2015年8月25日火曜日

『わたしたちは難破者である』(今福龍太著,河出書房新社,2015年8月刊)がとどく。

 神戸からもどってしばらくは,毎食後,横になって休むことが多くなっていた。やはり,いささか疲れたらしい。だから,鷺沼の事務所に,パソコンを背負ってでかけるだけの気力も体力もなかった。その代わりに,溝の口の周辺を散歩することをこころがけた。それで,いくぶん調子がよくなってきたので,久しぶりに鷺沼の事務所に,パソコンを背負ってでかけてみた。

 すると思いがけない「贈与」が待っていた。今福龍太さんからの新著『わたしたちは難破者である』(河出書房新社,2015年8月刊)がとどいていた。いつもの癖で,すぐにペラペラめくりながら拾い読みをし,最後に「後記」を読む。この「後記」の書かれた日付をみてびっくり。「2015年7月7日」とある。わたしの癌の肝臓への転移がみつかり,切除手術を受けた,まさにその日である。偶然とはいえ,縁は奇なり,である。

 
拾い読みした程度で,今福さんの著作を紹介するのはまことに失礼なのだが,お許しねがいたい。全部を読み切るには,いまの体調だと,まだ,相当の時間が必要だとおもわれるので・・・。

 この著作のなかに収められた一つひとつの論考のいくつかは,わたしの眼にも止まり,どこかで読んだことのあるものだったので,より一層,親しみが湧いた。しかも,それらが,こうして「編集」の手が加えられ,並べ替えられると,また,新しい生命を吹き込まれ,大きな構想の,見違えるような次元の「知」の地平が切り拓かれていくことを知り,感動することしきりである。

 そして,いつもながらの今福さんの美しい文章がわたしのこころを魅了してやまない。しかも,いま,まさに進行中の政治や経済や金融の「妄想」と「暴走」を婉曲に「批評」する,深い「根」をもった思想とことばが,とめどなく流れてわたしに迫ってくる。

 たとえば,プロローグの「あらたなる創世へ」の最後の文章を挙げておこう。

 世よ直れ。ユーヤナウレ。かつての合理世界に復旧しなければ,という強迫観念によって身動きできなくなっている政治や経済世界を後目(しりめ)に,南の島々から,〇(あおぐろ)い森の闇の奥から,こんな声が聞こえてくる。世よ直れ。ユンノーレ。そう,瓦礫のなかから新たな文化のよみがえりを想像することは,生きるなかで人間が経験してきた継続的な「世直し」の第一歩にほかならないのだ。瓦礫からたえず文化を再生させてきた人間にとって,創世は神話における一度きりのものではなかった。

 この短い文章のなかに凝縮された今福さんの「思い」がみごとに映し出されていて,しかも,わかりやすい。これまでの大きな構想で描かれてきた「世界-群島論」をベースに,ベンヤミンの「瓦礫」論という補助線を引いて,わかりやすい「解」を提示してくれている。ここのところをしっかりと念頭におくだけで,この本のいわんとするところは,ほぼ予測できるのではないか,とすらおもうほどだ。あとは,今福さんの「芸」に酔い痴れるだけだ。

 その「解」は本文の冒頭で,たちまち,明らかにされる。題して,「群島響和社会<平行>憲法」。第一縞(こう) 意志 inner will からはじまって,第一二縞 航海 voyages まで,これ以上には凝縮できないとおもわれるほど濃密な縞文がつづく。今福さんの文章に慣れない人にはかなり難解だが,熟読玩味すれば,その意味の伸びていくさきの奥の深さはおのずからみえてくる。

 これを読みながら,わたしの脳裏をかけめぐっていたことは,ヨーロッパ近代の合理主義が「非合理」「不合理」の名のもとに切り捨て,排除・抑圧・隠蔽してきた,遠い原初の人間の時代から引き継いできた「智恵」(=遺産)を,どうやって蘇生させるか,そこに賭ける今福さんの決然たる強い「意志=inner will」だった。それが,同時に,わたしのやってきたスポーツ史・スポーツ文化論に,じかに跳ねかえってきて,さて,わたしならどうする,という自省への道程だった。

 これもまた,わたしのいつもの癖だが,表紙の帯に書き込まれた「コピー」の発するメッセージとも共鳴・共振する,その強度に打たれた。

 背のところには「深いオプティミズム」とあり,表には「座礁し,還るべき故郷も失った現代人よ,難破者であることを引受よ──支配の歴史から自由になった海=群島から発せられた創世への宣言」とあり,さらに,裏には「本書は,現代人という難破者にとっての新しい憲法,新しい倫理,そして新しい音楽や踊りがどのようなものでありうるか,その淡い風景を描きだて初めてのデッサンである」とある。

 わたしは,このテクストの冒頭の論考「群島響和社会<平行>憲法」と,この帯のコピーを読んだだけで,もう,すっかり今福ワールドに惹きつけられてしまった。冒頭の論考には,<序>として,宮澤賢治の「サガレンと八月」からの引用をかかげ,中間のところに<跋>として,ヘンリー・デイヴィッド・ソローの「マサチューセッツ州における奴隷制」からの引用(これは,わたしには仏教の世界観をつよく連想させるものだった)を置き,最後に「断片的コンメンタール」が付されている。そして,この「断片的コンメンタール」が,第一縞から第一二縞までの「縞文」をより深く,より幅広く理解するための,みごとなまでのLeitfaden(導きの糸)となっている。

 しかも,ご丁寧にも,注が付されている。その書き出しは,
 「※本テクストは,川満信一による『琉球共和社会憲法C案(私案)』(1981)の真摯を受けとめ,またその機知の精神にうながされ,2014年5月15日という特別の日付において擱筆された。」とあり,さらに今福さんの所感が述べられている。

 とりあえず,ちょい読みの段階での,わたしの印象をもとに,今福さんのご新著を紹介させていただいた。いずれ,研究会でもテクストとして取り上げて,みんなで議論をしてみたいとおもっている。できることなら,今福さんにもお出でいただいて,合評会のようなことができればいいなぁ,と夢見ている。

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