を黙々とやることになります。

 巡業などに出ますと,本格的な土俵を確保することはきわめて困難になりますので,いわゆる「山稽古」をすることになります。屋外の平らな場所に土俵の円を描き,そこで稽古をします。これなら,広い空き地があれば,土俵をいくつも描いて,一度に大勢の力士が稽古をすることができます。巡業のときの面白さの一つは,その「山稽古」をみて回ることができることにあります。それこそ,あちこちで稽古をしているのですから,稽古見物のはしごができるわけです。

 敗戦直後の,わたしがまだ小学校の4年生くらいだったときに,相撲の巡業がやってきて,友だちと見物に行ったことを思い出します。わたしは,当時の横綱・照国のファンでしたので,照国の追っかけをして一日をすごしたことを,いまも鮮明に記憶しています。

 照国などといっても,もはやわかる人は少ないこととおもいます。秋田県出身のあんこ型の力士で,色が白くて,イケメンでした。稽古をはじめると,白いからだがピンク色に染まって,それだけでもうっとりさせられました。

 いまの照の富士の「照」は,たぶん,この照国の縁起をかついでのものだとおもいます。「富士」は,東富士,北の富士,千代の富士,などのように,この名のつく横綱はいくらでもいますので,みんな憧れて,この名をもらい受けています。わたしの子どものころは,照国と東富士の両横綱の取組がもっとも人気がありました。これを,わたしはラジオの実況放送で必死になって聞いてしました。実況放送ですから,アナウンサーの語ることばをもとにして,取組の進み具合を自分の頭の中で再構成しながら,必死で聞くしかありません。いま考えてみれば,テレビで見るよりも印象が強烈だったようにおもいます。これはこれでとても味のあるものでした。

 おやおや,いつのまにか,稽古場風景とは関係のない話に脱線してしまいましたので,この稿はこの辺でおしまい。

〔追記〕写真は,雑誌『SF』月刊体育施設,August 2015,からの転載。連載・絵画にみるスポーツ施設の原風景,Vol.39.

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