2015年10月8日木曜日

もっと真剣に議論を。運動会の人間ピラミッド。

 10月3日の東京新聞「こちら特報部」に,下の写真のような記事が掲載された。読んでみて驚いたのは,その記事の薄っぺらさだ。こんないい加減な記事だと,世論はますます混乱をきたすことになる。もっと,しっかりと取材をして,問題の本質をつきとめて欲しい。

 
もっともよくない点は,事実誤認の内容が,まことしやかに書かれていることだ。少なくとも,専門家の「校閲」を経てから掲載すべきではないか。

 たとえば,以下のとおり。

 「組み体操のピラミッドは,四つんばいの人間が下から順番に積み上がっていく。」⇨このピラミッドは,ひとむかし前の方法。いま,行われているピラミッドはまったく違う原理と方法で組まれている。考案者はよしのよしろう。写真をよくみてみればわかるように,四つんばいになっているのは前列の一番下と,その後ろにつづく一列おきの土台,それに上の二段だけである。あとは,みんな足を伸ばして上体を前に倒し下の土台の肩甲骨のあたりに手をついている。つまり,四つんばいの人間は全体の一部でしかない。第一,全員が四つんばいであったら,立錐体のピラミッドを組み上げることは不可能に近い。もう一点は,全員四つんばいで組み上げていったら,上からの重力はとてつもないものになってしまう。この重力をいかに分散させて,高さを可能とするか,という点に考案者・よしのよしろうの工夫が隠されている。しかも,簡単で高度な技術を必要としない,というところに普及の秘密がある。小学生でも,7段くらいまでなら,いとも簡単にできるようになる。しかし,8段以上になると,一気に,異次元の世界に突入する。ここからは,重力に耐える体力と高度な技術と気力を必要とする。このあたりのことを記者(沢田千秋)は十分に理解していないようだ。

 大阪市教委は「先月一日,ピラミッドの高さは五段,タワーは三段までとする規制を各校に通知した」という。この大阪市教委の規制のいい加減さ。いま,行われているピラミッドの方法であれば,五段までだったら「遊び」の世界である。小学生でも,なんの感動もないだろう。ましてや中学生だったら,だれもやる気にはならないだろう。組み体操の最大のポイントは,児童・生徒がその気になる。そして,指導する先生も真剣になる。それをみる者が感動する。この三点がセットでそろったときに,初めて組み体操の魅力が生まれる。安全第一はわかる。そのとおりだ。しかし,安全圏があまりに大きすぎると,こんどは魅力に欠けてしまう。つまり,危険と背中合わせの真剣勝負,その限界への挑戦が組み体操にとっては必要不可欠な要素なのだ。だから,それを「安全に」可能とさせるためのきめ細かな手順・方法(指導・学習)が必要になってくる。議論すべきは,このあたりのことでなければならないはずである。。ただ,ひたすら安全だけを主張する人たちは,いとも簡単に「やめてしまえ」という。それでは話にならない。

 「下から六段目にいた一年の生徒(一二)が右腕を骨折するなど六人が重軽傷を負った。」⇨ピラミッドでもっとも難しいのは,ちょうと「六段目」あたりのポジションなのだ。このあたりには,小柄ながら体格のしっかりした,我慢強い生徒を配置するのがセオリーだ。この写真をよくみると,五段目の生徒の背中が伸びてしまって,六段目の生徒の右手は滑ってしまっている。そして,その上に四つんばいの馬が七段・八段と乗っかっている。ここから明らかなように,この六段目の生徒のポジションが肝心要なのだ。なのに,この六段目の生徒を後ろから支える力が逃げてしまっている。そのため,六段目の生徒の右手が滑ってしまい,五段目の生徒の腰を押す結果を生んでいる。ここの連携の技術の習得がまだ不十分だったことがここからわかる。原因のない事故はない。本番前の練習で,六段目までの組み上げ方をもっと徹底して練習しておけば,力が後ろに逃げるという事故は防げたはずである。また,途中で修正することもできたはずである。後ろの生徒にその自覚が不十分だったのだろう。ここに指導上の問題点があったのでは,とわたしは推測する。

 もう一点は,内田良(名古屋大学大学院准教授・教育社会学)氏の分析である。記者は,この人の談話に凭れかかりすぎている。一応,内田氏はこの世界(スポーツ事故)の第一人者ということになっているので,ある程度は仕方がないところではある。しかし,内田氏のこれまでの主張(柔道事故,など)の根底にあるものは,数量的合理主義である。一見したところ,いかにも合理的で,説得力があるように見える。しかし,組み体操に必要とされる技術や気力・体力についてはあまり理解があるとはいいがたい。それを,どのような段階を踏んで習得していくか,ということもあまりご存じないようだ。だから,もっぱら数量化することのできる要素に焦点を当てて,論陣を張る。が,それだけでは,片手落ちというものだろう。

 「周りにいくら教師がいても,子どもにかかる重量は一グラムも軽くはならない。」⇨教師はただ立ってみているだけではない。手をつく位置,重力のかかり具合,励まし,など注意深くアドバイスを送っているのだ。現に左から二人目の黒いシャツを着た教師は,右手を伸ばして重心を前にかけろと指示していることが見てとれる。この教師の目には,これでは崩れるということが予見できていたはずだ。だから,修正しようと必死になっていたはずだ。また,一番右側の黒いシャツを着た教師も同様に,もっと重心を前にかけろと左手で尻を押している。この失敗の原因は,力が前後に分散してしまったことにあることが,以上からも明らかとなる。教師たちは,これでは危ないと予知して,必死で檄を飛ばしていたはずである。

 「教師には高さ七メートルかち落ちてくる子どもを受け止めることはできない。」⇨もし,一番上の生徒が落ちてくるとしたら,斜めに転げ落ちてくる。それを受け止めることはできる。そのために,何人もの教師が中央部分に立っている。それは練習を繰り返していて得た経験知であろう。それをまるで「無意味」であるかのように切って棄てる内田氏の見解には納得できない。もっとも,内田氏はもっとことばを尽くして話をしているのに,記者が端折ってしまったのかもしれない。新聞から求められる談話とはそういうもので,わたしにも心当たりがある。

 「感動の呪縛というわなにとらわれリスクが見えなくなっていた。」⇨このような断定的な言い方をしているのだろうか。もし,そうだとしたら,教育社会学者のまなざしとはこの程度のものなのか,といささか呆気にとられてしまう。教育の専門家として,教師を見下しすぎてはいないか。組み体操のリスクに盲目になるほど教師は無能ではない,とわたしは信じている。むしろ,そのリスクを意識しているからこそ,教師を周囲に配置して,可能なかぎりの万全な安全対策をとっているのではないのか。ここに至るまでには,何回もの教員会議をとおして,議論を重ねてきたはずである。その上で,運動会の組み体操実施が決定されたに違いない。

 とまあ,この記事を読むだけでも,これほどの問題が浮かび上がってくる。

 結論:組み体操の問題をもっと真摯に受け止め,問題の所在を明らかにし,問題解決の方法をつきとめること。そのために,組み体操の専門家もまじえて,もっと真剣に議論をすべきである。市教委の対応にしても,あまりにおざなりで,無責任というほかない。

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